8 誘い込まれた獲物
地下牢を満たすのは、皮膚にじっとりとへばりつくような重苦しい沈黙だった。
鉄格子の向こうでは、解放された子供たちを夜烏たちが無言で、しかし信じられないほど迅速に保護し始めていた。恐怖のあまり声を上げて泣きじゃくる子、現実を受け入れられず呆然と立ち尽くす子、自分が本当に助かったのかさえ理解できていない子。だが、その誰もが、怯えながらもある一人の少年の背中に、縋るような視線を向けていた。
ノア・クロード。
世界の裏側を支配する組織『黒鴉』の第九代総帥。
その華奢で小さな背中から放たれる圧倒的な圧力は、地下牢の空気そのものをねじ伏せ、物理的な重さとなって空間を支配していた。ルークをその腕に引き戻した今、ノアから溢れ出るのは、家族を脅かした者への底なしの拒絶と冷徹な意志だけだった。
対する男は、その凄まじい威圧感の渦中にありながら、顔に不気味な薄笑いを浮かべたままだった。まるで、網に掛かった獲物が毒に苦しむのを観察する蛇のような歪んだ瞳で、じっとノアを見つめている。
「いやいや、怖いな。本当に恐ろしい」
男はわざとらしく両肩を竦め、芝居がかった仕草で首を振った。
「せっかくこうして運命的な再会を果たせたというのに。そんな、世界を呪い殺すような顔をしなくてもいいじゃないか。子供が無事だったのだから、もっと寛大な王のような笑みを見せてくれても罰は当たらないと思うのだがね?」
「……」
ノアはピクリとも動かない。挑発の言葉を、ただの雑音として切り捨て、答えない。ただ静かに、冷徹極まる眼差しで男の急所を定め続けている。その絶対的な沈黙、会話の成立を完全に拒絶した「怪物」の佇まいこそが、狂人の男にとってはかえって恐ろしかった。
男の口元から、わずかに余裕が削ぎ落とされ、引き攣った笑みが覗く。
だが、次の瞬間には、再び歪んだ笑みをその青白い顔に張り付かせた。
「おっと、失礼。自己紹介がまだだったね。私は礼儀を重んじる人間でね」
男は胸に手を当て、優雅に、しかしどこか神経質な様子で名を名乗った。
「私の名はベルグ=アシュフォード。以後、お見知り置きを。もっとも、君たちにとっては、葬列の案内人の名として記憶されることになるだろうがね」
その名が地下の空気に落とされた瞬間、カインのハチミツ色の瞳が鋭く見開かれた。
「……アシュフォードだと?」
ドスの利いた低い声が、地鳴りのようにカインの喉から漏れる。その表情には、明らかな嫌悪と憎悪が刻まれていた。
ノアの瞳が、僅かに動く。その一瞬の反応だけで、ベルグは狂おしいほどの歓喜をその顔に爆発させた。
「おや、素晴らしい! 知っているのかい? 零細組織の名前を覚えていてくれるとは、さすがは黒鴉の副総帥、耳が早い」
「十年前に、我が黒鴉の手によって完全に潰したはずの奴隷商会だ」
カインが床の血溜まりに唾を吐き捨てるように言った。その大槌を握る拳は、今すぐ眼前の男の頭を叩き潰したい衝動を抑えるように激しく震えている。
「王国全域で身寄りのない孤児や貧民街のガキを組織的に攫い、裏のオークションへ売り飛ばしていた最悪の外道集団。先代アルバス様の怒りを買い、王都騎士団に情報を流されて木端微塵に壊滅させられたはずの、生ゴミどもの生き残りか」
「表向きはね!」
ベルグは喉を鳴らしてクツクツと笑った。その瞳には、過去の敗北に対する屈辱ではなく、それを乗り越えたという異常な傲慢さが宿っている。
「だが、現に我々はこうして生き残った。しぶとく、闇の底で脈を打ち続けていたのさ。なぜか分かるかね?」
その瞬間、ベルグの身体から放たれる歪んだ魔力が、地下牢の空気をさらに数度引き下げた。
