10 絶望する者
「――邪魔だ」
ノアの口から、冷徹極まるその一言が静かに落とされた、まさにその瞬間だった。
地下牢全体の空気を激しく震わせ、狂乱の破壊衝動とともに迫っていたキメラ・ゼロの巨体が、不自然なほど唐突に、完全に停止した。それは凄まじい突進の慣性を無視し、あたかもその座標だけが世界から切り離されたかのような、おぞましい静止だった。轟音を撒き散らし、床の石畳を粉砕しながら肉薄していたはずの三メートルを超える異形が、目に見えない強大無比な力によって空中でピタリと静止している。
「……なっ!? 何が、何が起きた……!?」
ベルグの青白い顔から、それまで張り付いていた狂気の笑みが消え失せた。その細い目が驚愕に丸く見開かれ、自身の最高傑作に何が起きたのかを必死に理解しようと視線を彷徨わせる。
キメラ・ゼロは、内部で激しく暴れていた。全身の灰色の筋肉を破裂せんばかりに膨張させ、背中の黒い骨棘を激しく擦り合わせ、嫌な軋み音を立てながら前へ進もうと狂ったように身悶えしている。
しかし、動かない。指先一本、肉の一片すらも、ノアの領域へと進めることができない。
たった一歩の全身すら許されないその光景は、まるでこの世界の法則そのものが、ノア・クロードという少年の意志に従って怪物の存在を否定し、拒絶しているかのようだった。
「オオオオオオオオオオオオオッ!!」
怪物が怒りと拒絶の咆哮を上げる。その凄まじい音圧と赤黒い魔力の衝撃波が地下牢を再び激しく震わせ、周囲のレンガ壁に新たな亀裂を刻み込んでいく。
だが。
ノア・クロードは、髪一筋さえ揺らすことなく、微動だにしなかった。
ただ、その深淵のような黒い瞳で、眼前の巨体を見上げるだけ。
その佇まいは、圧倒的な怪物を前にして恐怖する少年などでは断じてなかった。檻の中に囚われた、哀れで醜悪な家畜の肉質を冷酷に値踏みしている、絶対的な『捕食者』そのものの眼差しだった。
「総帥……? いったい、何を……」
カインが大槌を構えたまま、畏怖を込めてそのハチミツ色の目を細めた。長年ノアの側近を務め、その規格外の強さを誰よりも知っているはずの彼でさえ、今ノアが発動した「見えない圧力」の正体が掴めない。ただ、肌を刺すような本能の警報が、カインの巨体を戦慄させていた。今この場で、あの三メートルを超える人造の化け物よりも、その前に立つ十代半ばの我が主君の方が、何十倍も、何百倍も「恐ろしい存在」であるという事実を、魂が理解していた。
ソフィアもまた、暗器を握る指先を強張らせ、呼吸を止めてノアの背中を凝視している。彼女の狂気的な殺気すらも、ノアの放つ絶対零度の前では、小さな火にすらなれずに掻き消されていた。
「な、何をした!? 何を使った、黒鴉のガキがぁッ!!」
ベルグが声を裏返らせて絶叫する。自身の絶対的な優位が、少年のたった一言で完全に瓦解させられた恐怖に、その細い身体が小刻みに震え始めていた。
だが、ノアからの返答は一切ない。
ノアは、ただゆっくりと、無造作に前へ向かって歩き出した。
コツ。
コツ。
コツ。
壊れた静寂の中に、ノアの靴底が砕けた石畳を踏み締める音だけが、等間隔で冷酷に響き渡る。怪物の目の前、その巨大な拳が届く位置まで、ノアは何の警戒もなく近づいていく。それでも、彼の視線は怪物の凶器には向いていなかった。その胸部から腹部にかけてびっしりと埋め込まれた、無数の「人間の顔」から、片時も離れていない。
泣いている小さな子供の顔。苦痛に顔を歪める少女の顔。絶望の中で助けを求める少年の顔。
肉の沼に囚われた彼らは皆、自分たちを見つめるノアの黒い瞳を見ていた。怨嗟に狂っていたはずの彼らの瞳が、ノアの絶対的な闇に触れた瞬間、まるで母の温もりに触れたかのように、最後の救いを求める「希望の目」へと変わっていく。
「……なるほど。そういうことか」
ノアが、小さく、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「核は――お前だな」
