11 黒き救済
「――そこで、静かに眠れ」
ノアの口から零れ落ちた絶対の宣告。
彼が静かに右手を掲げた瞬間、地下牢を埋め尽くしていた狂乱の赤黒い光が、まるで巨大な夜の深淵に呑み込まれる炎のように、頼りなく揺らぎ、その輝きを失っていく。
キメラ・ゼロの胸部に醜く埋め込まれた、あの中心の少年の顔が、ノアの言葉に反応するように微かに震えた。血混じりの涙で濡れた瞳が、じっとノアを見つめている。
口は動かない。声にもならない。だが、その魂が発する「助けて」という悲痛な叫びは、確かにノアの胸の奥へと届いていた。
「分かっている」
ノアは、感情を排した、しかし揺るぎない声で答えた。
「お前たちを、これ以上泣かせない。その呪縛を、俺が断つ」
ノアのてのひらに、冷徹極まる漆黒の魔力が集束していく。
それは猛り狂う炎ではない。空間を裂く雷でもない。音もなくすべてを等しく呑み込み、安息を与える、底なしの「深い夜」そのものだった。その黒い魔力は、細く繊細な無数の糸となり、怪物の醜悪な肉体へと静かに伸びていく。
その光景を目にしたベルグは、己の「世界のすべて」が否定されていくような感覚に、顔を引きつらせた。
「な、何をしている……!? やめろ! 触るな! それは我がアシュフォードの最高傑作だ! 十年だぞ……! 十年の歳月と、数百の命を燃料にして、ようやく創り上げた私の――」
「黙れ」
たった一言。
それだけで、ベルグの狂った金切り声は喉の奥で完全に潰された。
ノアの射抜くような視線が一瞬だけ向けられる。ただそれだけで、ベルグは心臓を氷の楔で突き刺されたかのように全身を硬直させ、言葉を失った。
「お前のものではない」
ノアは怪物を見据えたまま、氷点下の声を響かせる。
「この子たちは、誰かの商品でも、燃料でも、実験材料でもない。ただの、子供たちだ」
漆黒の糸が、キメラ・ゼロの胸部へと深く、沈み込んでいく。
怪物の肉体が大きくのけぞり、天を仰いで絶叫した。
「う、あ……っ、く……!」
セレシスはその場に両膝をついた。
彼女の胸元の聖印が、地下の闇を押し返すように、激しく、痛々しいほどの白い光を放ち始めていた。
怪物の呪縛が緩んだことで、彼女の『白い祈り』の中に、堰を切ったように無数の子供たちの「生々しい記憶」が流れ込んできたのだ。
――お家に帰りたい。
――お母さんに会いたいよ。
――痛い、寒い、ここから出して。
――もう嫌だ、誰か、お願いだから終わらせて……!
セレシスの目から、大粒の涙がボロボロと床にこぼれ落ちる。
「こんなの……っ、こんなの、あんまりです……!」
彼女は震える両手で聖印を強く握りしめた。
あまりの苦痛と絶望の濁流に、頭が割れそうだった。逃げ出したい。耳を塞ぎたい。こんな悍ましい現実、最初から聞かなかったことにしたい。本能がそう叫ぶ。
それでも、彼女の足は踏みとどまっていた。
この悲鳴を聞けるのが、自分だけなら。この痛みに寄り添い、彼らの存在を証明してあげられるのが、自分だけなのだとしたら。ここで目を背けるわけにはいかない。それが、彼女が神に誓った信仰の、そして彼女自身の心の誇りだった。
「ノアさん……っ!」
セレシスは涙を拭うこともせず、黒い背中に向かって必死に叫んだ。
「私にも……私にも、できることはありますか!」
ノアの視線が、わずかに動いた。その黒い瞳には、戦場においてあまりにも場違いな少女への、微かな戸惑いが浮かんでいた。
「お前にできること? ここは戦場だぞ。ただの修道女が何をする」
「はい!」
セレシスは涙で濡れた顔のまま、まっすぐにノアを見据えて激しく頷いた。