「騎士団も、高潔を気取る貴族たちも、根腐れしているのさ。大金を積めばいくらでも目を瞑り、書類を書き換えてくれる。正義などというものは、我々のような『持てる者』が都合よく使う道具に過ぎない。そしてなにより――孤児というものは実によく金になる」
ベルグは、自身の所有物を自慢するかのように両手を大きく広げた。
「貧民街の子供も金になる。魔術の適性がある子供は、さらに高値で研究者どもが買い取る。家畜を育てるよりも効率の良い、極上の市場さ。消えても誰も泣かない。存在しないのと同じ命だからね」
あまりにも生命を冒涜したその口調に、セレシスの顔から完全に血の気が引いた。全身が粟立ち、激しい嫌悪感で目眩がする。
「そんな……そんなことのために、子供たちを……っ」
「理解できないかな、お嬢さん?」
ベルグは、絶望するセレシスの表情を心底楽しそうに見つめ、嘲笑うように首を傾げた。
「君たち光の大教会も、本質は同じだろう? 表向きは救済を唱えながら、今回のルークという少年の失踪に対してどう動いた? 『ただの孤児だ』『夜間の捜索など教会の面汚しだ』と、そう言って切り捨てたはずだ。助ける価値のある人間と、ない人間。君たちの神様とやらは、最初から命を選別しているのだよ」
その言葉は、セレシスの胸の最も柔らかい部分を、容赦なく抉り抜いた。
激しい衝撃に、セレシスは言葉を失った。脳裏を過るのは、数時間前、ルークが消えたと知った時の教会の大人たちの冷酷な、無関心な顔。
ベルグの言う通り、もし自分がここに飛び出してこなければ、ルークの命は教会によって「なかったこと」にされていた。その悍ましい現実の肯定に、セレシスの身体ががたがたと震え始める。
ベルグはそれを見て満足し、深く頷いた。
「結局、人間なんて皆同じさ。綺麗事を並べ立てても、最後は損得と都合で動く。我々と、君たち大教会、そして人殺しの集まりである黒鴉。一体何が違うというのかね?」
「違う……っ」
消え入りそうな、しかし、明確な拒絶の意志を含んだ声が響いた。
セレシスだった。
彼女は溢れそうになる涙を強引に拭い去り、恐怖に震える両足でしっかりと石畳を踏み締め、澄んだ青い瞳でまっすぐにベルグを見据えた。
「あなたと同じじゃありません……!」
「ほう?」
ベルグの笑みが、少しだけ不快そうに消える。
「教会がどうであれ、世界がどれだけ冷たくても……ここに、助けたいと願う人がいます!」
セレシスは涙を浮かべながらも、鉄格子の向こうで自分を見つめる子供たちを、自分にしがみつくルークを見た。そして――冷徹な闇を纏いながらも、その小さな身体で子供たちの盾となっているノアの背中を見た。
「見捨てたくない人が、ここにいるんです。都合なんかじゃなく、命が消えちゃうのが悲しいから、怖いけど、それでも手を伸ばす人がいる! だから……だから私は、ここにいるんです! あなたの歪んだ理屈なんて、絶対に認めません!」
地下牢が、一瞬、静まり返った。
少女の放った純粋な「白い祈り」の輝きが、地下の濃厚な悪意を一時的に払いのけたかのように、凛とした空気が空間を満たす。
カインは驚いたようにセレシスを見つめ、ソフィアもまた、その少女の芯の強さに僅かに目を細めた。
ベルグは数秒の間、不気味に沈黙した。
やがて、その口元が、さらに深く、暗く、歪に釣り上げられていく。
「……なるほど。実につまらない、素晴らしい回答だ」
男は小さく、しかし狂気に満ちた声で笑った。
「だから君たちは甘いと言うのだよ。その『見捨てない』という下らない感情こそが、最高の足枷になるというのに」
その瞬間だった。
――ゴォォォォォォォォ――――!!!
