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黒鴉の総帥は最後の刻印を継ぐ  作者: カタナワイ


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黒い翼

東区倉庫街。

昼間は大陸全土から集まる物資と、それを行き交わせる労働者たちの怒号のような活気で溢れ返るその場所も、夜になればまるで世界から見捨てられたかのような静寂に包まれていた。


月光を遮るようにうずたかく積み上げられた、巨大な木箱の群れ。それらが地面に落とす影は複雑に入り組んでいる。人気のない石畳には、昼間の名残である潮風と、ひどく鼻を突く錆びた鉄と油の匂いが混じり合って停滞していた。

セレシス・エルフェルトは、激しく脈打つ心臓を片手で抑え込みながら、巨大なレンガ造りの倉庫の陰に身を潜めていた。


「ここに……いるんですよね、ルーク……」


白く震える指先で、胸元の銀の聖印を強く握りしめる。金属の冷たさが、じっとりと指に絡みつく。

怖かった。今すぐにでも引き返し、大教会の頑強な壁の中に逃げ出したいという本能的な恐怖が、彼女の細い足を何度も後ろへ引き戻そうとする。ただの、見習いの治療師でしかない自分が、こんな夜の犯罪地帯に立ち入るなど、自殺行為以外の何物でもない。

だが、それでもセレシスの足は、一歩ずつ不器用に前へと進む。恐怖で涙が滲みそうになるたびに、ルークのあの不格好な木彫りの羽を思い出し、己の臆病な心を奮い立たせる。


(ここで私が逃げたら、あの子の残した『祈り』に、誰が応えるの……!)


その想いだけが、今の彼女の細い背中を支えていた。

その時だった。


「……誰かいるぜ」


低く、ひどく濁った声が、背後の闇から放たれた。

その声の冷たさに、セレシスの全身の血液がまたたく間に凍りついた。心臓が跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れたように喉がヒッと鳴る。


恐る恐る、錆びついた人形のような動きで振り返る。

そこには、いつの間にか闇から染み出すようにして、三人の男たちが立っていた。

下卑た薄汚い笑みを浮かべた粗暴な顔。衣服の隙間から覗く、血の匂いが染み付いた軍用の武器。彼らの瞳には、深夜の倉庫街に迷い込んできた可憐な獲物を値踏みするような、嗜虐的な光がギラギラと灯っていた。


「へえ、こんな時間に、こんな掃き溜めに修道女とはな。いいものが見られたぜ」

「迷子か? それとも、大教会のお偉方の命令で、俺たちの『お仕事』の偵察にでも来ちまったか?」

「どちらにせよ、タダで帰すわけにゃいかねえよなぁ……!」


耳障りな嫌な笑い声が、夜の静寂に響く。

セレシスは恐怖のあまり、石畳の上でずるずると一歩後退した。

逃げなければならない。頭では狂ったように警報が鳴り響いている。だが、あまりの恐怖のあまり身体が硬直してしまい、指先一つ動かすことができない。


「来ないで、ください……!」


必死に絞り出した拒絶の言葉は、男たちにとっては極上の愛玩でしかなかった。


「そりゃ無理だな。大人しく縛られな」


先頭の男が、チャキリと冷たい音を立てて剣を抜いた。

月光を浴びて鈍く銀色に光る刃が、セレシスの瞳に映り込む。

視界が真っ白になり、圧倒的な『死』の概念が脳裏をよぎった。セレシスは無意識に目を瞑り、来たるべき痛みに備えて身を縮める――。


――ドォン!!!


次の瞬間、鼓膜を破らんばかりの衝撃音が轟いた。

肉と骨が、固い木箱に凄まじい速度で衝突する生々しい音。


「……え?」


恐る恐るセレシスが目を外に向けると、何が起きたのか全く理解できなかった。

さっきまで目の前で剣を構えていたはずの男の身体が、まるで大砲の弾丸で撃ち抜かれたかのように数メートル先まで吹き飛んでいたのだ。男は巨大な木箱を粉砕しながら叩きつけられ、受け身一つ取れずに地面に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。