「この子たちは、まだ怖がっています……! あなたの力はすごい、圧倒的です。でも、あまりにも暗くて、強すぎて、冷たすぎる……! ずっと暗闇にいたこの子たちは、その強大な力に怯えて、救われることすら怖いんです!」
カインが、背後で息を呑んだ。
ソフィアの細い目も、驚愕に大きく見開かれる。
黒鴉の絶対的な象徴であるノアの魔力に対して、これほど正面から「冷たすぎて怖い」などと言い放った人間は、後にも先ほどにも彼女一人だけだった。
だが、セレシスは怯まなかった。己の恐怖を他者の救済のために燃やしながら、震える声で言葉を紡ぐ。
「だから、私が祈ります。光を灯します!」
「……」
「あなたがその圧倒的な強さで地獄の鎖を断ち切るなら、私はこの子たちが還るべき場所に迷わないように、温かい光を灯して導きます。一人に、させません!」
地下牢に、奇妙な静録が落ちた。
ノアはセレシスをじっと見つめていた。
無茶で、非合理で、戦闘においては足手まとい以外の何物でもない。それなのに、誰よりも目の前の「他者の痛み」に対して、命がけで手を伸ばそうとする少女。
効率と合理を叩き込まれてきたノアの頭脳では、彼女の行動は到底理解できなかった。
だが――今、この地獄を終わらせるためには、彼女のその不合理な温かさが「必要だ」と、ノアの心が直感していた。
「……好きにしろ」
ノアは短く、視線を怪物に戻しながら言った。
「ただし、俺の足を引っ張って倒れるな。守る余裕まではない」
「はい……っ! ありがとうございます!」
セレシスは深く息を吸い、静かに目を閉じた。
胸元の聖印が、眩いばかりの純白の光を放ち、地下牢の隅々までを照らし出す。その光は、ノアのすべてを拒絶する漆黒の魔力とは、まさに正反対の性質を持っていた。
冷たく鋭い、すべてを断ち切る闇の糸。
温かく包み込む、迷いを払う光の祈り。
相反する二つの規格外の力が、奇妙な調和を保ちながら、キメラ・ゼロの肉体の中へと流れ込んでいく。
すると、怪物の胸に埋め込まれていた無数の顔たちが、一つ、また一つと、血ではない本物の涙を流し始めた。
苦痛に歪みきっていた表情が、セレシスの光に包まれて、少しずつ穏やかな、子供らしい顔へと戻っていく。怨嗟の声を上げ続けていた口が静かに閉じ、世界を呪っていた瞳に、生前の優しい輝きが戻っていく。
「ば、馬鹿な……そんなことが……」
ベルグが地を這いながら、呆然と、狂ったように首を振った。
「私の……私の魂固定術式が、ほどけていく……? 消えていくというのか……!?」
あり得ない。アシュフォードの総力を結集したあの術式は、王国の高名な禁術師でさえ解除不可能なはずだった。魂を肉体に無理やり縫い止め、その苦痛を永遠に魔力へと変換し続ける絶対の呪縛。
それが、目の前の黒い少年の暴力的な魔力と、白い少女の下らない祈りによって、まるでただの縺れた糸のように、容易く解きほぐされていく。
「やめろ……」
ベルグの声が、絶望に震える。
「やめろぉぉぉ! それを壊すな! 私の十年を! 私の執念を、アシュフォードの栄光を消すなァァァ!!」
「うるさい」
ノアの冷徹な一言とともに、漆黒の糸がさらに深く、怪物の核へと沈み込んだ。地獄の鎖が、完全に断ち切られる。
その瞬間、キメラ・ゼロの胸部中央にいたあの少年の魂が、初めてはっきりと、穏やかに目を開いた。
『――ありがとう』
それは、地下牢にいる全員の脳裏に、直接響いた声だった。
物理的な音ではない。だが、その場にいた誰もが、その少年の少年の優しさを確かに肌で感じ取っていた。
『もう、いいんだ。もう痛くないよ』
少年の魂が、衣服の汚れも消え去った、綺麗な姿で穏やかに微笑む。
