6 夜襲
――ドォンッ!!!
夜の静寂を粉砕し、火花とともに石畳がクモの巣状に砕け散る。
地下の鉄格子の奥から響いたルークの悲痛な叫び。それを鼓膜が捉えた瞬間、ノア・クロードの脳内から「隠密」や「静観」といった選択肢は完全に消滅していた。彼の身体は、限界まで絞られた鋼のバネが弾けるように、弾丸となって夜の倉庫街へと飛び出していた。
その背後から、無数の黒い影が陽炎のように染み出し、ノアの軌跡を追う。
――夜烏。
それは、裏社会において「出会えば死を意味する」とまで恐れられる、黒鴉最強の実動部隊。彼らにとって、ノアの放つ殺気こそが、何よりも優先される世界の法則だった。
「総攻撃」
低く、ひどく冷徹な、たった一言。
だが、その一言が引き金となり、第三倉庫の天窓や屋根の上へと一瞬で降り立った夜烏たちは、一切の躊躇なく、ガラスやレンガを粉砕しながら内部へと突入を開始する。
パリィィンッ! と凄まじい音を立てて窓ガラスが四散した。
倉庫内にいた見張りの男たちが「な、なんだ!?」と驚愕して振り返る。だが、その首が完全に回りきるよりも、彼らの思考が状況を理解するよりも、夜烏の刃と拳の方が圧倒的に速かった。
肉元への正確無比な一撃。
声を出す隙すら与えない、喉元への鋭い掌底。
巨体をくの字に折り曲げる、鳩尾への一切の容赦のない蹴り。
悲鳴を上げる暇すら与えられない。武装した男たちは、自分が何に襲われたのかすら認識できぬまま、白目を剥いて次々と冷たい床へ沈んでいった。
「て、敵襲だぁぁぁ!! 全員武器を持て!!」
突入から数秒、ようやく一人の男が喉を血で濡らしながら絶叫した。
しかし、その瞬間には、もうすべてが遅すぎた。夜烏の黒い影は、すでに網の目のように倉庫の内部へと完璧に浸透し、その機能を麻痺させていた。
それは戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的であり、圧倒的な格差だった。
敵が腰の武器に手をかける前にその腕が叩き折られ、指揮官が命令の声を出す前に意識を刈り取られ、隣の仲間に警告を発する前に背後から制圧される。
そこにあるのは戦争ではない。冷徹なプロフェッショナルによる、ただの『狩り』だった。
「西側区画、制圧完了」
「東側、障害すべて排除」
「外周部、および逃走経路の完全封鎖を確認」
念話とハンドサインが、機械的な正確さで次々に飛び交う。夜烏たちは一切の感情を排し、ノアの手足として完璧に機能していた。
だが。
その先頭を突き進むノア・クロードだけは、配下たちとは異なる「絶対的な熱量」をその身に宿していた。ノアは周囲の雑兵に目もくれず、一直線に地下への入口を目指して突き進んでいた。
敵の防衛陣形も、さすがにその「最も危険な一撃」がどこに向かっているかを察知する。
「止めろ!! あのガキを絶対に地下へ行かせるな!!」
「死に物狂いで防げ! ここを突破されたら俺たちは終わりだ!!」
廊下の奥から、鈍い金属音を響かせながら十人近くの武装兵が飛び出してきた。
衣服の隙間からのぞく筋肉、そして構えの鋭さからして、先ほどの見張りとは格が違う。全員が軍用の大剣を装備し、幾多の修羅場を潜り抜けてきた裏社会の手練れ。普通の冒険者パーティーであれば、出会い頭に数分で肉塊へと変えられる凄まじい布陣だった。
しかし。
ノアは止まらない。止まるどころか、速度すら落とさなかった。
「小癪なガキが、死ねぇぇぇ!!」
先頭の巨漢が、風を切り裂く轟音とともに軍用剣をノアの脳門めがけて振り下ろす。
直撃すれば、子供の身体など一刀両断にされる。だが――。
――フッ、と。
ノアの姿が、男の視界から完全に消失した。
「な――」
男が驚愕の声を終える前に、彼の視界は天地が逆転していた。
気づいたときには、ノアの小さな、しかし鋼鉄よりも硬く鍛え上げられた拳が、男の分厚い鎧ごと腹部へ深く突き刺さっていた。
ゴッッ!!!!
