12 黄昏の影
――ひた、ひた、と、地下牢に溜まった汚水が夜烏たちの足に踏まれる音が響く。
先ほどまでこの空間を悍ましく満たしていた、粘つくような悪意と呪詛の波動は、完全に消え去っていた。
すべてを呑み込んだノアの深い漆黒の魔力と、セレシスが灯した純白の祈りの残光。それが地下の澱んだ空気を綺麗に洗い流したかのようだった。
中央に横たわるキメラ・ゼロだったものの亡骸は、魂という結合楔を失ったことで、急速に泥のような灰へと崩れ落ちていく。それは巨大な肉の化け物などではなく、ただの空虚で哀れな、引き裂かれた人間の抜け殻に過ぎなかった。
「……みんな、もう大丈夫だよ。ゆっくり、一歩ずつ進んで」
セレシスは、衣服が血と泥で汚れ、精神的な疲弊から自身の手足も小刻みに震えているというのに、救出された子供たちの元へ真っ先に駆け寄っていた。
怯えて泣きじゃくる幼い少女の肩を優しく抱き寄せ、歩けない少年の手を握り、夜烏たちの背へと一人ずつ誘導していく。
運び出されていく子供たちの誰もが、心身ともに傷つき疲れ果てていた。急に光の当たる場所へ連れて行かれる恐怖に、その小さな身体を縮こまらせている者もいる。
それでも。セレシスが彼らの額にそっと触れ、温かい微笑みを向けると、子供たちの虚ろだった瞳に、生きてここを出られるのだという確かな光が灯った。
生きている。絶望の底から生きて帰れる。ただそれだけで、今は十分だった。セレシスは彼らの小さな背中を見送りながら、何度も胸元で十字を切り、涙を堪えて祈りを捧げ続けた。
そんな中、鉄格子の奥から解放された一人の少年が、一直線にノアの元へと駆け寄ってきた。
「ノア兄ちゃん……っ!」
ルークだった。
彼はノアの前に立ち止まると、その小柄な身体からは想像もつかないほどの力で、ノアの漆黒の外套の裾をぎゅっと掴み、潤んだハチミツ色の瞳で見上げた。
「もう……本当に、全部終わったの?」
「ああ」
ノアの返答は、いつものように短く、抑揚がない。ルークの頭を撫でるような甘い真似もしない。ただ、掴まれた外套を振り払うこともしなかった。
「本当に? あの悪いおじさんも、あの大きいお化けも、もういない?」
「ああ」
「……もう、みんなを苛める変な奴ら、来ない?」
「来ても、俺が全員潰す」
感情の起伏がないからこそ、その言葉には絶対の真実味があった。世界がひっくり返っても覆らない、最強の約束。
ルークは、ノアのその黒い瞳の奥にある頑ななまでの意志を感じ取り、それまでの恐怖が嘘のように、心の底から安心したようにふにゃりと笑った。
「うん! ノア兄ちゃんがそう言うなら、絶対に大丈夫だね!」
その光景を少し離れた位置から眺めていたカインが、重苦しい空気を吹き飛ばすように、いつも通りの豪快な笑い声を上げて肩をすくめた。
「ははっ! 相変わらず説明が恐ろしく雑ですねぇ、総帥! もう少しこう、頑張ったルーク坊主を抱きしめて労うとか、そういう可愛い対応はできないんですかい?」
「必要ない。事実を告げただけだ」
「へいへい、まあ、当の本人がそれで完全に納得して救われてるんですから、外野が口を挟む幕じゃあねえんですがね」
カインはそう言って笑いながらも、そのハチミツ色の瞳には、ルークを無事に守り抜いた我が主君への、深い敬意と安堵が滲んでいた。
その時、セレシスがすべての子供たちを送り出し、静かにノアの隣へと歩み寄ってきた。
彼女の視線は、まだ完全に灰になりきっていないキメラ・ゼロの残骸へと向けられていた。先ほどまで、確かにあの醜悪な肉体の中に閉じ込められ、自分に助けを求めて泣き叫んでいた、何十もの孤独な魂たち。
