9 神の化け物
神の化け物
――ギィィィィィィィィ――――――。
錆びついた巨大な鉄扉が、耳障りな不協和音を地下空間に響かせながら、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。
その暗黒の隙間から溢れ出してきたのは、単なる魔力の波動ではなかった。それは、この世のあらゆる負の感情を煮詰めてドロドロにしたような、濃縮された『悪意』そのものだった。空気が目に見えて歪み、重くなる。肺を冒すような澱んだ気配。ただそこに立っているだけで、凄まじい不快感と悪寒が一同を襲った。
「っ……、あ、う……っ!」
セレシスは激しい目眩に襲われ、よろめきながらも胸元の銀の聖印を両手で引きちぎらんばかりに強く握り締めた。ガタガタと両膝が震え、歯の上下がカチカチと合わない。彼女の純潔な魂と本能が、かつてない音量で警鐘を鳴らしていた。
――近づいてはならない。見てはならない。今すぐすべてを投げ出して、光の当たる地上へと逃げろ、と。しかし、恐ろしさに涙を滲ませながらも、セレシスは決して後ろへは下がらなかった。恐怖で千切れそうな心を、子供たちを守らなければという義務感だけで繋ぎ止め、必死に目を見開く。
そして、彼女だけではない。この場にいる『黒鴉』の面々は、誰一人として一歩も後退しなかった。
ノアも、カインも、ソフィアも、影に潜む夜烏たちも。全員が己の武器に手をかけ、あるいは拳を血が滲むほどに握り締め、闇の奥から這い出てくる『絶望』を冷酷に睨み据え続けていた。
やがて――。
――ズシン。
石造りの床を、生体のものではない不自然な重量が踏みつける、重い音が響いた。鉄扉の向こうから、ぬうっとその忌まわしい輪郭を現した質量を目にした瞬間、普段はどんな窮地でも不敵に笑うカインの顔から、完全に余裕が消失した。
「……なんだ、ありゃあ。おい、冗談だろ……」
珍しく、カインの野太い声に、明確な驚愕と剥き出しの嫌悪が混じる。そこに現れたのは、かつて「人間だったもの」の成れの果てだった。だが、もはやそれを人間と呼ぶことは、生命への侮辱でしかなかった。
身長は優に三メートルを超えている。全身を覆うのは、死人のようにくすんだ灰色の、トカゲのように硬質な皮膚。その下では、異常な太さまで膨れ上がった筋肉が、まるで無数のミミズがのたくるようにピクピクと脈打っている。背中からは、皮膚を突き破って肥大化した、黒く濁った骨の棘が幾本も不揃いに突き出していた。
そして何より――全員の正気を削り取ったのは、その怪物の胸部から腹部にかけての光景だった。
そこには、無数の「人間の顔」が、まるで泥に埋まる石のようにびっしりと埋め込まれていたのだ。
男の顔、女の顔、老人の顔、そして――幼い子供の顔。
それらの顔は完全に死んでいるのではない。肉の沼に取り込まれたまま、今も、生きている。苦痛に激しく歪んだ顔、絶え間なく涙を流す顔、声にならない絶叫を上げ続ける顔。それらが異形の肉体と同化し、蠢いている。それはまさに、人間の悪意が地上に具現化させた「歩く地獄」そのものだった。
「うっ……お、おぇ……っ!」
セレシスはついに堪えきれず、口元を両手で押さえてその場に頽れた。強烈な吐き気が込み上げる。しかし、それ以上に彼女を苦しめたのは、胸の中に濁流となって直接流れ込んでくる、あの怪物からの精神的波動だった。数え切れないほどの悲鳴。底なしの絶望。世界への怨嗟。引き裂かれるような苦痛の中で助けを求める、無数の小さな子供たちの声。
彼女の鋭敏すぎる『白い祈り』の感性は、その怪物の正体が何であるかを、残酷なまでに完全に理解してしまった。
「この人たち……っ、まだ……まだ、生きてる……! あの体の中で、ずっと、ずっと……!!」
血を吐くようなセレシスの震える声。
その言葉が地下牢に響き渡った瞬間、ただでさえ凍りついていた空間の空気が、さらに完全に凝固した。
パチ、パチ、パチ、パチ。
