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黒鴉の総帥は最後の刻印を継ぐ  作者: カタナワイ


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2 夜鳥

血のように赤い夕闇が、街の輪郭を深い夜の底へと引きずり込んでいく。

東区の古びたレンガ造りの屋根の上を、いくつかの黒い影が恐るべき速度で駆け抜けていた。


――夜烏。

『黒鴉』の誇る最強の実動強襲部隊。

彼らは一歩間違えれば数十メートル下の石畳へと真っ逆さまに墜落する歪な屋根の上を、まるで平坦な大地であるかのように音もなく、滑るように跳躍していく。常人であれば恐怖に足がすくむ高所。だが、彼らの仮面の奥にある瞳には、任務への冷徹な遂行意志以外の感情は一切存在しなかった。


その驚異的な精鋭たちの先頭を走るのは、誰よりも小柄な、しかし誰よりも峻烈な気配を纏った少年だった。夜風を孕んで大きく翻る漆黒の外套。

ノア・クロード。

黒鴉第九代総帥。


「総帥」


ノアのわずか一歩後ろ、影のように並走する大柄な男――『第一翼』カインが、風の音に紛れさせて声をかけた。その視線は前方を見据えたままだが、声のトーンには絶対的な自信が漲っている。


「東区全域に捜索網を展開しました。網の目は完璧です。ネズミ一匹、我々の目を盗んでこの区から出ることは不可能です」

「早いな」


ノアの口から漏れたのは、短い感嘆だった。ノアにしては、それは最大限の称賛に近かった。


「夜烏ですので。あなたの直属として鍛え上げられた者たちが、この程度のことで後れを取るはずがありません」


カインは当然だと言わんばかりにフッと唇の端を上げた。その言葉に、ノアは小さく、だが深く頷く。

言葉はなくとも、二人の間には百の会話に勝る信頼の糸が結ばれていた。ノアにとって、彼らはただの便利な道具ではない。カインらから裏社会の生き残る術を教えられ、叩き上げられ、命を預け合ってきた、文字通りの『翼』だった。だからこそ、信頼できる。だからこそ、自分のすべてを賭けてでも守るべき仲間の安全を、彼らに任せられるのだ。



数分後。一行は音もなく垂直の壁を滑り降り、ルークが最後に目撃されたという路地へと舞い降りた。


そこは、東区のどこにでもある、見捨てられたような薄暗い裏路地だった。

高く積み上げられたまま腐りかけた木箱、壁際に放置された悪臭を放つゴミ袋、そして日光を浴びることのない湿った石畳。


「総帥」


闇の中から、先に現場を確保していた調査班の男たちが、影が染み出すように姿を現した。彼らはノアの姿を見るや否や、一斉に深く頭を垂れる。


「現場はこちらです。周囲の遮断は完了しています」


ノアは男たちの報告に言葉では返さず、ただ静かに石畳の上へとしゃがみ込んだ。

白い指先で、冷え切った石の表面に触れる。

そっと目を閉じ、まるで路地に染み付いた過去の記憶を呼び覚ますかのように、極限まで五感を研ぎ澄ませた。カインも、ソフィアも、そして周囲を警戒する夜烏の隊員たちも、ノアが思考の海に沈むその瞬間、完全に呼吸を止めた。総帥の邪魔をしてはならない。その無言の規律が路地を支配する。


やがて、ノアは静かに目を開け、周囲の壁や木箱の配置をじっと見つめた。

そして、小さく呟いた。


「少ないな」

「何が、でしょうか……?」


調査班の男が、ノアの放った凍りつくような声に緊張を孕ませて問い返す。自分たちの調査に見落としがあったのではないかという、怯えに近い焦燥が男の瞳に浮かんでいた。


「争った痕跡だ」


ノアは、石畳の上のわずかな擦り傷を指差した。


「九歳の子供が、見知らぬ大人に突然掴まれ、無理やり連れ去られる。もしそうなら、子供は本能的に暴れる。手足をバタつかせ、近くの木箱を蹴り飛ばし、地面の塵を掻き毟るはずだ。だが、ここにあるのは僅かに靴の先が擦れた跡だけ。暴れた形跡が、あまりにも少なすぎる」