鼓膜を震わせる地鳴りとともに、地下牢全体が激しく揺れた。
レンガの隙間から大量の砂埃が落ち、天井にパラパラと亀裂が走る。
カインが即座に大槌を構え、ルークを背中に庇いながら周囲の警戒レベルを最大に引き上げた。夜烏たちもまた、一糸乱れぬ布陣で子供たちの周囲を壁のように囲む。
「総帥、これは……!」
「分かっている」
ノアの瞳が、さらに鋭く細められる。
何かがおかしい。作戦の主導権を握り、敵を追い詰めていたはずの自分たちの足元が、激しく揺らいでいる。
ベルグは笑っていた。最初から、この瞬間を迎えるまで、ずっと。
すべてを奪われ、黒鴉の絶対的な暴力の前に追い詰められている人間の顔では、断じてなかった。
「ようやく気づいたかね、幼き総帥よ」
ベルグが、狂喜に満ちた声を上げて愉快そうにのたまう。
「何にだ」
ノアの声は、冷たい。だが、その頭脳はすでに最悪のシナリオを想定し、高速で回転を始めていた。
「君たちは、ここへ来るしかなかったのだよ!」
ベルグは大きく両手を広げ、天井を仰ぎ見た。
「我々がルークという餌を攫えば、君は必ず動く。この地下牢に子供たちを囚えておけば、高潔な黒鴉は彼らを見捨てて撤退することができない。すべては計算通りさ」
その目が、狂気で三白眼気味に歪む。
「つまり、最初から――君を、その最強の配下たちを、この逃げ場のない閉鎖空間へと誘導していたんだよ!」
カインがハッと眉をひそめ、ソフィアの全身から吹き出す殺気が爆発的に膨れ上がる。自分たちが「狩る側」ではなく、「誘い込まれた獲物」だったのではないかという不穏な予感が、彼らの背筋を駆け抜ける。だが、ベルグの言葉は止まらない。その狂った歓喜は最高潮に達していた。
「黒鴉。かつて我がアシュフォード商会を滅ぼした、憎き怨敵」
「伝説の先代総帥アルバス。そして、その力を受け継いだとされる、忌々しい後継者」
ベルグの細い指先が、真っ直ぐにノアの眉間を指し示した。
「ノア・クロード。我々の本当の獲物は、最初から君だ。君のその首を、アシュフォードの復活の狼煙として、偉大なる『あの方』へ捧げるためにね……!」
その瞬間。
地下牢のさらに奥、ベルグの背後にそびえ立つ、巨大な鉄扉の向こう側から。
――ズシン……!!!
地響きを伴う、悍ましい肉塊の動く音が響き渡った。
それは、断じて人間の足音ではなかった。それほどまでに重く低い重低音。
子供たちが一斉に短い悲鳴を上げ、夜烏の服にすがりつく。
「何……あれ……? 中から、信じられないくらい、真っ黒な何かが……!」
セレシスの『白い祈り』の感性が、その鉄扉の向こうにある「存在してはならない絶望」を察知し、拒絶の悲鳴を上げていた。ベルグは、その恐怖の波紋を感じ取り、恍惚とした笑みを浮かべて悦に浸る。
「紹介しよう」
ギィィィ……と、不気味な軋み声を上げて、巨大な鉄扉の隙間から、ドロドロとした赤黒い光が漏れ出し始めた。
それは、空間を物理的に歪ませるほどの濃密な魔力。あらゆる生物の肉体を腐敗させるような、悍ましい死の気配。そして――純粋な、ただ目の前の生命を屠ることだけを目的とした、圧倒的な殺意の波動。
「我々アシュフォードが、あの壊滅の日から、執念の牙を研ぎ澄ませて十年……。あらゆる禁忌の魔術と魔獣の因子を掛け合わせ、ようやく完成させた最高傑作。対『黒鴉』用決戦兵器さ!」
ノアは、その迫り来る絶望の光を、微動だにせず黙って見つめていた。その黒い瞳の奥の氷は、もはや怒りさえ通り越し、絶対的な「抹殺」の演算を完了しつつあった。
ベルグの笑みが、人間の限界を超えて耳元まで極限に吊り上がる。
「さあ、見せてくれ! 若き黒鴉総帥、ノア・クロード!」
「君はその小さな身体で、その頼りない子供の力で――」
「我々の創り出した『化け物』を、本当に殺せるのかなぁ!?」
轟音とともに、巨大な鉄扉が、ゆっくりと、しかし確実に、完全に開き始めた。闇の向こうから、巨大な二つの紅い眼光が、ノアたちを冷酷に射抜く。
罠に飛び込んだ獲物たちを、真の絶望が飲み込もうとしていた。




