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黒鴉の総帥は最後の刻印を継ぐ  作者: カタナワイ


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3 白い祈り

夜風が、容赦なく肌を刺すように冷たい。

中央区の美しく整えられた石畳の上を、セレシス・エルフェルトは必死に駆けていた。


ゼェ、ゼェ、と自分の喉から苦しげな呼吸が漏れるたびに、胸の奥が焼けるように熱くなる。

一歩踏み出すごとに痛みが足首を駆け抜けた。息が苦しい。足が痛い。

それでも、セレシスは絶対に足を止めなかった。止まるという選択肢すら、今の彼女の頭には存在しなかった。


(私がここで足を止めてしまったら……あの子が、一人になってしまう)


ただそれだけの恐怖と使命感が、彼女の華奢な体を突き動かしている。


「ルーク……」


夜の静寂に溶けてしまいそうなほど小さな声で、少年の名前を呟く。

目を閉じる間すら惜しいのに、走る視界の向こうに、いつも元気に笑いながら自分を呼ぶ少年の姿が鮮明に浮かび上がってきた。


『セレシス姉ちゃん!』

『見て見て! これ、今度は先生に手伝ってもらわないで、一人だけで作ったんだ!』


そう言って、泥だらけの小さな手を差し出し、得意げな満面の笑みを浮かべていたルーク。その手の中にあったのは、お世辞にも上手とは言えない、歪で不格好な鳥の木彫りだった。

あの時のルークの誇らしげな顔。汚れた衣服。一生懸命に刃物を握っていた小さな指先。

それを思い出すだけで、セレシスの口元は自然と柔らかく緩んでしまう。しかし、次の瞬間には、激しい焦燥感と胸を締め付けるような痛みが彼女を襲った。あの無邪気な少年が、今、どこの誰とも知れない悪意に満ちた大人たちに囚われ、恐怖に泣き叫んでいるかもしれないのだ。


「お願いです……どうか、無事でいてください……」


セレシスは走りながら、胸元に下げた古びた銀の聖印を、祈るように強く、強く握りしめた。金属の冷たさが、パニックになりそうな彼女の心をかろうじて現実へと繋ぎ止める。


本来、大教会に所属する見習い治療師である彼女にとって、この時間帯の外出は重大な規律違反だった。見つかれば、見習いの資格剥奪どころか、破門すらあり得る。

それでも、彼女は迷わずに裏門の鍵を盗み、夜の街へと飛び出した。


ルークが行方不明になったという報せを偶然耳にしたとき、教会の大人たちは「ただの孤児の迷子だろう」「夜間の捜索など大教会の面汚しだ」と、冷酷に切り捨てた。その冷たい反応を見た瞬間、セレシスの心の中で何かが決定的に弾けたのだ。

見て見ぬふりをして、温かいベッドで朝を待つことなんて、彼女にはどうしてもできなかった。


(誰かが助けてくれるかもしれない……。でも、もし誰も助けなかったら? みんなが『誰か』任せにして、あの子がそのまま闇に消えてしまったら、私は一生、自分を許せない!)


昔からそうだった。

困っている人、泣いている人、傷ついている人を見ると、自分の不利益など計算する前に体が動いてしまう。その要領の悪さと危うさに、これまで何度、教会の上の人間から叱責されてきたか分からない。


『セレシス、君の持つ同情心は美徳だが、同時に致命的な欠点だ。君はもう少し、自分という存在を大切にしなさい』


かつて、呆れたように、しかし深く心配するように向けられた老司祭の言葉が耳の奥で蘇る。

今の自分なら、その言葉の意味がよく分かった。自分はきっと、大教会の厳格な教えに従う聖職者としては、あまりにも失格なのだ。損得を考えず、自分の身を削ってでも他者に手を伸ばしてしまう。

たぶん自分は、そういう風にしか生きられない。不器用で、泥臭くて、お人好しな、この生き方しかできないのだ。


「だから……待っていてください、ルーク。今、行きます……!」


覚悟を新たにし、セレシスはさらに速度を上げて夜の街を走り抜ける。中央区の華やかな大通りを抜け、次第に建物の密度が増し、街灯の光が届かなくなる薄暗いエリアへと足を踏み入れていく。


その時だった。

入り組んだ路地の奥から、不意に微かな物音が響いた。


――ガシャン。


何かが崩れ落ち、金属が石畳を擦るような鈍い音。

セレシスはビクッと身体を震わせ、反射的に足を止めた。心臓がドクドクと早鐘を打ち始める。ルークを攫った犯人かもしれないという恐怖が背中を駆け抜けるが、それ以上に「誰かが傷ついているかもしれない」という予感が、彼女の足を一歩前へと進めさせた。


壁の影に身を潜めながら、恐る恐る路地の奥を覗き込む。

月光すら届かない、ゴミに塗れた暗がりの地面。そこにいたのは、犯人ではなく――傷だらけの、小さな少年だった。


年齢は十歳に満たない程度だろうか。衣服は酷く破れ、まるで何者かから必死に逃げてきたかのように泥に汚れている。そして何より、その細い腕からは、ドクドクと赤黒い血が流れ落ち、石畳を濡らしていた。少年は壁に背を預け、荒い呼吸を繰り返している。