残された二人の男も、あまりの異常事態に言葉を失い、完全に硬直していた。


「な、なんだ、今の――」


男が言いかけるよりも早く、『闇』が動いた。

本当に、そうとしか見えなかった。

月光の影がほんの一瞬だけ引き延ばされたかと思った次の瞬間には、漆黒の装束を纏った人影が、男たちの懐へと滑り込んでいた。

一瞬。文字通り呼吸を一度する間もなく、肉体を切り裂く、あるいは関節を破壊する鈍い音が連続して響く。残りの二人は、自分が何に襲われたのかを認識することすら許されず、そのまま意識を刈り取られた。


あまりにも速く。あまりにも圧倒的で、無駄のない暴力。


「周辺の安全を確認」

「障害、すべて排除。制圧完了」


抑揚のない、まるで機械のような低い声が路地に交錯する。

いつの間にか、セレシスの周囲には、十数人もの黒装束の人影が音もなく立ち並んでいた。

顔を完全に覆い隠す漆黒の仮面。一切の無駄を削ぎ落とした、張り詰めた統率。彼らは人間の形をしておらず、まるで意思を持った『影の兵士』そのものだった。

『夜烏』。その恐怖の代名詞を、大教会の世間知らずな見習いであるセレシスは知る由もない。だが、彼女の防衛本能が、喉が千切れるほどの悲鳴を上げて警告していた。


(この人たちは、危険だ……。さっきの男たちとは、比べ物にならないくらい、恐ろしくて強い……!)


セレシスが息を止め、石畳の上で身を縮めた、その時だった。

彫像のように微動だにしなかった黒い兵士たちが、まるで一つの生き物のように、滑らかな動きで左右に割れて道を作った。


誰かが、来る。

セレシスが固唾を呑んで闇の奥を見つめると、静かな、しかし確かな重みを持った足音が、夜の空気を支配するように響き渡った。


コツ。

コツ。

コツ。


ゆっくりと闇の中から現れたのは、一人の少年だった。

夜風に大きく翻る漆黒の外套。夜の底をそのまま切り取ったかのような深い黒髪。そして、何者をも寄せ付けない、冷え切った、底の深い黒い瞳。

年齢は自分とそれほど変わらない――十六歳程度にしか見えないのに、その背中から放たれる圧倒的な覇気とカリスマ性は、周囲の百戦錬磨の兵士たちを完全に平伏させていた。


少年は地面に無様に転がっている三人の男たちに一度だけ視線を落としたが、まるで石ころでも見るかのようにすぐに興味を失い、視線を逸らした。

そして、その黒い瞳が真っ直ぐにセレシスを捉えた。


少年の黒い瞳と、セレシスの澄んだ青い瞳が、月光の下で真っ向から交差する。

わずか数秒。時間にしてそれだけのことなのに、セレシスにとっては、世界の時間が完全に停止したかのように長く、息苦しい瞬間に感じられた。少年の瞳から放たれるプレッシャーは、先ほどの暴漢たちの比ではなかった。


「……誰だ」


最初に少年の唇から漏れたのは、その短い言葉だった。

低く、温度の一切ない声。その感情の読めない冷徹な視線に射抜かれ、セレシスは恐怖に押し潰されそうになりながらも、教会の聖職者としての意地だけで、思わず背筋をピンと伸ばした。


「せ、セレシス・エルフェルト、です……っ」

「教会の人間か」


少年の瞳が、僅かに細められる。


「なぜ、こんなところにいる」

「ルークを……ルークという男の子を探しています!」


セレシスが必死に叫んだその瞬間、少年の眉がわずかに跳ね上がった。

彼がここに現れてから、初めて見せた『人間らしい反応』だった。セレシスは、その少年の瞳の奥に、一瞬だけ、激しい焦燥と怒りの炎が揺らめいたのを見逃さなかった。


「あなた……ルークを知っているのですか?」

「知っている」


短い、だが極めて重みのある返答だった。

冷酷で、恐ろしい少年。けれど、その「知っている」という一言にだけは、一片の嘘も、不純な動機も混ざっていないことが、セレシスにはなぜか直感的に理解できた。この少年は、冷たい仮面を被っているけれど、心からルークのことを案じているのだと。


(この人は、ルークを傷つけるための敵じゃない……! 怖いけれど、私と同じように、あの子を助けようとしてここにいるんだ!)