自分は、本当にあの子たちを救えたのだろうか。それとも、ただ死という終わりの虚無を与えただけなのだろうか。大教会の修道女としての教義と、一人の人間としての感情の狭間で、彼女の心はまだ小さな揺れを抱えていた。
「……あの子たち」
セレシスは、消え入りそうな声で呟いた。
「最後は、笑っていましたよね」
ノアは、崩れゆく灰を見つめたまま、数秒間の深い沈黙を置いた。
普段の彼なら「知るか」の一言で切り捨てるような、合理性のない問いかけ。しかし、ノアの脳裏にも、最後に自分に『ありがとう』と微笑みかけて消えていった、あの核の少年の姿が焼き付いていた。
「……そうだな」
短く、ボソリと溢された返事。
けれど、その一言には、セレシスの張り詰めていた心を優しく解き放つだけの、確かな重みがあった。冷酷な目の前の少年が、自分の灯した光と、あの魂たちの救済を認めてくれた。
セレシスは、目元に残る涙を今度こそ指先で拭い、少しだけ、本当に少しだけ、憑き物が落ちたように穏やかに笑った。
「はい……。よかった。本当に、よかったです……」
地上へと戻る夜烏たちの撤収作業が迅速に進められる中、地下牢の最奥では、カインとソフィアがベルグの消滅した場所を厳重に調査していた。
男を焼き尽くしたあの不気味な黒い炎。それが残した黒い灰と、ガラス状に焼け焦げた石畳。通常の魔術ではあり得ない、痕跡を完全に抹消するための呪術の跡。
「総帥、ちょっとこいつを見てくれませんかい」
カインの声が、いつになく低く、引き締まったものに変わる。
ノアが静かに振り返り、彼らの元へと歩を進める。ソフィアも暗器を収め、冷徹な表情でその物体を注ぎ込んでいた。
カインの分厚い手のひらの上に載せられていたのは、ベルグの死体跡から発見された、親指ほどの大きさの黒く焼けた金属片だった。
普通の鉄ではない。光を一切反射しない、夜の闇を物質化したような不気味な黒。その表面には、あまりにも精密で、禍々しい紋章が深く刻み込まれていた。
完璧な円環。その内部で、鋭く重なり合う三つの不揃いな三日月。そして、それらを貫くように複雑に交差する、無数の幾何学的な線。
ノアはその金属片を無造作に指先で受け取った。
大陸広しといえど、いかなる国家の貴族の紋章にも、主要なギルドの刻印にも該当しない、見たこともない歪な紋様だった。
「黄昏評議会、か」
「おそらく、間違いありません」
ソフィアが、その影のような細い声をさらに潜め、冷たく付け加える。
「夜烏の情報網を総動員しても、その名に関する記述は、大教会の最奥に秘匿された禁書や、古代王国の崩壊を記録した断片的な古文書にしか存在しません。数百年、あるいはそれ以上の昔から、歴史の決定的な転換期の裏で、常にその名前だけが囁かれてきました」
「ですが、構成員が誰なのか、拠点がどこにあるのか、その実態は一切が不明です」
カインが、苦々しく自身の顎をさすりながら、声音を一段と重くする。
「数世代前の黒鴉の頭領が、王国内部の不審な金の流れを追った際にも、この紋章に行き当たった途端、すべての情報線が完全に途絶したと記録に残っています。我が組織の『目』を以てしても、尻尾すら掴ませない……世界の真の裏側に潜む、本物の化け物どもですよ、こいつらは」
沈黙。
地下牢の空気が、先ほどの戦闘時とはまた異なる、底知れない「未知の脅威」によって、じわじわと重く圧迫されていく。
ルークは何の話をしているのか分からず、不安そうにカインとノアの顔を交互に見つめて首を傾げ、セレシスもまた、その不穏な名が持つ圧倒的な闇の深さに、ゴクリと息を呑んで表情を曇らせた。
ただ一人、ノアだけは、感情を一切表に出さず、その黒い金属片をじっと凝視していた。
その、まさに時だった。
――ズキッ……!