カインがその言葉に反応し、同じようにノアの隣へとしゃがみ込んだ。カインの鋭い眼光が、ノアの指し示す地面を凝視する。


「つまり、拉致されたその瞬間まで、ルークは暴れる必要を感じていなかった。あるいは……暴れる隙すら与えられないほどの達人か」

「いや、後者なら痕跡すら残さない。答えは一つだ」


ノアは立ち上がり、冷徹な断定を下した。


「顔見知りだ。少なくとも、ルークは相手に対して一切の警戒をしていなかった」


その瞬間、路地の空気が目に見えて重くなった。

誰もが言葉を失い、最悪の想像に胸を締め付けられる。

黒鴉が全面的に支援し、大切に守っている『ひだまり孤児院』。その子供であるルークが、無条件で警戒を解く相手。

それは、毎日顔を合わせる街の住人なのか。それとも、孤児院の内部に関係する者なのか。あるいは黒鴉を知る何者なのか。


幹部たちの間に走った微かな動揺を察したのか、ノアはただ一言、「憶測で動くな」とだけ冷たく言い放ち、彼らの思考の暴走を止めた。その毅然とした態度に、一同はハッと我に返り、己の未熟さを恥じるように背筋を正す。


「総帥!」


そのとき、頭上の屋根から一人の夜烏の隊員が、音もなく滑り落ちてきた。

隊員は片膝をついた姿勢のまま、両手で小さな布袋を捧げ持つ。


「周辺の路地を再捜索したところ、これを発見いたしました!」


ノアはその布袋を受け取った。

泥を被り、薄汚れてはいるが、見覚えがあった。会議室でソフィアが必死に涙を堪えながら口にしていた、ルークがいつも大切に首から下げていたお守り袋だ。

だが、ノアの細められた黒い瞳が、その袋のある一点に釘付けになる。


「切られているな」


カインが横から覗き込み、低く呻いた。

お守り袋の紐は、引きちぎられたのではない。鋭利な刃物によって、一太刀で綺麗に断ち切られていた。


「……犯人が、身代金の要求か何かのために、意図的に切り取って現場に落としたのでしょうか」


夜烏の隊員が推測を口にする。しかし、ノアは静かに首を振った。


「違う。犯人が残したのなら、こんな目立たないゴミ溜めの隙間に落とすはずがない。それに、この切れ味……ルーク自身の仕掛けだ」


ノアはお守り袋を裏返し、その底を開いた。

コロン、とノアの白い手のひらの上に、小さな木片が転がり落ちる。

それは、鳥の羽を模して作られた、お世辞にも上手とは言えない粗末な木彫りだった。だが、それを見た瞬間、後ろに控えていたソフィアがハッと息を呑んだ。


「それは……ルークが、いつも孤児院の工房で作っていた……」


ソフィアの声が震える。彼女の脳裏には、いつも笑顔で「ノア兄ちゃんみたいな格好いい鴉の羽を作るんだ!」と不器用な手付きで小刀を握っていたルークの姿がフラッシュバックしていた。


「ルークだ」


ノアの細い指が、その木片を強く握りしめる。その輪郭には、怒りとも、誇りとも取れる激しい感情が宿っていた。


「あいつはただ怯えて攫われたわけじゃない。自分が黒鴉の、俺たちの家族である誇りを捨てていなかった。この状況で、あいつは自ら犯人の目を盗み、お守り袋を切り落としたんだ」

「助けを求めている、と?」


カインが、ルークという少年の勇敢さに驚きを隠せない様子で問いかける。


「いや、違う。そんな甘い真似はあいつはしない」


ノアは手のひらの上の木片をカインに見せた。

木彫りの羽の先端――鋭く尖ったその「矢印」のような部分が、明確にある方向を指し示すように、石畳の上に固定されていたのだ。


「自分が連れて行かれた方向を、俺たちに教えている」


その場にいた全員が、驚愕した。

九歳の子供が、拉致されるという極限の恐怖の中で、泣き叫ぶこともせず、ただひたすらに「仲間が自分を見つけてくれる」と信じて、命懸けの道標を残したのだ。


ソフィアの目から、今度こそ一滴の涙がこぼれ落ちた。それは恐怖の涙ではなく、己の無力さへの悔しさと、健気に戦うルークへの愛おしさが混ざり合ったものだった。彼女は服の袖で涙を拭った。その表情から弱さは消えていた。

