7 再開
地下へと続く石造りの階段は、どこまでも深く、どこまでも暗かった。
一歩下りるごとに、湿った冷たい空気が衣服の隙間から肌へとまとわりついてくる。カビの臭い。古い鉄の錆びた臭い。そして――かつてここで多くの命が奪われ、消えていったことを物語る、濃厚な血と『絶望の臭い』が停滞していた。
ノア・クロードは、一切の物音を立てずに無言で階段を下りていた。その横顔は硬く引き締まり、黒い瞳は一筋の光さえ通さないほど冷たく澄んでいる。
その後ろを、巨躯を低く沈めたカイン、気配を完全に消失させたソフィア、そして影の兵士である夜烏たちが、主君の怒りの温度を肌で察知しながら静かに続いた。
セレシスもまた、必死に彼らの速度に食らいついていた。しかし、地下の深淵へ近づくにつれて、彼女の顔色は目に見えて悪くなっていく。
「……っ、う……ひどい……」
胃の奥からせり上がる吐き気に耐えかね、セレシスは口元を片手で押さえ、思わず小さな声を漏らした。
彼女の持つ『白い祈り』の感性は、この地下に溜まり続けた子供たちの恐怖、苦痛、そして「助けて」という無数の小さな祈りを、壁を越えてダイレクトに受信してしまっていた。それらがまるで、頭を叩き割るような悲鳴となって彼女の胸へと容赦なく流れ込んでくる。あまりの苦しさに、彼女は胸元の聖印を壊れそうなほど強く握り締めるしかなかった。
やがて、長い階段が終わった。
その先に広がっていたのは、冷たい石壁で囲まれた、おぞましい通路だった。
通路の両側には、太い鉄格子で仕切られたいくつもの牢獄。そして――その暗がりの向こうに、彼らはいた。
「……っ!」
セレシスは目を見開き、あまりの光景に息を呑んだ。
子供たちだった。十人、二十人――いや、それ以上かもしれない。
どの子も皆、あばら骨が浮き出るほど痩せ細り、ボロボロに汚れた衣服を纏っている。こちらの足音に怯え、互いに身を寄せ合って震える小さな身体。その瞳には、子供らしい輝きなど一切なく、ただ深い諦念と恐怖だけが張り付いていた。中には、泣く気力さえ残っておらず、虚ろな目で宙を見つめている子供もいた。
その惨状を網膜に焼き付けた瞬間、ソフィアの周囲の空気が、パキパキと音を立てるかのように凍りついた。
「……殺します。この場所に関わったすべての人間を、今すぐ、最も苦痛に満ちた方法で細切れにします」
抑揚のない、静かな声だった。しかし、その細い身体から立ち上る殺気は、この場にいる誰よりも狂気的で、恐ろしかった。かつて孤独だった自分と、目の前の子供たちの姿が重なったのだろう。ソフィアの白い指先が、怒りで激しく小刻みに震えている。
カインもまた、何も言わずに大槌の柄を握る拳を凄まじい力で締め上げていた。ミシミシと革手袋が悲鳴を上げる。
ノアは何も言わなかった。ただ、その黒い瞳の奥に、静かで、しかしすべてを焼き尽くすほど烈火のごとき怒りが灯っていた。
「大丈夫、大丈夫ですよ……!」
セレシスは恐怖を怒りでねじ伏せ、真っ先に鉄格子へと駆け寄った。
「もう大丈夫ですからね。怖い大人は私たちがやっつけます。だから、安心してください」
震える子供たち一人ひとりの目を覗き込み、安心させるように必死で優しく笑いかける。その温かな声と、彼女の身体から微かに漏れ出る聖なる癒やしの気配に、怯えていた子供たちの表情がわずかに和らいだ。
すると。通路の最奥にある、ひときわ頑丈な牢の奥から、掠れた小さな声が響いた。
「……ノア、兄ちゃん?」
ノアの足が、ピタリと止まった。
聞き間違えるはずがなかった。毎日のように、自分の不器用な優しさを慕って、生意気な口を叩きながら追いかけてきた、あの少年の声を。
「ルーク」
鉄格子の奥、湿った冷たい壁際に座り込んでいた少年が、ゆっくりと顔を上げた。
汚れて塊になった金髪。鞭で打たれたような、擦り傷だらけの顔。それでも――そのハチミツ色の瞳だけは、周囲の子供たちとは違い、絶対に屈しないという強い意志を宿して、未だ死んでいなかった。
「ノア兄ちゃん!!」
ルークは弾かれたように立ち上がると、次の瞬間には鉄格子へと激しく飛びついていた。
小さな手が、錆びついた格子をガチガチと掴む。必死に、本当に必死に、その細い腕をノアの方へと伸ばした。助けを求めるように。いや、違う。絶対に、何があっても助けが来ると信じて疑わなかった子供の顔だった。
「遅いよ……っ!」
ルークの顔がゆがむ。
「絶対に来るって……お守り袋を持っていかれた時から、ノア兄ちゃんが絶対にぶっ飛ばしに来るって信じてたけど……! でも、遅いよ!」
精一杯の強がりだった。本当は、生きた心地がしなかったのだろう。暗闇の中で、明日は自分がどうなるか分からない恐怖に、一人でずっと震えていたのだろう。それでも、周囲の年下の子供たちの前では、絶対に泣かなかった。仲間を、ノアを信じていたから。
ノアは静かに鉄格子の前へと歩み寄った。そして、格子を掴むルークの小さな手に、己の手を重ね、その頭へと優しく手を置いた。
「悪かった。待たせたな」
短い、それだけの一言。
だが、その手のぬくもりを感じた瞬間、ルークの心の緊張が完全に崩壊した。
