5 闇の倉庫
東区倉庫街の夜は、ひたすらに静かだった。
だが、それはあまりにも静かすぎた。
昼間の喧騒が嘘のように消え失せ、潮風がレンガの隙間を吹き抜ける音だけが不気味に響いている。
本来であれば、夜間であっても夜勤の労働者が行き交い、密輸業者が影で囁き合い、それらを取り締まる見張りの声がどこかしらから聞こえてくるはずの場所だ。
それが、まるでない。人間の気配そのものが、この区画から不自然に切り離されている。
(まるで、意図的に静寂を作り出しているかのようだな……)
ノア・クロードは、漆黒の仮面で顔を覆った配下たちの影に紛れながら、眼前にそびえ立つ巨大な倉庫群を見上げていた。その黒い瞳は、状況の異常性を冷徹に分析し、敵の意図を正確に読み解こうと、常に氷のような冴え渡りを見せている。
「報告」
感情を削ぎ落とした、極めて短い命令。
すると、ノアの影そのものが伸びたかのように、夜烏の精鋭が一人、音もなく石畳の上に膝をついた。
「不審な荷馬車は『第三倉庫』へ侵入。隠蔽結界の魔力反応も、その内部に固定されました」
「出入りは」
「我々が包囲網を敷いて以降、ネズミ一匹、その大扉からの出入りはありません」
ノアの瞳が、さらに鋭く細められる。
荷馬車が入った。そして、誰も出ていない。ならば、導き出される答えは単純かつ明白だった。
「中だな」
ノアが小さく呟くと、周囲を囲む夜烏たちが無言で、しかし一糸乱れぬ動きで深く頷いた。彼らの間で交わされる空気は、一瞬にして冷酷な『戦闘態勢』へと切り替わる。衣服の下で刃が擦れる微かな金属音すら立てず、ただ殺気だけが密度を増していく。
その、完璧な緊迫感が支配した、まさにその時だった。
――ガタンッ!!!
少し後方の、闇が濃い物陰から、静寂を盛大に踏み荒らすような物音が響き渡った。
木箱が乱暴にズレて、石畳を擦った音。
夜烏たちの視線が、まるで精密に連動した機械のように、一斉に音の発生源へと向けられる。仮面の奥の瞳には、容赦のない殺意が宿っていた。
「いたっ……、あ痛たた……」
そこにいたのは、積み上げられた木箱の角に思い切り足をぶつけ、涙目で脛を抱えて蹲るセレシス・エルフェルトの姿だった。純白の修道服が、泥だらけの路地でひどく場違いに浮き上がっている。
沈黙。
胃が痛くなるような、圧倒的で、重苦しい沈黙がその場を支配した。
襲撃者か、あるいは敵の伏兵かと身構えた夜烏たちが、相手がただの無鉄砲な修道女だと理解した瞬間、何とも言えない脱力感を伴って無言で視線を逸らした。
『第一翼』カインは、あまりの間の抜けた光景に深い溜息をつき、大きな手のひらで自身の額をガシガシと押さえている。日頃の副総帥としての威厳が、彼女のせいで削られていくのを感じて胃を痛めているのだ。
『第六翼』ソフィアにいたっては、もはや怒る気すら失せたというように、冷めたジト目で遠い夜空を見上げて現実逃避を始めていた。
そして、その中心に立つノアだけは――完璧なまでに無表情だった。ピクリとも表情を変えず、ただ底の知れない冷徹な眼差しをセレシスへと向ける。
「帰れ」
「帰りません!」
間髪入れぬ即答だった。セレシスは足の痛みに顔を顰めながらも、ノアの視線を真っ直ぐに見返し、その青い瞳に不退転の決意を宿している。
「今ので敵に気付かれたらどうする」
「それは……本当に、すみません……。でも、絶対に帰りません!」
ノアの冷酷極まる叱責に、セレシスは申し訳なさそうに身を縮めはしたものの、それでも引き下がる気配は微塵もなかった。
恐怖で震え、実際に足手まといになりかけているというのに、その根底にある「ルークを助ける」という意志だけが異様なほど頑強なのだ。その、恐怖を気合いでねじ伏せているかのような図太さに、カインは怒りを通り越し、呆れ混じりの感心を抱き始めていた。