そんな静寂を破ったのは、小気味よい、しかしどこまでも神経を逆撫でする拍手の音だった。
ベルグ=アシュフォードが、狂おしいほどの歓喜を顔中に張り付かせ、嬉しそうに手を叩いていた。
「素晴らしい! 素晴らしいよ、お嬢さん! さすがは大教会の聖職者、霊的な感性が並の人間とは大違いだ!」
パン、パン、と軽い音を響かせながら、ベルグの細い目が三日月のように歪み、狂気の光が爛々と輝く。
「 彼らは皆、まだ『生きている』のさ! 我々が長年研究を重ねた魔獣の因子、禁忌とされる肉体融合の秘術、組織を強制変異させる人体強化薬、そして――肉体が崩壊しても魂を現世に繋ぎ止める、特製の魂固定術式! これら十年分の執念と最新技術の結晶がこれだ!」
ベルグは狂ったように両腕を広げ、背後の怪物を、まるで世界最高の芸術作品であるかのように誇らしげに紹介した。
「この一個体を完成させるための実験に失敗し、肉塊となって処理された孤児どもは数百人に上る。適応の成功率は一パーセントにも満たなかった! だが、その尊い、尊い犠牲の積み重ねの先に、ついに生まれたのが――」
ベルグの口の端から、ドロリとした涎が垂れる。
「我がアシュフォード商会の神の化け物だ!!」
――その瞬間だった。
ソフィアの脳内で、理性のタガが完全に消し飛んだ。
ドンッ!! と、凄まじい衝撃音とともに石畳の床がクモの巣状に砕け散る。
ソフィアの全身から吹き出した殺気が物理的な突風となり、彼女の身体を一瞬で怪物の眼前へと到達させた。常人の目では捉えられない、光速の刺突。その手に握られた銀色の短剣が、怪物の首筋を捉える。だが。
ガギィィン!!
金属同士がぶつかったような火花が散った。ソフィアの刃が通らない。
「……は?」
初めてソフィアの目が見開かれた。さらに次の瞬間。
ゴォォォォォッ!!
怪物の、丸太のように太い灰色の右腕が、空気を爆破しながら横薙ぎに振り抜かれた。それは単なる腕の振りではない。凝縮された質量と魔力が生み出した、不可視の衝撃波の壁。空気そのものが強固な盾となったかのような圧倒的な圧力が、突進していたソフィアの身体を正面から捉える。
「っ……く!?」
防ぎきれないと直感したソフィアは、空中で咄嗟に短剣を交差させてガードに回るが、凄まじい衝撃に木の葉のように弾き飛ばされ、背後のレンガの壁へと叩きつけられた。
(おいおい……あのソフィアが…………)
カインはソフィアが怪物の理不尽なまでの力で吹き飛ばされたのを見て、より警戒を強めた。
その時だった。
キメラ・ゼロの胸部。そこに埋め込まれた無数の顔の中で、ひときわ小さな、まだ幼い子供の顔の一つが、ゆっくりと血混じりの涙を流した。
セレシスの身体が、その光景を見て、拒絶を叫ぶように激しく震える。
『たすけて……』
聞こえた。
脳内に、鼓膜に、確かに直接聞こえた。ベルグの狂った笑い声の裏で、誰にも届かないはずの、消え入りそうな小さな声が。
『お母さん……痛いよ……たすけて……』
それは、まだ十歳にも満たないであろう子供の声だった。
異形の肉体に取り込まれ、その魔力の源として擦り切れるまで消費されながらも、その子供の魂はまだ完全に消滅していなかった。今この瞬間も、終わりのない地獄の苦しみの中で、泣き続けているのだ。
「そんな……そんなのって、ないよ……」
セレシスの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちた。彼女は砕けた床に爪が割れるほど強く指を立て、血を滲ませながらベルグを睨みつけた。
「まだ生きてるのに……お家に帰りたがってるのに……! なんで、こんな酷いことができるの……!!」
「もちろんだとも、お嬢さん」
ベルグはセレシスの絶望を極上のワインでも味わうかのような目で眺め、当然のように首を縦に振った。
「完全に死んでしまったら、負の感情の供給が止まってしまうからね。彼らが今も感じ続けている『苦痛』も、『恐怖』も、『絶望』も、そのすべてがこのキメラ・ゼロを駆動させる最高の魔力燃料になるのだから。彼らは死ぬまで、私たちのために働き続けなければならないのさ!」