『みんなを連れて、いくね。お姉ちゃんの光が、とっても温かいから』
セレシスは、張り詰めていた緊張が涙とともに崩壊し、激しい嗚咽を漏らした。
「待って……っ」
消え入る光の粒子に向かって、思わず手を伸ばす。
「せめて……せめて、あなたたちの名前を教えて……! 私は、あなたたちを忘れたくない……!」
少年は、寂しげに、でもどこか晴れやかに微笑んだ。
『忘れちゃった。ずっと暗いところにいたから。……でも、大丈夫。お兄ちゃんとお姉ちゃんが、ボクたちを見つけてくれたから』
セレシスの白い光が優しく広がり、ノアの黒い糸が最後の未練を断ち切る。
キメラ・ゼロの肉体に囚われていた無数の顔が、一つずつ、光の粒となって天井へと舞い上がっていく。
泣いていた少女も、叫んでいた少年も、虚ろだった老人の魂も。すべてが、ようやく肉の牢獄から、永遠の苦痛から解き放たれていく。
薄暗い地下牢に、無数の小さな光の星が舞い踊った。それはまるで、地獄の底から、本来還るべき美しい夜空へと還っていく星々の葬列のようだった。
ルークは鉄格子を掴んだまま、その幻想的な光景を、ただ呆然と見上げていた。
「きれいだ……」
少年の小さな口から、ぽつりと漏れた言葉。
ソフィアは何も言わず、ただ自身の唇を血が滲むほど強く噛み締め、その光の行く末を見つめていた。カインは静かに目を伏せ、彼らの旅路を邪魔せぬように祈るように大槌を下ろした。影に潜む夜烏たちでさえ、誰一人として身じろぎせず、その黒き救済の儀式に敬意を払っていた。
そして――最後に残った核の少年が、まっすぐにノアを見つめた。
『黒いお兄ちゃん。ボクたちを自由にしてくれて、ありがとう』
ノアは、何も言わずにその光を見返す。
『ありがとう』
「ああ。……もう、二度と捕まるな」
短い、不器用な返事。それだけだった。
少年は次に、セレシスへと視線を向け、柔らかく微笑んだ。
『白いお姉ちゃんも、温かい光をありがとう』
「……ええ、ええ……っ。バイバイ、どうか、安らかに……!」
セレシスは泣きながら、精いっぱいの笑顔を作って手を振った。
少年の魂は、淡い純白の光となって、優しく宙へと昇り、消えていった。
その瞬間。
魂という支えを完全に失ったキメラ・ゼロの巨大な肉体が、糸の切れた人形のように、崩れ落ちた。
――ドォン……。
重苦しい音が響く。だが、そこにはもう、空間を汚染していた禍々しい魔力は一切残っていなかった。ただ、長い地獄の苦しみを終えた、哀れな泥の抜け殻がそこに横たわっているだけだった。
地下牢を覆っていた悪意は完全に霧散し、後に残されたのは、深い静寂と、セレシスの聖印が残した淡い光の余韻だけだった。
「……終わった、のか」
カインが、自身の痺れた腕をさすりながら低く呟いた。
ノアは答えなかった。ただ、崩れ落ちた怪物の亡骸を、複雑な感情を宿した黒い瞳で静かに見下ろしている。
セレシスは涙を拭い、ふらつく足でノアの隣に立った。
「私たちは……あの子供たちを、救えたんでしょうか。これで、本当によかったんでしょうか……」
震える声での問いかけ。失われた命の重さに、彼女の心はまだ押し潰されそうだった。
ノアは少しだけ沈黙し、それから低く、冷徹な現実を告げた。
「死んだ命は戻らない。救えたとは言えない。……だが」
ノアの視線が、灰色の亡骸へ、そしてセレシスの青い瞳へと動く。
「少なくとも――これ以上、あの子たちを泣かせずには済んだ。お前の光があったからな」
セレシスはハッとして、それから愛おしそうに唇を噛み締めた。
その言葉は決して優しくない。修道女が求めるような甘い慰めの言葉でもない。だが、目の前の現実から決して目を背けない、ノアなりの最大級に誠実な「肯定」だった。