子供たちを守るためなら誰よりも優しい彼女は、誰よりも容赦がなくなる。


「羽の向きは、東……。この先にあるのは……」

「東区倉庫街か」


カインが忌々しげに呟く。東区倉庫街。昼間は活気のある物流の拠点だが、夜になれば密輸や奴隷売買の温床となる、この街で最も深い闇が渦巻く場所だ。


その瞬間。

バタバタと激しい足音を立てて、夜烏の通信担当の隊員が路地へと飛び込んできた。


「総帥!!」

「報告しろ」


ノアの声は、すでに限界まで研ぎ澄まされた刃のようだった。


「たった今、倉庫街の第三区画付近にて、不審な荷馬車を確認! 夜烏の監視網に引っかかりました!」


路地の空気が、一瞬で爆発寸前の火薬庫のように跳ね上がる。幹部たちの視線が、一斉にノアへと集まった。誰もが「いつでも行ける」と、その肉体と魔力を極限まで滾らせている。


「荷台の様子は」

「厚手の布で完全に覆われており、中身は視認できません。しかし、魔力の隠蔽結界が施されているのを確認しました」

「護衛の数は」

「確認できるだけで六名。全員が衣服の下に軍用の武器を隠し持っています。ただの商人の私兵ではありません。明らかに戦闘に慣れた手練れです」


ノアの瞳が、不気味なほど冷たく細められた。

ただの誘拐犯ではない。軍用の武器、高度な隠蔽魔術。これは明確な『意志』を持った組織的な犯行であり、その矛先がどこを向いているかは明白だった。彼らはルークという子供を通じて、裏社会の巨頭である『黒鴉』、あるいはその総帥であるノアを引きずり出そうとしているのだ。


だが、ノアにとってそんな政治的な思惑など、どうでもよかった。


「追跡しろ」


ノアは極めて静かに、しかし逆らうことのできない絶対の命令を下した。


「はっ!」

「足跡を踏むな。影に紛れろ。絶対に見失うな」


隊員が弾かれたように夜の闇へと飛び出していく。その後を追うように、周囲に潜んでいた無数の夜烏たちもまた、一斉に倉庫街へと向かってその翼を広げた。


ノアはゆっくりと顔を上げ、夕闇が完全に終わり、深い漆黒へと染まりゆく空を見据えた。

胸の奥で、先代総帥アルバスの言葉が蘇る。

――ノア、俺たちの力は、誰かを恐怖させるためのものじゃない。奪われたものを取り戻し、家族を守るためのものだ。


まだ、間に合う。

そうでなければ困る。

二度と、大切なものを奪わせはしない。あの無力だった過去の自分へ、決別を告げるように、ノアは黒い外套を激しく翻した。


「行くぞ」


その一言と共に、ノアの体が弾丸のように跳躍した。

カインが、ソフィアが、そして無数の黒い影が、総帥の背中を追って夜を駆ける。


「俺たちの仲間を、家族を取り戻す」



*********


その頃。


激動の兆しを見せる東区から少し離れた中央区。

厳かな白亜の石造りで作られた大教会の裏門が、小さく開いた。一人の少女が夜の街へ飛び出す。

純白の修道服。


月光を受けて淡く輝く金色の髪。そして、どこか必死な表情。

少女は胸元の小さな聖印を握りしめながら、石畳を駆けていた。


「待っていてください……ルーク」


息を切らしながら呟く。その声には強い決意が宿っていた。

セレシス・エルフェルト。

大教会に所属する見習い治療師である彼女もまた、ルークの失踪を追っていた。


「今度こそ……」


小さな祈りを胸に抱きながら、少女は東区の闇へ向かって走り続ける。


黒い翼と白い祈り。

まだ出会うはずのない二つの道が、静かに近づき始めていた。

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