怪物の胸部中央。無数の顔の波に埋もれるようにして、ひときわ深く肉と同化している、一人の少年の顔があった。その少年の表情は、他の顔とは明らかに違っていた。世界への怨嗟や痛みの絶望に染まりきることなく、ただ必死に、何かを訴えかけるようにノアを見つめ返している。ノアの驚異的な観察眼と裏社会を生き抜いてきた直感が、瞬時にその意味を見抜いた。この肥大化した醜悪な肉体を繋ぎ止め、無理やり駆動させている中心。アシュフォードの実験の犠牲者であり、この化け物の「核」となった魂。それがこの少年だったのだ。
「助けて、ほしいか」
ノアが問いかけると、怪物の胸の少年が、微かに震えた。その虚ろな目から、一筋の透明な涙が、血の汚れた灰色の肌を伝って流れ落ちる。
ノアは、それに対して静かに、しかし絶対の意思を込めて頷いた。
「分かった。お前たちの苦痛は、ここで終わらせる」
その一言が、地下牢の空気を優しく包み込んだ。
その瞬間、後方でへたり込んでいたセレシスの目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。彼女の『白い祈り』には、明確に視えていた。ノアが言葉を発した瞬間、怪物の中に閉じ込められ、永遠の地獄に泣き叫んでいた何百もの魂たちが、まるで救済の光に照らされたかのように、一瞬だけ安堵の表情を浮かべ、その呪縛が緩んだのを。人間の命を、その尊厳を誰よりも理解しているのは、あの冷酷に見える黒鴉の総帥なのだと、セレシスは激しい感動とともに理解していた。
「ふ、ふざけるなッ! 戯言を抜かすなァ!!」
魂の対話を完全に無視されたベルグが、己の恐怖を隠すように、顔を真っ赤にして再び絶叫した。
「キメラ・ゼロ! 何を遊んでいる!! 潰せ! 今すぐその生意気なガキの頭を、肉片一つ残さずに噛み砕いて殺せぇぇぇ!!」
主の狂気的な命令に強制され、怪物が再び、鼓膜を裂くような咆哮を上げた。
ノアの魔力によって止められていた巨体が、術式を強引に焼き切るようにして再び動き出す。
引き絞られた灰色の巨大な拳が、今度こそノアを圧殺すべく、天から振り下ろされた。地下牢の空間そのものを破壊し、地上の倉庫ごとすべてを押し潰すほどの、圧倒的な質量と暴力の結晶。直撃すれば、子供の身体など、文字通り跡形も残らない。
だが。
ノアは、やはり避けない。
迫り来る怪物の巨拳が、彼の前髪を激しく吹き散らし、目前にまで迫る。
そして――。
――ドン……。
地下牢に響いたのは、驚くほど鈍く、短い音だった。たった、それだけだった。
空間を破壊するはずだった怪物の巨大な拳が、ノアの頭上、わずか数十センチの位置で、完全に制止していた。
片手。
たった、片手。
ノア・クロードは、自身の華奢な右手一本を無造作に突き上げ、怪物のすべてを注ぎ込んだ一撃を、正面から、完全に受け止めていた。
地下牢が、今度こそ完全な、水を打ったような静まり返りに支配された。
ベルグの顔が、今度こそ恐怖と理解不能の拒絶によって、醜く引き攣った。
「……は? え……?」
信じられない。あり得ない。そんなことが、人間の、それも子供の肉体で可能であるはずがない。数百人の孤児たちの命を削り、十年の歳月と莫大な資金を費やし、禁忌の術式を注ぎ込んで完成させた、対黒鴉用の決戦兵器なのだ。国家の近衛騎士すら一撃で倒せるはずの、アシュフォードの執念の塊なのだ。
それを、目の前の、武器すら持たない一人の少年が。
ただの、片手一本で。
顔色一つ変えずに、受け止めている。
「ば、馬鹿な……馬鹿な馬鹿な馬鹿な!! そんなことがあってたまるか! 貴様は、貴様はいったい何なんだぁぁぁッ!!」
ベルグの声が、ガタガタと激しく震える。初めて、彼は真の意味で理解した。自分がどれほど恐ろしい「怪物」を眠りから覚まし、その尾を踏んでしまったのかを。
ドゴゴゴ……と、ノアの足元の石畳が、怪物の拳から伝わる凄まじい圧力の余波によって粉々に砕け散り、陥没していく。
しかし、その破壊の渦の中心にいながら、ノアの身体は一ミリどころか、髪の毛一本分さえも微動だにしていない。怪物の渾身の力を、底なしの深淵のようにすべてその小さな身体で吸収し、無効化していた。
「……重いだけだな」
ノアが冷たく言い放ち、拳を受け止めていた右手の指先に力を込めた。
――ボキィィィィィィィィッッッ!!!!
