13 おかえり
ガタガタ、ゴトゴト、と、一定の小気味よい振動が、夜の静寂に包まれた馬車の中に響いている。
東区倉庫街の地下、あの忌まわしき地から吹き抜ける湿った死臭は、いまや心地よい夜風によって完全に払拭されていた。
御者台で手綱を握るカインの、どこか安堵したような口笛の音が、薄い木板を隔ててかすかに車内へと流れ込んでくる。
馬車の中に敷き詰められた柔らかい毛布の上では、アシュフォードの魔の手から辛くも救い出された孤児の子供たちが、身を寄せ合うようにして座っていた。
彼らは肉体的な疲弊の極みにあるはずだった。数日前まで終わりのない暗闇の中で、泣き叫ぶ気力すら奪われていたのだ。普通なら、安堵と同時に泥のような眠りに落ちていてもおかしくはない。
しかし――子供たちは、誰一人として眠ろうとはしなかった。
それどころか、その瞳には爛々とした輝きが戻り、車内は驚くほどの熱気に満ちていた。
「ねぇねぇ、ルーク! 本当に、あそこにいた黒いお兄ちゃんが、あの化け物をやっつけてくれたの!?」
「そうだよ! 腕をこう、片手でバンッて! 触っただけでボロボロに壊しちゃったんだから!」
「うそーっ! あんなおっきいお化け、大人の騎士さんだって勝てないよ!?」
「嘘じゃないやい! ノア兄ちゃんは世界一強いんだ! 悪い奴なんか、どんなに大きくたって一発なんだからな!」
ルークは毛布の上で小さな胸をこれでもかと張り、ハチミツ色の瞳を誇らしげに輝かせていた。自分が戦ったわけでもないのに、鼻高々といった様子で身振りを交えて熱弁を振るう。
そんなルークを囲んで、小さな少年や少女たちが「すごーい!」「本物の英雄様だ!」と歓声を上げ、小さな手を叩いて跳ね回る。地獄の淵から生還した子供たちにとって、ルークの語る「黒いお兄ちゃん」の英雄譚は、冷え切った心を芯から温めるものだった。
そんな騒ぎの中心から、もっとも離れた馬車の隅の特等席。
黒鴉の総帥ノア・クロードは、完全に無言のまま、彫刻のように座っていた。
「……」
その切れ上がった黒い瞳は、車内の喧騒を一切無視し、ただ流れていく窓の外の夜景だけを冷淡に追っている。腕を組み、微動だにしないその佇まいは、まるで「自分の話など、露ほども興味がない」と、背中に大きく書いて主張しているかのようだった。
だが、子供たちの純粋無垢な好奇心と感謝の念は、そんなノアの絶対零度の威圧感すらも、容易く踏み越えていく。
「お兄ちゃん!」
不意に、衣服に泥をつけた小さな少女が、トコトコとした足取りでノアの足元へと近づいてきた。そして、ノアが止める間もなく、その華奢な膝の上に小さな手足をかけて、よいしょ、とよじ登ってきたのだ。
ソフィアが隣で一瞬だけ身構え、気配を鋭くした。裏社会で「出会えば死」と恐れられる黒鴉の総帥の身体に、これほど無防備に、かつ物理的に触れた人間など、かつて存在しなかったからだ。
しかし、ノアは少女を突き飛ばすことも、睨みつけることもせず、ただひどく困惑したように視線を窓外からその膝上の質量へと落とした。
「……何だ」
「助けてくれて、ありがとう!」
少女はノアの冷たい黒い瞳を真っ直ぐに見つめ、ひまわりが咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「……そうか」
ノアの口から漏れたのは、お世辞にも優しいとは言えない、素っ気ない呟きだった。しかし、少女はそれで満足したように、さらにノアの外套の裾を握りしめる。
「本当に、本当にありがとう!」
「……ああ」
二度目の感謝。ノアの眉間が、ほんの僅かに、ミリ単位で中央に寄る。
「お兄ちゃん、だーいすき! ありがとう!」
「……分かった。だから、もう席に戻れ」
三度目の直球の好意を叩きつけられ、ノアはついに、あからさまに「面倒くさそう」な、あるいはどう対処していいのか完全にわからないような、表情を浮かべた。国家規模の暗殺計画や、数千の兵が動く抗争ですら眉一つ動かさない天才少年が、体重十数キロの少女の笑顔の前に、完璧にたじろいでいた。
その様子を、前方の御者台から小窓越しに覗き見ていたカインが、ついに堪えきれず、地下牢の緊張をすべて吹き飛ばすような豪快な爆笑声を上げた。
「ははははははははッ!! こいつは傑作だ! おいソフィア、見たかよ!? 我らが冷酷無比なる総帥閣下が、完全にガキどものおもちゃになってやがるぜ!」
カインは手綱を握り直しながら、お腹を抱えて大はしゃぎでシートを叩く。
