1章 9話 シロエ
「その子……誰?」
まさか、こんなところでシロエに会うとは思わなかった。
でも、ほかの鬼に見つかるよりはましだ。
掟には誰よりもうるさい。
人間を助けているなんて知ったら、きっと怒るだろう。
それでもシロエなら――話くらいは聞いてくれるかもしれない。
「シロエこそ、どうしてここに?」
できるだけいつも通りに声をかけた。
「ジンから聞いたの。喧嘩したって」
そういえば、そんなこともあった。
色々ありすぎて、すっかり忘れていた。
「トウヤが森に入っていったっていうから……ほんと、何考えてるのよ」
シロエは呆れた顔をした。
「北の崖で鬼が殺されたの。鬼狩りがこの森にいるかもしれないっていうのに」
「わざわざ探しに来たの?」
「……悪い?」
「いや、ありがとう」
シロエはため息をつく。
そこでようやく、僕の背中にいる少女へ目を向けた。
「それで、その子は?」
少女はシロエを警戒するように見ている。
シロエの眉がわずかに寄った。
「見ない顔ね」
シロエの目が少女の頭へ向かう。
そして表情が固まった。
「まさか……人間なの?」
少し迷ってから、僕は頷いた。
「うん」
シロエが息を呑んだ。
「でも、ちゃんと理由があるんだ。この子は――」
「何してるのよ!」
突然の大声に、僕はギョッとした。
「なんで人間と一緒にいるの!? まさか、その子を助けてるの!?」
「だから、説明するって。この子は人間界に帰ろうとしてて、怪我もしてるんだ。それで――」
「そんなこと聞いてない!」
シロエの声が震えていた。
怒っていると思った。
でも、少し違う。
シロエは怯えていた。
「見つかったらどうなるか、わかってるの?」
「わかってるよ」
「わかってない!」
シロエが僕の言葉を遮った。
「人間を助けたら、粛清されるのよ!」
「それは知ってる」
「粛清がどんなものか、トウヤは知らないからそんなこと言えるのよ!」
僕は思わず黙った。
シロエの顔は青ざめていた。
まるで、粛清を実際に見たことがあるみたいだった。
「シロエ?」
名前を呼ぶと、シロエはハッとした。
「とにかく、その子を衛兵に引き渡そう」
「それはできない」
「トウヤ!」
「この子を裂け目まで送ったら戻るよ。だから少しだけ黙ってて――」
ピィィィ――!
角笛の音が森に響いた。
僕たちは同時に口を閉じた。
「いたか!」
木々の向こうから声がした。
続いて、いくつもの足音が近づいてくる。
こんなところまで追手が来ているのか。
ガサガサと茂みをかき分ける音まで聞こえてきた。
少女が僕の背中で身を固くした。
「隠れよう」
僕は少女の手を引いて、近くの茂みへ向かった。
「待って、トウヤ!」
シロエに呼び止められる。
振り返ると、シロエは何か言いたそうに僕を見ていた。
でも、もう話している時間はない。
僕らは茂みの奥へ身を潜めて、息を殺す。
すぐに衛兵の声が聞こえた。
「シロエじゃないか。こんなところで何をしている?」
「……トウヤを探してたの。ジンと喧嘩して森に入ったって聞いたから」
「角なしか。さっきドルガ様たちと一緒にいるのを見たぞ」
松明の明かりが木々の隙間から差し込んでくる。
続けて衛兵が尋ねる。
「それより、逃げた人間を見なかったか?」
シロエは答えない。
沈黙がやけに長く感じた。
ドクン、ドクンと心臓が鳴る。
頼む。
何も言わないでくれ。
「どうした?」
衛兵が不審そうに尋ねる。
長い沈黙のあと、シロエが口を開いた。
「……見てない」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
シロエが嘘をついた。
「そうか。見つけたら知らせろ」
そう言って、衛兵は去っていった。
僕と少女は茂みから出た。
シロエは衛兵が消えていった方を、じっと見ている。
「シロエ」
声をかけると、肩がわずかに揺れた。
「ありがとう」
「勘違いしないで。その子を助けたわけじゃないから」
シロエは少女をちらりと見た。
「トウヤが捕まるのが嫌だっただけ」
「それでも、助かったよ」
「お礼なんていらない」
シロエは唇を噛んだ。
そのとき、少女が口を開いた。
「粛清って、なに?」
僕は答えるか迷った。
「あなたが殺されるってこと?」
「……見つかったら、たぶん」
少女が黙った。
「じゃあ、ここからは一人で行く」
「え?」
「裂け目は北の崖にあるんでしょ。場所さえ分かれば、あとは自分で探せる」
「でも、その足じゃ――」
少女は歩き出そうとした。
けれど、数歩も進まないうちに足元がふらつく。
「無理だよ」
「無理でも行く。私のせいであなたが殺されるよりいい」
「君のせいじゃない」
「でも――」
「僕が君を帰すって決めたんだ」
少女の言葉を遮った。
「だから、最後まで行くよ」
少女が黙った。
「どうしてそこまでするの?」
シロエの泣きそうな声がした。
「その子とは、会ったばかりなんでしょ?」
「うん」
「だったら、どうして?」
すぐには答えられなかった。
自分でも分からない。
それでも、この子を見捨てたら、きっと後悔する。
「ちゃんと人間界まで帰してあげたいんだ」
シロエが小さくつぶやく。
「私たちは?」
「え?」
「私とジンはどうなるの?」
「どうなるって……」
「ずっと三人で一緒にいようって言ってたじゃん」
シロエはうつむいた。
「こんなことが知られたら……もう一緒にいられなくなるんだよ」
その言葉に胸が痛んだ。
シロエもジンも大切だ。
小さいころから、ずっと一緒だった。
角のない僕を馬鹿にする鬼はたくさんいたけど、二人だけは違った。
「シロエもジンも大事だよ。そんなの決まってる」
「だったら帰ろうよ」
シロエが顔を上げた。
「もう衛兵に引き渡せとは言わない。その子のことも黙ってる」
「……」
「だから、トウヤは私と里に帰ろう」
「嫌だ」
「どうして!」
「シロエとジンが大切なのと、この子を見捨てるのは別の話だよ」
シロエは返す言葉を失ったようだった。
「ちゃんと裂け目まで送る。それから僕も戻る」
それで何もかも元通りになる。
僕は本気でそう思っていた。
でも、シロエの表情は晴れなかった。
「ジンが知ったらどうするの?」
「ジン?」
「あいつ、人間のこと嫌ってるでしょ。人間を助けたなんて知ったら――」
「ジンにもちゃんと説明する。喧嘩したままなのも嫌だし」
「ジンが分かってくれると思ってるの?」
少し考えた。
さっき殴られた頬が、まだ少し痛む。
それでも――。
「ジンは親友だ。ちゃんと話せば――」
「俺に何を話すんだよ、トウヤ」
背後から声がした。
耳にこびりつくほどよく知っている声。
振り返ると、木々の影から、ジンがゆっくりと姿を現した。
いつもの笑顔はない。
暗闇の中で、赤い瞳だけが異様に光っていた。
「人間を連れて何してんだ」
――僕は初めて、ジンが怖いと思った。