その言葉が、地下牢の空間に響き渡った、その瞬間。
ノア・クロードの足が、動いた。
トン、と。
一歩。静かに、あまりにも静かに、ノアは前へと足を踏み出した。
だが、そのたった一歩が床に触れた瞬間、地下牢を支配していたすべての空気が、文字通り一変した。
ベルグの狂った笑いが、ピタリと止まる。
先ほどまで咆哮を上げていたキメラ・ゼロまでもが、その異形の身体を強張らせ、動きを停止させた。生物としての本能が、彼らの魂の根源が、最大級の恐怖とともに察知したのだ。
――目の前にいる、あの小さな少年こそが、この世で出会ってはならない『終わりの象徴』であると。
ノアはゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間からのぞく、その黒い瞳。
そこには、もう怒りすらなかった。ベルグへの憎しみすら、そこには残っていなかった。
ただそこにあるのは、絶対零度。世界そのものを凍結させ、灰すら残さず消滅させるための、純粋極まる『殺意』だけだった。
「……理解した」
静かな、囁くような声だった。
だが、その声は地下牢の隅々にまで、驚くほど明瞭に響き渡った。
カインも、ソフィアも、セレシスも、息をすることさえ忘れてノアの背中を見つめていた。空間全体が、ノアの一挙手一投足に耳を澄ませ、怯えているようだった。
「お前たちは」
ノアの絶対零度の視線が、ベルグの顔を真っ直ぐに射抜く。
「この世界に、生かしておく価値が一切ない」
ベルグの背筋を、今までに経験したことのない、刺すような冷たい衝撃が駆け抜けた。
恐怖。それは、彼がこれまで多くの子供たちに与え、貪ってきた感情そのものだった。目の前にいるのは、ただの子供ではない。黒鴉の総帥という肩書きすら生ぬるい。そこにいるのは、人間の姿を模しただけの、抗うことの許されない『天災』そのものだった。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が滝のように流れる。だが、ベルグはここで引くわけにはいかなかった。引けば、アシュフォードの復活も、己の野望も、すべてがここで潰える。
「ひ、ヒィ……っ! や、やれるものならやってみろ!!」
ベルグは恐怖を打ち消すように、狂ったように顔を真っ赤にして絶叫した。
「いけぇッ、キメラ・ゼロ!! その生意気なガキを、骨ごと木端微塵に噛み砕け!! 黒鴉総帥を、今すぐ殺せぇぇぇ!!」
――オオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!
空間を激しく震わせる、悍ましい複合の咆哮。三メートルを超える灰色の怪物が、石畳の床を爆破しながら、猛烈な速度でノアへと突進を開始した。大気を引き裂く巨大な拳。目の前のすべてを圧殺せんとする、圧倒的な質量と暴力の嵐。迫り来る死の光景に、セレシスは恐怖で息を呑み、ルークは「ノア兄ちゃん!」と叫び声を上げようとした。
ただ一人、ノア・クロードを除いて。
ノアは動かなかった。
襲い来る怪物の突進から、避ける素振りすら見せない。武器を構えることも、防御の姿勢をとることさえしなかった。
ただ静かに、哀れなゴミを見るような目で、迫り来る怪物を見つめ返す。
そして。
怪物の、山のような巨大な拳が、ノアの鼻先に届く、その文字通りの刹那。
ノアの唇が、僅かに動いた。
「――邪魔だ」
ノアが指を動かした。その瞬間。キメラ・ゼロの突進が停止した。
巨大な怪物の身体が、不自然な形で空中に縫い止められる。
地下牢が静まり返った。ベルグの笑みはいつのまにか消えていた。
「……な」
ノアは怪物を見上げた。その黒い瞳には怒りすら残っていない。
「お前は、そこで待っていろ。まずは飼い主からだ」
ベルグの背筋を、今まで感じたことのない恐怖が駆け抜けた。