(おいおい、総帥のあの視線に晒されて、一歩も引かないやつなんて初めて見たぞ……)
ノアは、自身の合理的な計算をことごとく無視してくるこの少女に対し、内心で深く、本当に深く溜息を吐き出した。だが、これ以上ここで押し問答をして時間を浪費することこそが最大の愚策である。ノアは完全にセレシスを「無視すべき背景」として処理することに決めた。
「総帥」
張り詰めた空気を戻すように、夜烏の調査班の一人が声を潜めて口を開いた。
「事前の潜入により、第三倉庫の内部見取り図を入手しました」
カインが素早く動き、石畳の上に一枚の簡易地図を広げる。
ノアがそれを静かに見下ろすと、周囲の幹部たちも顔を寄せた。
「構造は二階建て。地上階は主に大型の貨物搬入路となっており、遮蔽物が多い。そして、一般の登録情報には記載されていない『地下区画』が存在します。常駐している警備兵の数は、確認できるだけで十数名以上。これらはすべて軍用の装備で武装しています」
「不自然だな」
カインが顎に手を当て、不快そうに目を細める。
「ただの倉庫の地下に、それほどの大規模な隠蔽空間と私兵を配置する理由がない。ルークが捕らえられているとすれば、間違いなくこの地下区画だ」
緊迫した作戦会議。その中心に、場違いな白い指がすっと伸びてきた。
セレシスが、地図のある一点を恐る恐る指差したのだ。それは、地下区画のさらに最奥――行き止まりになっている不自然な空白地帯だった。
「ここ……ここですね」
全員の視線が、一斉にセレシスへと突き刺さる。
「何がだ」と言わんばかりの化け物たちの視線に、セレシスはびくりと肩を震わせ、自分の修道服の袖をぎゅっと握りしめた。しかし、彼女の瞳は真剣そのものだった。
「えっと……あの……」
「理由は」
ノアが感情のない声で問い詰める。直感や感覚など、作戦行動においては万死に値する不確定要素だ。
「……理由は、分かりません」
「は?」
カインが思わず、素で呆れたような声を漏らした。理由もないのに作戦に口を挟んだのかと、夜烏たちの間にもわずかな不審の空気が流れる。
「でも!」
セレシスは、周囲の冷ややかな反応を跳ね返すように、胸元の聖印を強く握りしめた。
「ここから……この場所から、すごく嫌な感じがするんです。冷たくて、ドロドロしていて、誰かが泣き叫んでいるような……そんな悪い何かが、ここに集まっている気がします。私の『祈り』が、ここが一番危険だと告げているんです」
必死に訴えかけるセレシス。しかし、再び訪れる重苦しい沈黙。ノアは、無表情のままセレシスを見つめ続けていた。その瞳には、彼女の言葉を検討する余地すら見当たらない。
「根拠にならん。お前に付き合って、部下の命を危険に晒すわけにはいかない」
総帥として、当然の、冷徹極まる切り捨てだった。裏社会を生き抜くためには、確実な情報と数字だけがすべてだ。
だが、その冷たい拒絶を遮るように、もう一つの声が響いた。
「総帥」
口を開いたのは、それまで沈黙を守っていたソフィアだった。彼女はセレシスを一瞥した後、ノアに向き直り、真剣な表情で告げた。
「……実は、私も、その場所が気になっていました」
「ほう」
ノアの鋭い眉が、僅かに動いた。
ソフィアは、黒鴉の幹部の中でも理論派ではない。天性の暗殺者としての「嗅覚」で生きる感覚派だ。そして、彼女のその不気味なほどの直感は、これまでの過酷な任務において、ほとんど、いや、ただの一度も外したことがなかった。
(素人の修道女の妄言なら切り捨てられるが……ソフィアの直感と一致したとなれば、話は別だ)
ノアの頭脳の中で、瞬時に戦術の再計算が行われる。セレシスの「嫌な予感」と、ソフィアの「暗殺者としての直感」。二つの異なる感覚が同じ場所を指し示した。それは、十分に命を賭けるに値する『根拠』へと昇格した。