「……はい。そう、ですね」
小さく頷くセレシス。
その時だった。
「ふざけるな……、ふざけるなよ……ッ!!」
地を這うような、怨念に満ちた震える声が響いた。
ベルグだった。
彼は壁際に膝をついたまま、崩れ落ちたキメラ・ゼロの抜け殻を呆然と見つめていた。顔は土気色に青白く、唇はガタガタと震え、その目は血走って焦点が完全に狂っている。
「私の十年が……私の最高傑作が! アシュフォード再興の、あの御方への最高の貢ぎ物がぁぁぁ!!」
壊れた玩具のように同じ絶望の言葉を繰り返すベルグ。そして、彼は蛇のような目を、猛烈な憎悪を込めてノアへと向けた。
「貴様ぁぁぁぁぁ、よくも、よくも私のすべてをぉぉぉ!!」
ベルグが狂ったように懐へ手を突っ込み、一玉の不気味な黒い結晶を取り出した。
中から、周囲の空間を爆破せんばかりの禍々しい魔力が漏れ出す。
カインが即座に大槌を構え、その巨体でルークたちを覆い隠した。
「総帥! まずい、ありゃあ――」
「自爆用の、高純度魔石か」
ノアの声は、恐ろしいほどに冷静だった。
ベルグは血を吐くように狂笑する。
「ハハハハ、そうだ! 全部終わりだ! 貴様ら黒鴉も、教会の小娘も、ゴミ孤児どもも! 私と共にここでまとめて吹き飛べばいい! 地獄へ付き合えぇぇぇ!!」
セレシスが息を呑み、子供たちが恐怖で悲鳴を上げる。ベルグの指が、魔石を握り潰そうと力を込めた、その刹那――。
ノアが、動いた。
速い。カインの目、ソフィアの認識すらをも超越した、文字通りの神速。
ベルグの視界から、世界のすべてから、ノアの姿が完全に消滅した。
「え――」
次の瞬間。
ベルグの右腕が、黒い結晶を握ったまま、綺麗に宙を舞っていた。
ドサリ、と重い音がして、切断された腕が石畳に転がる。
数拍の遅れの後に、噴水の如く血が噴き出し、ベルグの鼓膜を裂くような絶叫が地下牢に響き渡った。
「あああああああああああああああああああッッッ!?? 腕が、私の腕がぁぁぁぁッ!!」
宙に浮いた魔石は、ベルグが絶叫を上げるよりも早く、ノアの放った漆黒の魔力によって包み込まれ、爆発の光を上げることも許されずに内側から粉々に砕かれ、無力化されていた。
ノアは一滴の返り血すら浴びることなく、のたうち回るベルグの目の前に、冷酷な死神のように立っていた。
「死ねると思ったか、お前ごときが」
のたうち回るベルグの顔が、今度こそ純粋な恐怖に歪む。
「お前にはまだ、聞くことがある。我が黒鴉の家族を傷つけた代償は、死ぬだけでは払いきれない」
ノアはゆっくりと屈み込み、男の衣服の胸ぐらを容赦なく掴み上げた。その黒い瞳が、ベルグの魂の奥までを見透かすように細められる。
「誰に命じられた」
「ひ、ひ、ヒィィ……ッ!」
「アシュフォードの哀れな残党だけで、これほどの規模の術式と、実験を隠蔽するだけの資金を用意できるはずがない。お前の背後で糸を引いているのは誰だ。誰が裏にいる」
ベルグの顔から、残っていたすべての血の気が引いた。
その恐怖の眼差しは、目の前にいるノアだけでなく、もっと別の「何か」に向けられていた。名を口にすることすら、思考することすら許されない、絶対的な上位存在への恐怖。
「い、言えない……言えるわけがない……!」
「言え」
「言えば……言えば、魂ごと消される! あの方々は、お前たち黒鴉すらも――」
「言わなくても、今ここで俺が貴様を肉塊に変える。どちらがいい」
ノアの声音には、一切の脅しがなかった。ただの事実の宣告。
ベルグの喉が、ヒくつくように震える。長い、呪わしいほどの沈黙。やがて、ベルグはすべてを諦めたように、壊れた人形のようにケラケラと笑い始めた。