地下牢に、肉と骨が同時にねじ切られる、悍ましい破壊音が響き渡った。
ノアが指を握り込んだ、ただそれだけの動作で、キメラ・ゼロの丸太のような右腕全体に、一瞬でガラスのような無数の亀裂が走り、内部の骨組織ごと完全に粉砕されたのだ。
「オオオオオオオオオオッッ!? ギャァァァァァァァッッ!!」
絶叫。悲鳴。そして純粋な苦痛。
無敵を誇るはずの『神の化け物』が、生まれて初めて、その異形の喉を裏返らせて本気の苦しみの声を上げた。ベルグが信じられないものを見る目で、キメラ・ゼロの破壊された腕を見つめ、目を見開いた。
「や、やめろ……! 我がアシュフォードの、最高の芸術が……!!」
「安心しろ」
ノアは男の泣き言など、一切耳に入っていない。興味すらない。
ただその黒い瞳で、苦痛に身悶えする怪物を見上げ、静かに、確実に告げた。
「お前たちを、これ以上傷つけはしない。お前たちを『殺す』のではない」
それは怪物の中の、今も涙を流し続ける無数の魂たちへ向けた、黒鴉総帥としての「救済の誓い」だった。
「呪縛を解く。――全員、本来あるべき場所へ帰してやる」
その言葉に。ノアのその確信に満ちた声に。
怪物の胸に埋め込まれた子供の顔の一つが、血の涙を流しながらも、この地獄に落とされてから初めて、ほんの少しだけ、救われたように笑った。
そして。ノアはここで初めて、怪物の背後に隠れて震えるベルグへと、その視線を向けた。
その絶対的な死の視線を受けた瞬間、ベルグの全身から、文字通りすべての血の気が引いた。心臓が凍りつき、呼吸の仕方を忘れたかのように喉がヒくつく。
「ひっ……、あ、あ……」
情けない悲鳴が、ベルグの薄い唇から漏れ出た。
逃げたい。今すぐ、この場から、この少年の視界の届かない世界の果てまで逃げ出したい。だが、足が硬直して動かない。蛇に睨まれた蛙。いや、絶対的な捕食者の前に引きずり出された、哀れな害虫。まさにそれだった。
ノアが一歩、踏み出す。
ベルグは、本能的な恐怖に突き動かされ、無様に一歩後ろへ下がる。
ノアがまた一歩、距離を詰める。
ベルグは狂ったように頭を振りながら、また一歩下がる。
気づけば、数分前まで「誘い込まれた獲物」と黒鴉を嘲笑っていたはずのアシュフォード商会の元頭領は、ただの少年の足音に怯え、無様に逃げ惑うだけの憐れな道化に成り下がっていた。
「ま、待て……! 頼む、待ってくれ! 話し合おう! 金ならいくらでも出す! 組織の、黒鴉の利益になる取引を……!」
「待て、だと?」
ノアの声は、どこまでも静かだった。
だが、その感情の欠落した静けさこそが、地下牢の何よりも、ベルグの創り出した化け物よりも恐ろしかった。
「身寄りのない子供たちを実験に使い、その肉体を弄んだ」
「死なせることもせず、その魂を化け物の肉に閉じ込め、永遠に泣かせ続けた」
「俺の家族を、ただの『商品』と呼び」
「ルークを、俺を誘き出すための『餌』にした」
一歩。また一歩。ノアが冷酷にベルグを追い詰めていく。
ベルグは腰を抜かしそうになりながら、必死に後退を続ける。
「貴様はこれまで、己の私欲のために、何人の子供を泣かせた?」
その、地獄の裁判官のような問いかけに。
ベルグは、何も答えることができなかった。数えたことなど、一度もない。貧民街のゴミどもの命など、覚えてさえいない。だが、今、そのすべてのツケが、目の前の少年の姿をして自分を殺しにきていることだけは、理解できた。