そう確信した瞬間、セレシスの心の中から恐怖が僅かに薄れ、代わりに強い光が宿った。彼女は一歩、少年の冷徹な結界へと踏み出すように前へ出た。


「だったら……! 話している暇はありません、早く助けに行かないと! あの一味は、高度な魔術や軍用の武器を持っているって、教会の人が言っていました。ルークが、危ないんです!」


セレシスが声を大にして訴えた瞬間、周囲の夜烏たちが、総帥への不敬と見なして不穏に身動ぎし、武器に手をかけた。張り詰めた殺気がセレシスの肌を刺す。

だが、少年――ノアは、ただ片手をわずかに上げるだけで、部下たちの殺気を一瞬で完璧に鎮めてみせた。彼は動かず、ただ静かに、冷徹極まる眼差しでセレシスを観察していた。


「そのために、俺はここにいる」

「なら…一緒に……」

「だが」


セレシスの希望に満ちた言葉は、ノアの低く強固な声によって無慈悲に遮られた。

突き刺さるような黒い瞳が、彼女の甘さを糾弾するように向けられる。


「お前は邪魔だ」


一ミリの容赦もない、冷酷な現実の突き付け。セレシスはショックに息を呑んだ。


「ここは遊びじゃない」


ノアの声は冷たい。


「死にたくなければ帰れ」


それだけだった。だが、その言葉には反論を許さない重みがあった。

そう冷たく言い残すと、ノアはセレシスに関心を失ったように背を向け、倉庫の奥へと歩き出した。黒い兵士たちもまた、その背中に従うように音もなく動き出した。


圧倒的な拒絶。だが、セレシスの胸の中で燃える「白い祈り」は、そんな冷徹な闇に屈するほど弱くはなかった。


「……帰りません!」


夜の倉庫街に、少女の凛とした声が響き渡った。

ノアの足が、ピタリと止まる。


「私は、ルークを助けるまで、絶対に帰りません! あなたがどれだけ私のことを邪魔だと言っても、足手まといだと言っても……あの子を一人で置いていくことだけは、絶対にしません!」


セレシスの身体は、未だに恐怖と寒さでガタガタと激しく震えていた。ノアがもう一度振り返ってその気迫を放てば、気絶してしまうかもしれないほど怖かった。

それでも。ルークを救うというその一点においてだけは、彼女は一歩も引き下がるつもりはなかった。


張り詰めた沈黙が路地を支配する。

カインやソフィアが、物陰から総帥の出方をじっと窺っていた。

カインは呆れ半分、驚き半分の視線をセレシスに送っている。誰もが、ノアが彼女を力ずくで排除する命令を下すだろうと思っていた。


やがて。

ノアは、背を向けたまま、小さく大きな溜息を吐き出した。


「……好きにしろ」


振り返らないまま放たれたその声は、相変わらず冷たかったが、どこか諦念と呆れが含まれていた。ノアにとって、目の前の少女の頑固さは、自身の合理的な計算の枠外にある、ひどく理不尽で、しかし致命的に無視できない何かだった。


「だが、お前がそこでどうなろうと、俺たちは一切関知しない。死んでも、助けない」

「はい! 結構です!」

「……返事だけは立派だな」


ノアの口から漏れた、皮肉めいた呟き。

しかし、セレシスには分かった。初めて、ほんの少しだけ、少年の氷のような声に、人間らしい、年相応の感情が混じった気がしたのだ。


――なんだ、この無茶をする修道女は。


ノアは内心で眉をひそめる。戦場を知らない、裏社会も知らない、自分がどれほど危険な場所に立っているのかも理解していない。

それなのに。

あの少女は一歩も引かなかった。理解できない。だからこそ、少しだけ気になった。


++


――怖い。


セレシスは正直にそう思った。

あの少年は恐ろしい。自分とは住む世界が違う。

けれど。

ルークの名前を呼んだ時のあの反応だけは。

どうしても嘘には見えなかった。



お互いに対する歪で、しかし確かな認識。

漆黒の外套を纏う裏社会の少年総帥と、純白の修道服を纏う見習い治療師。

黒い翼と、白い祈り。

正反対の二人の運命は、火花を散らしながら、初めて明確に交差した。

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