「ばかぁ……っ」
ルークはしゃくり上げ、大声を上げて泣きながら、小さな拳で何度も鉄格子を叩いた。
「すっごく……すっごく怖かったんだからな……! 変な薬を飲まされそうになって……お姉ちゃんたちのところに、もう帰れないかもしれないって……!」
「ああ」
「でも……でも、信じてた……! 絶対に来てくれるって……ノア兄ちゃんは、世界で一番強いから、絶対に助けてくれるって……!」
「ああ。よく耐えた、ルーク」
ルークは泣きじゃくりながらも、最後には誇らしげにニカッと笑ってみせた。
その言葉と笑顔に、ノアは一瞬だけ、痛みを堪えるように目を閉じた。胸の奥で、張り詰めていた何かが、安堵とともに熱く震える。
怒りが消えたわけではない。ルークを傷つけた奴らを許したわけでもない。だが――生きていた。無事だった。自分を信じて、待っていてくれた。それだけで、ノアにとっては十分すぎるほどの救いだった。
――ガチャリ。
その時、誰の手も触れていないはずの、通路の最奥にある巨大な漆黒の鉄扉から、重苦しい金属音が響いた。全員の視線が、一斉にその扉へと向く。
扉がゆっくりと開き、中から濃密な、ねっとりとした悪意の闇が溢れ出てくる。その奥から、規則正しい足音がコツ、コツ、コツと不気味に響き渡った。
「いやはや、実に見事な、感動の再会だね」
男の声だった。
低く、耳の奥にへばりつくような、不快なほど穏やかで上品な声音。
暗闇の中から姿を現したのは、一人の男だった。仕立ての良い黒い礼服を纏い、細身の体躯を揺らしている。肌は死人のように青白く、その顔の中央には、獲物を値踏みする蛇のように細い目が光っていた。そして何より――人間を同じ生き物と思っていない、底知れない冷酷な瞳をしていた。
「実に気に入ったよ、君たちのその絆というやつがね」
男は、クククと肩を揺らして笑った。
「その金髪の子供は、本当に良い『商品』だった。泣き叫ぶこともせず、こちらの尋問にも口を割らない。実に見事な教育だ」
地下牢の空気が、一瞬で沸騰した。
夜烏たちの殺気が一斉に爆発し、石壁が微かに震える。ソフィアが即座に暗器を抜き放ち、一歩前へ出た。カインの大きな拳が、骨の音を激しく鳴らす。
だが、その中で、誰よりも静かで、誰よりも深い闇を纏っていたのは、ノアだった。
「……商品、だと?」
地獄の底から響くような、極めて低い声。
しかし男は、その圧倒的な威圧感に怯むどころか、楽しそうに両手を広げて頷いた。
「そうだとも」
男は牢獄に囚われた子供たちを、まるで家畜の群れでも見るような目で見回した。
「孤児というのは本当に素晴らしい。家族がいない。彼らを必死に探す人間も少ない。貧民街から数人消えたところで、大教会も治安維持騎士団も、面倒くさがって問題にすらしない。実に扱いやすい消耗品だ」
セレシスの顔が、あまりの非道な物言いに真っ青になった。怒りと絶望で奥歯がガチガチと鳴る。ルークもまた、男の不気味な気配を思い出して、ノアの衣服をぎゅっと掴んで震えていた。
だが、男の狂気はそれだけでは止まらない。彼は細く尖った指先を、真っ直ぐにルークへと向けた。
「特に、その子は特別に価値が高かった。裏社会の覇者である『黒鴉』が、妙に大切に囲っている孤児だという情報は掴んでいたからね。……君という最高級の首を、この特等席へと誘き出す『餌』としては、これ以上ない最高の商品だったよ」
その瞬間。
地下牢全体の温度が、物理的に数度下がった。
いや、そこにいる全員が、そう錯覚せざるを得ないほどの、圧倒的で、言語を絶する「死の気配」がノアから溢れ出たのだ。さすがの男も、自分の前に立つ小さな少年から発せられる殺気に気づき、僅かに笑みを引きつらせた。だが、男はなおも挑発するように言葉を続ける。
「安心したまえ。まだ中身は壊してはいないよ。実験を始める前に君が来てくれたからね。傷をつけては、商品価値が下がってしまうからな」
――その言葉が、最後だった。
ノアの中で、理性を繋ぎ止めていた最後の鎖が、音を立てて完全に切れた。
黒い瞳から、怒りや憎しみといった、人間らしいすべての感情が消え失せる。
それは怒りすらも超越した、ただ「眼前の害虫を消滅させる」という、完全なる、純粋なる殺意の顕現だった。
「カイン」
「……はっ」
「ソフィア」
「……ここに」
「その男に触れるな。……子供たちを全員保護し、速やかに地上へ避難させろ」
冷徹極まる、総帥の絶対命令。
その声に含まれた尋常ならざる気迫に、カインとソフィアは即座に直立不動で応じ、鍵を破壊して牢獄の解放へと動いた。
「おや……?」
男が意外そうに眉をひそめ、細い目をさらに細くする。
ノアはゆっくりと歩みを進め、男を真っ直ぐに見つめた。冷たく、静かに、そして世界の終わりを告げる裁判官のように、その宣告を突き付ける。
「お前は――俺が、ここで殺す」
地下牢に、冷酷な沈黙が落ちた。
男の余裕に満ちた笑みが、初めて不快そうに歪む。
その瞬間。ノアの足元の石畳が、ミシリと音を立ててひび割れた。だれも動いていない。だが、その場にいる全員が理解した。
ーーこの男はもう、止まらない。