「るさい、カイン。前を見て馬車を走らせろ」
「いやいや、そうは言ってもなぁ! 照れてる総帥の顔なんて、滅多に拝めるもんじゃねえですから! なぁ総帥、ぶっちゃけ今、顔が熱いんじゃねえですか!?」
「照れていない」
「いいや、照れてますね。間違いねえ、耳の裏がちょっと赤い!」
「違う」
「照れてます」
「違う」
ノアの即答。その声の温度は確実にマイナスへと突き進んでいたが、カインのニヤニヤとした笑みは止まらない。すると、それまでずっと気配を消してノアの影に控えていたソフィアが、淡々とした、平坦な声で会話に割り込んだ。
「……照れて、います。総帥の魔力の波長が、先ほどから微かに、恥ずかしさで縺れています」
「お前もか、ソフィア」
ノアはついに、深いため息とともに、心底嫌そうな、そして居心地の悪そうな顔をして顔を背けた。
その「黒鴉の最高幹部たち」が繰り広げる、裏社会の人間とは思えないほど微笑ましい掛け合いを見て、車内の子供たちはさらに笑い、馬車の中は温かい空気で満たされていた。
――ガタ、と馬車が静かに停止した。
到着した場所は、王都の片隅にひっそりと佇む、孤児院『ひだまり』。
その建物の玄関前には、薄暗いランプの光に照らされながら、何度も、何度も同じ場所を往復している一人の女性の姿があった。
院長のマリアだった。
彼女は、一睡もできていなかった。
ルークが攫われ、正体の知れない恐ろしい者たちの渦に巻き込まれたのだ。いくら、信頼できる「ノア」たちが動いてくれているとはいえ、最悪の結果が頭をよぎるたび、彼女の心臓は破裂しそうなほど激しく脈打っていた。祈るように組んだ両手は、冷たくてガタガタと震え続けていた。
その時、静まり返った夜の通りから、聞き慣れた馬車の車輪の音が聞こえてきた。
ガタガタ、ガタガタ。
マリアが弾かれたように顔を上げる。ランプの淡い光の中に、黒い鴉の意匠が施された大きな馬車が姿を現した。馬車が完全に止まるよりも早く、後部の扉が勢いよく開き、そこから小さな影が飛び出してきた。
「マリア姉ちゃん!! ただいまーーーっ!!」
一瞬。世界の時間が、完全に止まったかのように静止した。
マリアの目から、大粒の涙が溢れ出る。
「ルーク……っ!!」
マリアはなりふり構わず、夜の泥道を駆け出していた。スカートの裾が汚れるのも気にせず、飛び込んできたルークの小さな身体を、壊れてしまうのではないかと思うほどの勢いで、きつく、きつく抱きしめた。
「ばか! 本当に、本当にばかルーク……!!」
マリアの声は、激しい涙の嗚咽で完全に掠れていた。
「どれだけ……どれだけ心配したと思っているのよ! もし、あなたに何かあったら、私は……私はどうすればよかったの……っ!」
「ご、ごめん……ごめんね、マリア姉ちゃん……」
「ごめんじゃありません! 駄目でしょ、勝手について行ったりしたら……っ!」
「うん……っ、うん!」
ルークもまた、マリアの温かい胸の中で、子供らしい大粒の涙を流して泣きじゃくっていた。
地下牢では、ノアの前では、大好きな兄ちゃんに格好いいところを見せたくて、必死に涙を堪えて強がっていたのだ。けれど、自分を心から愛してくれる「母親」のようなマリアの温もりに触れた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が完全に解け、彼はただの七歳の子供に戻って、その背中にしがみついて泣き続けた。
ようやく、本当に、自分の帰るべきお家に帰って来られたのだ。
その、涙ながらの再会の光景を、馬車の陰から静かに見つめているノアがいた。
その瞳には、先ほどまでの冷酷な気配は微塵もなく、ただ静かで、穏やかな闇が宿っていた。
「総帥」
いつの間にか、カインがその巨体を揺らしながら、ノアの隣へと並び立っていた。彼は頭の後ろで腕を組み、マリアたちを見つめながら、目を優しく細める。
「……無事に、助けられましたな」
「ああ」
ノアの短い返事。
けれど、カインにはすべてが分かっていた。ノアがルークを攫われたと知った時、どれほど胃の腑が焼けるような怒りを抱えていたか。ルークを傷つけたベルグに対し、どれほど絶対的な殺意を燃やしていたか。そして今、無傷のルークがマリアの腕の中にいるのを見て、その胸の奥がどれほど深い安堵で満たされているか。
言葉にしない。表情にも出さない。それがノア・クロードという少年だが、その本質にある「家族への執着」の深さを、カインは誰よりも理解していた。
「本当、よかったですね」
「……ああ」