「面白い」
ノアの唇の端が、微かに、冷酷に吊り上がる。彼は地図を見つめ、即座に淀みのない命令を下した。
「第一班は正面から強襲。敵の注意を引きつけろ。第二班は裏口の退路を封鎖。逃亡者は一人たりとも逃すな。そして――第三班は俺が率いる。その不自然な地下空間への通路を探し出し、最優先で確保する」
その言葉が終わるや否や、夜烏たちが弾かれたように動き始め、それぞれの闇へと溶けていく。
その時、セレシスが少しだけ頬を膨らませ、決意を固めたように小さく手を挙げた。
「あの! 私も行きます! その地下の場所に、私を連れて行ってください!」
ノアが見た。
カインが見た。
ソフィアが見た。
その場に残っていた全員の冷ややかな視線が、再び彼女に集中した。
「駄目だ」
三人同時、完璧に重なった拒絶の言葉だった。
セレシスは不満そうにさらに頬を膨らませ、一歩前に出る。
「でも、怪我人が出たら私の治癒の力が役に立ちます! それに――」
「駄目だ」
「まだ、最後まで何も言ってません!」
「言わなくても分かる。お前の行動パターンは非合理的で予測がつかん。これ以上の同行は許可できない」
ノアは表情一つ変えずに即答した。セレシスがどれだけ食い下がろうとも、その決定を覆すつもりは毛頭なかった。
――しかし。
その頑なな拒絶の時間を、最悪の現実が強制的に終わらせた。
重厚なレンガ造りの倉庫の方角から、夜の静寂を無惨に引き裂いて、一人の子供の、悲痛な叫び声が響き渡ったのだ。
「いやだ!! 来るな!! 離せよ!!」
その瞬間、その場にいた全員の動きが、凍りついたようにピタリと止まった。
セレシスの顔から、血の気が一瞬で引いていく。
聞き間違えるはずがなかった。毎日のように、ひだまり孤児院の庭で元気に駆け回り、自分を慕って呼びかけてくれていた、あの不器用で勇敢な少年の声。
「今の声……ルークです!!」
セレシスが息を呑み、恐怖と衝撃に身体を震わせた、まさにその刹那。
ノア・クロードは、すでにそこにはいなかった。
ドンッ!!! と、凄まじい脚力によって石畳の地面がクモの巣状に爆ぜて砕ける。
セレシスが目で追うことすらできない速度で、ノアの身体は前方の闇へと跳躍していた。夜風を裂いて激しく翻る漆黒の外套。それはさながら、獲物を見つけた真の巨鳥の羽ばたきだった。
そして、彼の黒い瞳からは、人間らしいすべての温度が完全に消失していた。残されたのは、世界を滅ぼさんばかりの、底の知れない絶対的な殺意。
「総攻撃」
夜の闇に響いたのは、驚くほど静かで、しかし鼓膜を震わせるほどの重みを持った声だった。
それこそが、裏側を支配する巨大組織『黒鴉』の総帥による、慈悲なき絶対命令。
「――我が翼を傷つけた羽虫どもを、一匹残らず叩き潰す。ルークを取り戻すぞ」
その冷徹な咆哮に呼応するように、影の中から無数の夜烏たちが一斉に倉庫へと飛び込んでいく。
裏社会の化け物たちによる、容赦のない蹂躙劇――戦いが、今始まった。
*
同じ頃。
重厚な鉄の扉に閉ざされた、第三倉庫の薄暗い地下区画。
カビと血の匂いが充満する鉄格子の向こう側で、床に転がされていた一人の少年が、地上の微かな地響きを察知して、ゆっくりと顔を上げた。
衣服は引き裂かれ、身体のあちこちに小さな擦り傷を作っている。しかし、その瞳には、絶望の影は一切なかった。
「……ノア兄ちゃん?」
少年――ルークは、自分の胸元からちぎり取られたお守り袋の感覚を思い出しながら、不敵に、信じる者の名を呟いた。
深い闇の底、絶望の中で、小さな、しかし決して消えることのない希望の光が、今、激しく灯ろうとしていた。