重低音の衝撃波が周囲の空気を震わせる。
男の身体はあり得ない角度に折れ曲がり、肺の中の空気をすべて血混じりに吐き出しながら遥か後方へと吹き飛んだ。そのまま厚いレンガの壁へと激突し、壁にヒビを刻みながら崩れ落ちる。
続く二人目、三人目。
男たちは必死に剣を振り回すが、誰もノアの動きを捉えられない。彼らの目に映るのは、夜の闇がさらに濃くなったかのような、不気味に蠢く黒い残像だけだった。
無駄な大振りは一切ない。
的確に急所を撃ち抜く拳。関節を破壊する蹴り。至近距離から顎を跳ね上げる肘打ち。
それは最小限の動きであり、最短距離。ノアという存在が体現する、無駄の一切ない暴力だった。
十数秒後。
激しい静寂が戻った通路で、立っているのはノア一人だけだった。
石畳の上には、さっきまで凄まじい威圧感を放っていた武装兵たちが、無様に折り重なって転がっている。誰も死んではいない。だが、全員が二度と武器を握れないほどに完璧に戦闘不能に陥っていた。
「……ハァ、相変わらず規格外ですね、うちの総帥は」
後方から、ようやく武器を構えたカインが追いつき、転がっている大男たちを見下ろして苦笑した。その言葉には、呆れと、それ以上の深い信頼が混ざっている。
「総帥がそんなに急いで前に出られると、俺たち部下の仕事が完全になくなっちまうんですが」
「なら、次の部屋はお前が一人で片付けろ、カイン」
「いやいや、ご遠慮させていただきますよ。美味しいところは総帥にお譲りします」
そんな軽口を叩き合いながらも、カインのハチミツ色の瞳は一切笑っていなかった。彼の視線は、冷酷に地下へと続く階段の入口に向けられている。
「総帥」
ソフィアが影から滑り出るようにして、低く告げた。彼女の白磁の肌には返り血が一滴もついていない。
「この先……間違いありません。私の直感が、ここだと告げています。」
彼女の「嗅覚」が告げている。ルークはすぐ近くにいる。
そして、ノア自身もまた、全く同じ不快な感覚を肌で覚えていた。階段の下から漂ってくる、澱んだ魔力の残滓。鼻を突く、鉄錆に似た古い血の臭い。
そして――何よりもノアの神経を逆撫でしたのは、微かに、本当に微かに聞こえてくる、複数の子供たちの泣き声だった。
「行くぞ。一気に叩き潰す」
彼が階段へ一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「待ってください! 置いていかないでください!」
後方から、この血と暴力の空間にはあまりにも不釣り合いな、鈴を転がすような少女の声が響いた。
全員が驚いて振り返る。そこには、激しく息を切らしたセレシス・エルフェルトが立っていた。
純白だった修道服は埃と煤で真っ黒に汚れ、美しい金髪も乱れて顔に張り付いている。走ってきた恐怖のせいか、その華奢な肩は小刻みに震えていた。どう考えても、この場において場違い極まる存在。
「……お前、なぜここまで追ってきた」
ノアは本気で呆れ果てた声を絞り出した。夜烏の突入速度に、ただの一般人である修道女がついてこられるはずがないのだ。
「なぜって……あなたが、何も言わずに置いていったからです!」
「当たり前だ。ここは戦場だと言ったはずだぞ」
「ひどいです! 一緒に行くって言ったじゃないですか!」
「言っていない」
必死に抗議するセレシスと、それを一刀両断にするノア。