「なら」
ノアの黒い瞳が、残忍なほどに細められる。
「今日、この場所でだけは。――お前が、死ぬほど泣け」
ドン、とベルグの背中が冷たいレンガの壁に激突した。
もう逃げ場はない。
その時だった。
腕を破壊され、沈黙していたキメラ・ゼロが、残された魔力をすべて暴走させるように、再び天を仰いで悍ましい咆哮を上げた。
それは主であるベルグを守ろうとする最後の本能か、あるいは――自分たちをこの地獄に閉じ込めた主を、道連れにしようとする魂たちの怨嗟の叫びか。
地下牢全体が、これまでとは比較にならないほど激しく激震を始めた。天井のレンガが次々と崩落し、地面が大きく割れていく。そして怪物の胸部、無数の顔の隙間から、禍々しい赤黒い光の波動が、爆発的に膨れ上がり始めた。
「な……ッ!?」
ソフィアがその異変に目を見開いた。
「総帥! 離れてください!!」
「クソが、まずい! そいつ暴走しやがるぞ!!」
カインが叫び、子供たちを庇いながら自身を盾にするように前に出る。
キメラ・ゼロの内部に蓄積された数百人分の絶望の魔力が、限界を超えて一気に膨張していく。このままでは、この地下牢はおろか、東区倉庫街一帯を跡形もなく吹き飛ばす、最悪の自爆特攻となる。
その破滅の光を前にして、壁に追い詰められていたベルグの顔が、一転して狂気の歓喜に染まった。
「ハハハハハハハハ!! そうだ! それでいい!!」
ベルグは狂ったように髪を掻きむしり、血走った目で高笑いを上げた。
「いけぇッ、キメラ・ゼロ! すべてを道連れにしろ! 素晴らしい、私を殺そうとした罰だ! 黒鴉も、孤児どもも、教会の女も、全員巻き込んでここで灰になれぇぇぇぇぇ!!」
臨界点を迎え、膨張していく赤黒い光の球。
ノアは、ゆっくりと振り返った。
そこには、恐怖に身を寄せ合いながらも、自分を信じて見つめてくる子供たちの姿があった。
涙を流しながら、それでも「ノア兄ちゃんなら大丈夫」と、確信に満ちたハチミツ色の瞳で見つめてくるルークの姿があった。
必死に神への祈りを捧げ、結界を張ろうとしているセレシスの姿があった。
そして――怪物の中で、どうか自分たちを終わらせてくれと、静かに目を閉じる無数の魂たちの姿があった。
ノア・クロードの黒い瞳が、静かに閉じられた。
怒りは、もう完全に昇華された。
残っているのは、総帥としての、そして『家族』を守る者としての、絶対的な義務。
ノアの瞳が、ゆっくりと、力強く開かれる。
――その瞬間。
ノアの背後の闇から、世界を包み込むほどに巨大な、漆黒の『鴉の翼』の幻影が、圧倒的な神威を伴って漆黒に現出した。
地下牢全体の揺れが、その翼の羽ばたき一つで、完全に、ピタリと抑え込まれる。
「……うそ、だろ……」
カインがその圧倒的な「王の器」の顕現に、息を呑んだ。ソフィアもまた、その美しくも恐ろしい闇の翼に、魅了されたように目を見開く。
ルークだけが、誇らしげに、憧れに満ちた最高の笑顔で呟いた。
「……ノア兄ちゃん」
ノアは、暴走する赤黒い光の巨獣に向かって、静かに、一歩前へ出た。
その右手に、黒鴉の初代から受け継がれし、すべてを無に帰す漆黒の魔力が集束していく。
「――そこで、静かに眠れ」
ノアが右手を掲げる。
次の瞬間。
キメラ・ゼロの胸に埋まる少年の顔が、初めて笑った。
そして。地下牢を埋め尽くす赤黒い光がーー
一瞬で漆黒に塗りつぶされた。




