1章 11話 別れ
ジンの叫びは、いつまでも耳に残っていた。
蹴られたお腹が痛んで、思うように動けない。
少女の腕からも血が流れている。
それでも、北の崖まであと少し。
しばらく進むと、道が急に険しくなった。
木が減り、大きな岩が目立ち始める。
そして森を抜けた先で、地面が途切れていた。
北の崖だ。
「ここ?」
「この近くに裂け目があるはずだ」
少女と手分けして辺りを探す。
岩の陰や崖にできた亀裂。
それらしい場所を片っ端から確かめた。
けれど、見つからない
「本当にここで合ってる?」
「合ってるはずなんだけど」
ここまで来てありませんでした、なんてことだけはやめてほしい。
そのとき、少女が何かに気づいた。
「ねえ、あれ」
少し離れた岩場に、白い光が見えた。
何もない空間に、亀裂のようなものが浮かんでいる。
「裂け目だ!」
「……帰れる」
少女が駆け出す
僕も後を追った。
裂け目へ続く、崖沿いの細い道を走る。
ようやくここまで来た。
やっと、この子を弟のところへ帰せるんだ。
「――そこまでだ」
聞き覚えのある声がした。
背後から鬼たちがなだれ込んでくる。
一体、二体、数える間にも増えていく。
その中央をドルガがゆっくり進んできた。
「ようやく見つけたぞ」
最悪だ。
ジンの次はドルガ。
なんて運が悪いんだろう。
「角なし。その人間を渡せ」
少女が僕の隣に寄った。
もう言い逃れはできない。
捕まれば、僕は粛清される。
それでも――。
「僕が合図したら走って」
「あなたは?」
「僕はこいつらを止める」
「駄目!」
少女が僕の服を掴んだ。
「あなたも一緒に来て!」
「……僕も?」
「そうよ。一緒に人間の世界へ来ればいいじゃない!」
人間界。
考えたこともなかった。
この子と一緒に裂け目を越えて、人間たちの世界で暮らす。
ほんの一瞬だけ、そんな自分を想像した。
でも――。
「僕は行けないよ」
「なんで?」
「だって、僕は鬼だから」
少女が何か言おうとする。
その前に続けた。
「君は弟のところに帰るんだ」
少女の手を離し、僕は来た道を戻った。
数歩進んだところで、ドルガたちと向き合う。
「何のつもりだ、角なし」
後ろには少女。
前にはドルガたち。
この崖道なら、一度に来られるのはせいぜい一人か二人だ。
「ここ、狭いね」
ドルガの目が細くなった。
「それがどうした」
「あんたたち全員と戦わなくて済みそうだ」
鬼たちから笑い声が上がった。
ドルガが鼻を鳴らす。
「俺とやるつもりか?」
「そうみたいだね」
「死にたいのか」
「どうかな」
ドルガが一歩前へ出る。
僕は拳を構えた。
「いまだ!」
少女への合図だった。
けれど、後ろから足音は聞こえない。
「早く行って!」
「でも――」
ドルガが地面を蹴った。
巨体が一気に迫る。
僕は真正面から飛び込んだ。
振り下ろされた腕をかいくぐり、そのままドルガにぶつかる。
びくともしない。
「邪魔だ」
太い腕が伸びてきた。
頭を下げると、爪が髪をかすめた。
「行けよ! 僕が戦う意味がなくなるだろ!」
振り返って、もう一度叫ぶ。
少女は何かを言いかけて、それを飲み込んだ。
そして唇を噛むと、裂け目へ向かって駆け出した。
ドルガが少女を追おうとする。
その前に身体を滑り込ませた。
「どけ!」
「嫌だね!」
ドルガが横へ出れば、その前に立つ。
反対へ動けば、また塞ぐ。
狭い道のおかげで、後ろの鬼たちも僕を追い越せない。
「ちょこまかと」
ドルガが強引に前へ出た。
今度は避けなかった。
胸に飛び込み、両腕を腰に回す。
全体重をかける。
ドルガはほとんど動かない。
それでも、前へ出ようとした足は止まった。
「通すもんか!」
ドルガが僕を引き剥がそうとする。
腕に力を込めた。
一秒でも長く、こいつをここに留めるんだ。
「いい加減にしろ!」
ドルガの腕が振るわれた。
身体が横へ吹き飛ぶ。
岩に叩きつけられ、息ができなくなった。
その間にもドルガは少女を追っていく。
痛む身体を起こした。
まだだ。
まだ、あの子は裂け目に着いてない。
ドルガの背中を追い、後ろから飛びついた。
首に腕を回し、しがみつく。
「この……角なしが!」
ドルガが身体を激しく揺らす。
離すもんか。
けれど、腕を掴まれた。
力ずくで引き剥がされ、そのまま地面へ叩きつけられる。
「押さえろ!」
後ろの鬼たちが飛びかかってきた。
「離せ!」
身体をよじって暴れる。
それでも、何体もの鬼に押さえられて動けない。
ドルガが僕の横を通り過ぎる。
そのとき――。
「トウヤ!」
顔を上げた。
少女が裂け目の前にいた。
白い光が、その身体を照らしている。
「……ありがとう」
「いいから、早く行って!」
「私、鬼なんて大嫌い」
突然、そんなことを言った。
「村を襲ったのも、みんなを殺したのも鬼だった。だから、ずっと嫌い」
「うん」
「でも――あなたのことは、嫌いじゃない」
角がない僕でも。
人間の肉を食べられない僕でも。
この子の前では関係なかった。
もっと話したかった。
この少女のことを、もっと知りたかった。
「絶対、忘れないから!」
少女は泣きながら笑った。
僕も何か言おうとした。
でも、言葉が見つからない。
名前すら知らないことに、今さら気づいた。
「僕も忘れない!」
やっと出てきたのは、それだけだった。
少女は微笑んだ。
そして、白い光の中へ飛び込んだ。
「待て!」
ドルガが駆け出す。
けれど、もう遅い。
少女の姿は、光の向こうへ消えていった。
僕は地面に押さえつけられたまま、それを見届けた。
帰ったんだ。
弟の待つところへ。
そして――僕は捕まった。