二度目の返事。今度のノアの声は、夜風に溶けるように、ほんの少しだけ、柔らかかった。
「ノアさん!」
不意に、背後から声をかけられ、ノアの意識が現実に引き戻された。
振り返ると、そこにはセレシスが立っていた。彼女の白い修道服はすっかり汚れてしまっていたが、その青い瞳は、地獄を潜り抜けたことで、以前よりもずっと力強い輝きを放っている。
セレシスはノアの前に進み出ると、これ以上ないほど背筋を伸ばし、深く、深く頭を下げた。
「ノアさん……今日は、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、ルークも、あの子たちも……そして私も、あの暗闇の底で、今頃は命を失っていました。あなたのその強さに、私は、命を救われました」
魂からの感謝の言葉。しかし、ノアはその言葉を、容赦なく、冷淡に遮った。
「違う」
「え……?」
セレシスが、狐につままれたような顔をして、下げていた頭を上げて目を瞬かせた。
ノアはセレシスの青い瞳を真っ直ぐに見つめ、淡々と告げた。
「俺の力だけではない。――お前も、あの場にいた」
「え、あ、はい、いました、けど……」
「お前のあの不合理な光の祈りがなければ、化け物の中の魂たちは、救われることすら拒絶して暴走し、すべてが吹き飛んでいた。……俺の力だけでは、あの子たちを一人も救うことはできなかった。これは、事実だ」
一瞬。
セレシスの思考回路が停止した。
何を言われたのか、脳が理解することを遅らせていた。
――俺の力だけでは、一人も救えなかった。お前がいたから、救えた。
あの、他人に一切の興味を持たず、お世辞など死んでも言わないであろう冷徹な人が、自分の存在を、自分の無力だと思っていた祈りを、これ以上ないほど明確に「必要だった」と肯定してくれたのだ。
次の瞬間、セレシスの顔が、耳の裏まで沸騰したように真っ赤に染まった。
「そ、そそそ、そんな……っ! 私なんて、ただ、足手まといで、泣いてばかりで……っ!」
「事実を言ったまでだ。お前の光は、あの場において合理的だった」
「そ、そういう、そういう恥ずかしいことを! 急に、大真面目な顔で言わないでください!!」
「? 何が恥ずかしいんだ。お前の情緒はよく分からん」
本気で意味が分からない、という風に、小首を傾げて端正な顔を歪めるノア。
その、天然なのか計算なのか分からない少年の態度と、顔から火が出そうなほど狼狽してバタバタと手を振る修道女の姿を見て、カインが盛大に吹き出した。
「ぶふっ……! ギャハハハハ! 総帥、そりゃあねえぜ! 殺し文句を無自覚で叩き込むのは、タチの悪い犯罪だぜぇ!」
「……総帥、天然の罪深さ。彼女は陥落寸前です」
ソフィアが、ふいと顔を背けながら、小さく呆れたような声を漏らす。
泣きやんだルークもマリアの腕から顔を出し、赤くなっているセレシスを見て「セレシスお姉ちゃん、お顔がリンゴみたい!」と、お腹を抱えて笑い始めた。
「も、もう! ルークまで笑わないで!!」
孤児院『ひだまり』の前に、久しぶりの、心からの温かい笑い声が響き渡る。
それは、重い地獄を通り抜けた彼らに与えられた、休息のひとときだった。
だが。
その賑やかな笑い声の輪から、僅かに外れた場所で。
ノアは、自身の右手のひらをそっと見つめ、地下牢で感じた「あの違和感」を、まざまざと思い出していた。
――黄昏評議会。
ベルグが死に際に残した、世界の裏側を統べる不穏な組織の名。
カインの手のひらに載せられていた、不気味な黒い円環と三日月の金属片。
そして何より。あの金属片に触れた瞬間、自分の胸の奥、心臓の裏側で弾けるように走った、あの奇妙な激痛と熱。
あの感覚は、単なる気のせいなどでは断じてない。まるで、魂を侵食するようなおぞましい本能の予感。
ノアの黒い瞳が、ゆっくりと、満天の星々が輝く夜空へと向けられた。
一見、世界は静かで、平和そのものに見える。
だが、その美しい星空のさらに向こう側、世界の真の闇の奥底で、自分たち黒鴉を、いや、この世界そのものを巻き込むような、巨大で、悍ましい『運命の歯車』が、いま確かに回り始めている。
ノアは小さく拳を握りしめ、その予感を静かに胸の奥へと沈めた。
東区倉庫街の、ルークを巡る事件は、これで完全に終わりを迎えた。
しかし、それは決して、黒鴉の戦いの終幕を意味してはいない。
背後に迫る黄昏の影。千年の時を超えて動き出す因縁。
黒鴉の夜は、世界の真実を暴くまで、まだ、明けることはなかった。