「……黄昏」
「何だと?」
ノアの瞳が、僅かに動いた。
「黄昏の……評議会……。あの方々が、私に力を貸してくれたのさ……お前たちを、引きずり下ろすために……!」
――黄昏評議会。
その名が地下牢の湿った空気に落とされた瞬間、空間の温度が別の意味で完全に凍りついた。
カインの表情が硬直する。ソフィアの瞳が、かつてないほどの警戒に細められる。
大教会、王国、帝国、あらゆる国家や組織の裏側に根を張り、数百年にわたり世界の歴史を裏から操ってきたとされる伝説の秘密結社。黒鴉でさえ、その実態を完全には掴みきれていない、世界の真の支配者たちの名。
ベルグは口から血を流しながら、恐怖に震えつつも、勝ち誇ったように歪に笑った。
「もう、遅い……。お前たち黒鴉は……新しき総帥は、もうあの方々に見つかっている……。必ず、すべてを奪われて死ぬのさ……!」
その言葉を最後に、ベルグの全身の皮膚に刻まれていた不気味な黒い紋様が、禍々しい拒絶の光を放ち始めた。
ノアの瞳が鋭く細まる。
「――呪法による、口封じか」
次の瞬間、ベルグの身体が、内側から噴き出した漆黒の異様な炎に包まれた。
「ぎゃあああああああああああああああああッッッ!!!!」
凄まじい絶望の絶叫。焼ける肉の嫌な臭い。
ベルグ=アシュフォードは、その組織の名を漏らした代償として、背後の何者かの術式によって、弁解の余地すら与えられずに炎の中で骨ごと崩れ落ちていった。
ノアはその光景を、一切の手出しをせず、ただ冷たく見つめていた。
やがて炎が消え去り、床に残されたのは、一握りの黒い灰だけだった。
ノアがベルクの灰を見下ろした、その時だった。
胸の奥が僅かに熱を帯びる。痛みとも違う。懐かしさとも違う。まるで何かが遠くで呼んでいるような、不快な感覚。
「…?」
ノアは眉をひそめたが、それは一瞬で消えた。
「総帥」
「何だ」
「…いや」
カインは言いかけて口を閉じた。
ほんの一瞬、総帥の首筋に何かを見た気がした。
だが、あり得ない。あれは先代の時代ですら伝説だったはずだ。
――地下牢に、再び静寂が落ちる。
セレシスが、震える声でノアの背中に問いかけた。
「今のは……いったい、何だったんですか……? あの人が言っていた、あの名前は……」
ノアは答えなかった。
代わりにカインが、忌々しそうに、そして極めて重苦しい口調で呟いた。
「黄昏評議会……。クソが、まさかあの生ゴミの裏に、そんな化け物どもが張り付いていやがったとはな……」
セレシスはその正確な詳細を知らない。だが、その場にいるカインやソフィアの、これまでの敵とは明らかに一線を画す「本気の警戒」の反応だけで理解できた。
これは、ただの誘拐犯や奴隷商会の事件では終わらない。
もっと深く、もっと暗い、この世界の根底にある大きな闇のうねりに、自分たちは足を踏み入れてしまったのだと。
ノアは、灰となった男の痕跡を静かに見下ろしていた。
その横顔には、一切の動揺も、恐怖もなかった。あるのは、立ちはだかるすべての敵を討ち果たすという、総帥としての冷徹な覚悟だけ。
「カイン、ソフィア。夜烏を使い、子供たちを地上へ保護しろ。ルーク、お前は俺の側を離れるな」
ノアの声には、一筋の揺らぎもなかった。
「この件は、まだ終わっていない。……敵が俺たちを狙うなら、すべてを逆におびき出し、黒鴉の闇で塗り潰すだけだ」
地下牢を後にするノアの背中には、巨大な鴉の影が、今まで以上に色濃く寄り添っていた。
東区倉庫街の事件は解決を迎えた。しかし、黒鴉の夜は、世界の裏側へとさらに深く、まだ明けることはなかった。