そのあまりにも緊張感のないやり取りに、カインは張り詰めていた肩の力が抜け、思わずプッと吹き出しそうになった。ソフィアにいたっては、「はぁ……」と深いため息をつきながら、痛むように額を片手で押さえている。こんな命がけの強襲作戦の最中に、総帥と言い争いをする人間など、この大陸のどこを探しても彼女くらいのものだろう。
だが。
その次の瞬間、セレシスの表情が、凍りついたように一変した。
彼女の澄んだ青い瞳が、ノアを通り越し、地下へと続く暗い階段の奥をじっと見つめる。
「……っ、あ……」
「どうした、セレシス」
ノアがその異変を察知し、声を低くする。
「下……下です……。下に、たくさん、いる……」
震える声。その瞳には、ただ圧倒的な『悲劇』を幻視したかのような絶望が宿っていた。
「何がいる」
「子供たち、です……」
セレシスは、自身の小刻みな震えを止めるように、胸元の銀の聖印を壊れそうなほど強く握り締めた。
「ルークだけじゃ、ない……。ルークの他にも、たくさんいます……。みんな、泣いて、怖がって、助けを求めてる……。」
地下の奥。暗闇の向こう。普通の人間の耳には、防音の結界のせいで届くはずのない音。しかし、彼女の持つ驚異的な『白い祈り』の感性は、結界の隙間から漏れ出す子供たちの絶望の波動を、明確に受信していた。彼女の顔は、あまりの凄惨な気配に完全に青ざめていく。
ノアの瞳から、完全にすべての光が消え失せた。
「……チッ、そういうことか」
誘拐されたのは、ルークだけではなかったのだ。
この『第三倉庫』という場所は、ただの物資の隠し場所ではない。身寄りのない孤児や、貧民街の子供たちを密かに拉致し、一箇所に集めるための「集積施設」だったのだ。
目的が裏社会の奴隷売買か、あるいは禁忌とされる魔術の実験体か――どちらにせよ、ノアにとっては決して許されざる領域への侵犯だった。大切な家族を奪われ、さらに多くの弱者が蹂躙されている。
カインの顔から、完全に軽薄な笑みが消え去り、その巨体から地鳴りのような威圧感が漏れ出す。
ソフィアの周囲には、物理的な冷気となって現れるほどの狂気的な殺気がありありと膨れ上がっていった。
「総帥」
「分かっている」
カインの低い問いかけに、ノアは静かに、しかし地獄の底から響くような声で答えた。
彼はもう一度、地下へ続く漆黒の闇を見据える。
「全員、救出する」
温度のない、冷酷な声。だが、その言葉には、世界の何物をもっても曲げることのできない『絶対の意志』が込められていた。
「ルークはもちろん、そこに囚われている子供たちを一人残らず連れ戻す。誰一人として、この闇の中に置いてはいかない」
バサリ、と漆黒の外套が激しく翻る。
ノアは一切の躊躇を捨て、地下への階段へと力強く足を踏み出した。
――その時だった。
地下の、奥深くからレンガの壁を伝って、不気味な笑い声が響き渡った。
「クックックッ……、ハハハハハ!」
それは、人間の歪んだ悪意をそのまま形にしたような、ねっとりとした笑い声だった。まるで、ノアたちがここに突入してくることを、最初からすべて知っていたかのような、余裕に満ちた響き。
「ようこそ」
笑い声が響く
「黒鴉の総帥ーノア・クロード」
魔法によって拡声された男の声が、地下階段の闇から這い上がってくる。
「待っていたよ」
それだけだった。
ノアの足が、僅かに止まる。敵は知っている。自分たちの組織の名前を。ノアという存在を。
そして――ルークを攫った本当の理由を。
倉庫街を覆う夜の闇は、彼らをあざ笑うかのように、今まで以上に深く、濃く、底なしの悪意となって広がっていた。