「大丈夫ですか!?」


恐怖など一瞬で吹き飛んでいた。セレシスは声を掛けながら、条件反射的に少年の元へと駆け寄った。

しかし、突然暗闇から現れた修道服の少女に対して、少年は恐怖に顔を歪め、残った足で激しく地面を蹴って後退りした。


「く、来るな……ッ! あいつらの仲間か!?」

「あ……」


少年の怯えきった、野生の獣のような鋭い視線。それに直面したセレシスは、自分が大教会の、彼らにとって必ずしも「味方」とは限らない衣服を纏っていることに気づいた。裏社会や貧民街の人間にとって、教会の人間は冷酷な取り締まり側の人間でしかないこともある。


セレシスは少年を刺激しないよう、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。そして、両手をあらかじめ広げて武器を持っていないことを示し、心の底から慈愛を込めて、優しく微笑みかけた。


「安心してください。私は大教会の者ですが、あなたを傷つけるつもりはありません。……私は、あなたの敵じゃありませんよ」


その穏やかな、すべてを包み込むような声音に、少年の身体の強張りがわずかに緩んだ。

セレシスがそっと少年の負傷した腕に触れようとした、その瞬間だった。


ふわり、と。

彼女の胸元にある古びた銀の聖印が、誰の魔力供給を受けるでもなく、自発的に淡く輝き始めた。

それは教会で習うどの魔術とも違う、陽だまりのように温かで、柔らかな白い光だった。その光が少年の傷口を優しく包み込むと、信じられない現象が起きた。少年が痛みに顔を顰めることもなく、流れ出ていた血がピタリと止まり、裂けていた皮膚がまるで時間を巻き戻すかのように、みるみるうちに滑らかに塞がっていく。


「え……? あ、あれ……?」


少年が我が目を疑うように目を見開いた。自分の腕を擦り、さっきまであった激痛が完全に消失していることに愕然としている。

治療を施したはずのセレシス自身もまた、自分の手のひらを見つめて少しだけ驚いていた。


(また、だ……)


最近になって、時々起きる不思議な現象。特別な呪文を唱えるわけでも、高価な触媒を使うわけでもない。ただ、目の前の誰かの苦痛を和らげたい、無事でいてほしいと強く「祈る」だけで、奇跡のような治癒の光が発現する。

大教会では、高度な治癒魔術は選ばれた高位の神官にしか使えないはずだった。理由も分からず、不気味に思われるのを恐れて教会の上層部にはまだ一切報告していない。

だが、今はそんな自身の異常性について悩んでいる場合ではなかった。


「立てますか? どこか、他に痛むところは?」


セレシスが優しく問いかけると、少年はまだ狐につままれたような顔をしながらも、ゆっくりと立ち上がり、深く頭を下げた。


「……うん、大丈夫。痛くない。ありがとう、お姉ちゃん」

「よかった……。こんな夜更けに危ないですから、早く大通りへ――」


セレシスが言いかけた、その時だった。

はるか遠く、街の静寂を切り裂いて、複数の「異様な足音」が耳に飛び込んできた。


ドドドドドドッ――――!!


それは、地響きのような重低音でありながら、驚異的なまでの規則正しさと尋常ではない速度を孕んでいた。普通の人間が走る音ではない。

セレシスが反射的に頭上を見上げると、月光に照らされた周囲の屋根の上を、いくつかの「黒い影」が凄まじい速度で駆け抜けていくのが見えた。


「え……?」


セレシスは息を呑み、その光景に完全に目を奪われた。

夜の街を音もなく跳躍し、風を切り裂いて駆ける、漆黒の外套を纏った者たち。その一糸乱れぬ統率された動きは、まるでお互いの思考を共有しているかのようであり、夜空を支配する巨大な「鴉の群れ」そのものだった。


そして。

その驚異的な化け物たちの先頭を走る、ひときわ小柄な人影。


距離が遠く、さらに夜の闇が邪魔をして、その人物の正確な顔までは見えない。しかし、その小柄な背中から放たれる、世界のすべてを冷徹に見下ろすかのような圧倒的な存在感と気配だけは、この地上にいるセレシスの元まで明確に突き刺さってきた。


(なんなの、あの人たちは……。冷たくて、でも、どこか激しい……)


恐怖とは違う、魂が震えるような感覚にセレシスは立ち尽くす。

黒い影たちは、彼女が思考を巡らせる暇すら与えず、一瞬にして夜の向こう――東区の方向へと消え去っていった。


セレシスはまだ知らない。

今、自分が目撃したあの圧倒的な気配を纏う少年総帥ノアが、自分と全く同じ目的地――ルークの囚われている場所へと向かっていることを。

そして、その先で自分の人生が大きく変わることも。


「……急がないと」


セレシスは頭上の闇から視線を戻すと、もう一度胸元の聖印を握り締め、ルークを救うために再び力強く石畳を蹴り出した。

黒い翼と、白い祈り。

出会うはずのなかった二つの道が、東区の濁流に向かって、加速度を上げて近づき始めていた。

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