ノアの胸の最深部、心臓のすぐ裏側あたりに、焼けた鉄を押し当てられたかのような、鋭く、激しい痛みが突如として走った。
「……っ?」
一瞬。本当に、瞬きをするほどの刹那。
全身の血液が沸騰するような、異常な熱。
それと同時に、脳裏に直接、何百マイルも離れた遥か彼方の深淵から、自分をじっと「覗き込まれている」ような、おぞましい視線の感覚が突き刺さる。誰かが、暗闇の奥から、自分の名を呼んでいるような――。
しかし、ノアが小さく息を呑んだ次の瞬間には、その感覚は霧散するように綺麗に消え去っていた。
「総帥……?」
カインが、ノアの僅かな身体の硬直を敏感に察知し、眉をひそめて顔を覗き込んできた。ソフィアの手が、無意識に再び暗器の柄へと伸びる。
「どうしました。どこか負傷でも?」
「いや」
ノアは小さく首を振り、掴んでいた衣服の胸元を僅かに押さえた。
「何でもない。気のせいだ」
そう言って、ノアは歩き出した。
だが、本当に気のせいなのだろうか。先ほどのベルクの灰を見た時、胸に生じた僅かな熱。そして今。彼の胸の奥には、今まで経験したことのない、奇妙な拒絶感と違和感が、冷めない残り火のように確かに燻り続けていた。黒い金属片を握りしめた手のひらだけが、いつまでも微かな熱を帯びていた。
――同じ時刻。
アシュフォード商会が壊滅した東区倉庫街から、遥か遥か北方。
一年を通じて猛烈な吹雪が吹き荒れ、いかなる人間、いかなる魔獣の立ち入りをも拒む、険しき辺境山脈の最深部。
地図上には決して存在しない、千年の星霜を経てもなお色褪せない、あまりにも巨大で荘厳な漆黒の神殿が、世界の監視の目を逃れるようにして佇んでいた。
その神殿の奥深く、陽の光が絶対に届かない、薄暗い『円卓の間』。
均等な距離を保って配置された、十二脚の巨大な石造りの椅子。その空間の静寂を破り、中央の椅子に深く腰掛けていた一人の男が、ゆっくりと、その深紅の目を闇の中で開いた。
「……ベルグの灯が、消えたか」
低く、地響きのように響く声。
そこには、十年かけた計画の要を失ったことに対する怒りも、悲しみも、一切の感情が含まれていなかった。まるで、明日の天気が崩れることでも確認するような、どこまでも無関心で冷徹な口調。
円卓の中央に置かれた、巨大な黒い水晶。その内部で、ベルグが死に際に発動させた呪印の残滓が、妖しく揺らめいていた。
やがて、その水晶の表面に、魔術的な映像が静かに結ばれる。
そこに映し出されていたのは――返り血すら浴びず、冷酷に金属片を見つめる、黒髪の少年。
ノア・クロードの姿だった。
「黒鴉の……新たな総帥、か」
男の薄い口元が、歓喜とも嘲弄ともつかない歪な形で、僅かに釣り上がる。
「面白い。前代の老いぼれとは、魂の格が違う。想像以上の『器』だな」
男の言葉に応じるように、円卓を囲む濃密な闇の中から、気配を完全に遮断した別の掠れた声が、いくつも重なるようにして響き渡った。
「大教会の小娘と黒鴉が手を結ぶなど、不確定要素が過ぎます。……始末しますか? 今ならば、まだ」
「いや」
男は、傲然と首を振った。
「まだだ。あの程度の小競り合いで壊れるようでは、我らの大願の役には立たん。……もう少し、育てろ」
「観察を続けるのだ。アシュフォードは良い環境を与えた。奴らはその肥やしとして、十分に役割を果たした」
「我らは、この時を千年も待ったのだ。今さら数年の猶予など、瞬きにも等しい」
男はゆっくりと、石の椅子の背もたれにその巨体を預けた。
そして、水晶に映るノアの顔を、愛おしげに、あるいは狂気的に見つめながら、誰にも聞こえないほどの小さな、呪詛のような声で呟いた。
「ようやく……ようやく見つけたぞ。ついに現れたか。……最後の継承者よ。」
闇の中。
男の首筋から胸元にかけて、衣服の隙間から這い出るようにして刻まれた、禍々しい黒い紋様が、男の歓喜の鼓動に呼応するように、ドクン、ドクンと、妖しく、不気味に脈動を始めていた。
東区倉庫街の誘拐事件は、こうして黒鴉の圧倒的な力、そして一人の修道女の祈りによって、一応の幕を閉じた。
しかし、それは決して平穏な日々の終幕などではなかった。
裏社会の覇者たる『黒鴉』と、世界の深淵で蠢く『黄昏評議会』。
彼らの運命を翻弄する本当の物語は、この昏き夜の底から、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。




