1 消えた翼
「子供が攫われました!」
その報告を聞いた瞬間、少年の手の中で羽ペンがへし折れた。
パキィン、と硬質な音が会議室に響き渡る。
大理石の長机を囲んでいた幹部たちの肩が、一斉に跳ね上がった。誰もが息を呑み、凍りついたように上座を見つめる。部屋の温度が劇的に下がったかのような錯覚。それだけの圧倒的な沈黙が、この部屋には流れていた。
部屋の最奥に座る少年――ノア・クロードは、折れた羽ペンを無造作に机へと置き、微動だにせず正面を見据えていた。声変わりを終えて間もない若さを残しながらも、その全身からは尋常ならざる威厳が立ち上っている。
「誰だ」
低い声が響く。
扉を勢いよく開けて飛び込んできた構成員は、その声に射抜かれたように背筋を震わせ、必死に声を絞り出した。
「東、東区の、我が組織が支援している『ひだまり孤児院』の子供です! 夕刻の買い出しの帰り道、定刻を過ぎても戻らず、捜索を掛けたところ姿を消していました!」
ひだまり孤児院。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。嫌な予感だった、根拠はない。
だが、こういう予感は外れない。昔からそうだった。守りたいと思ったものほど、簡単に失われる。あそこだけは駄目だ。あそこにいる子供たちは、ただの保護対象ではない。黒鴉の仲間であり、家族だ。
――二度と失いたくない。
その想いだけが、静かに胸の奥で燃えていた。
孤児院の名前が出た瞬間。
ノアの黒い瞳が、ほんの僅かに細められた。
本当に一瞬の、常人であれば見落とすほどの微かな反応。しかし、長年彼を支えてきた幹部たちは、その変化を正確に感じ取っていた。
「……また折ってしまわれましたね」
静かな声が円卓に落ちた。
長い銀髪を肩へ流した女性が、小さく肩をすくめる。
『第四翼』――エレナ。
黒鴉が擁する最高幹部である七翼。そのうちの一人である彼女は、黒鴉の財務・補給・後方支援を束ねる存在であり、組織では数少ない、ノアへ遠慮なく言葉を掛けられる存在だった。
「これで今月七本目です。」
エレナは折れた羽ペンへ視線を向け、小さく微笑む。
「予備を多めに用意しておいて正解でした。」
「……何の話だ」
「羽ペンのお話です。」
「記録するな」
「記録ではありません。」
エレナは柔らかく微笑む。
「心配しているだけですよ。」
ノアは無言になった。
「孤児院のことになりますと、決まって折ってしまわれますもの。」
「記録するな」
「ノア様の感情変化を観測するのも仕事ですので」
エレナは平然と言った。
その横で男、『第一翼』カインが肩を揺らして笑う。
「ちなみに先月は五本だったな」
「今月は更新しそうですね。」
「お前たち……」
ノアが不機嫌そうに睨む。
だが、そのやり取りに張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
ノアは何も答えず、ただ不機嫌そうに視線を落とした。その沈黙こそが、肯定の証だった。
――黒鴉。
王国の貴族も、帝国の将軍も、その名を知らない者はいない。世界の裏側を流れる金と情報、その多くが彼らの手を経由する。
そして、その巨大組織の頂点に立つのは、
十六歳の少年、ノア・クロードだった。
普段のノアであれば、どんな無理難題にも氷のように冴え渡った計算で対処する。だが、あの孤児院のことになると、その冷徹な仮面に僅かな綻びが生じるのを、幹部たちは知っていた。
「目撃者は」
「ありません、人通りの少ない裏路地で……」
「痕跡は」
「現在、調査班が現地を――」
バァン!!
報告者の言葉を遮り、会議室の扉が再び、今度は叩きつけるような勢いで開かれた。
勢いよく入ってきた人物を見て、部屋の空気がわずかに揺れる。
「総帥……っ!」
息を乱し、肩を震わせて立っていたのは、美しい亜麻色の髪を振り乱した少女だった。
黒鴉の幹部『第七翼』――ソフィア。
普段は孤児院の運営を任され、子供たちの面倒を見ている穏やかな女性だ。
誰よりも子供たちを大切にし、誰よりも黒鴉の理念を信じている。そのソフィアが、今は不安と焦燥に顔を歪めていた。
「ルークが……ルークが、お守り袋だけを残して姿を消しました。私の、私の警護の隙を突かれました……!」
自分を責めるように拳を握りしめ、今にも溢れ出しそうな涙を必死に堪えているソフィア。
「泣くな」
「……泣いてません。総帥」
震える声だった。誰が聞いても泣く寸前だ。
だがノアはそれ以上言及しなかった。
「そうか」
短く答える。
責める必要はない。今ここで一番自分を責めているのは、ソフィア本人なのだから。
うるんだソフィアの瞳に、少しだけ生気が戻ったのを確認すると、ノアはそれ以上彼女を咎めることもなく、すぐに長机の方を振り返った。
「エレナ」
「はい。」
「夜烏の召集を」
「もう終わっています。」
「……早いな」
「孤児院のお話でしたもの。念のため、ノア様がお命じになる前に動かしておきました。」
夜烏。それは黒鴉の中でも選りすぐりの精鋭のみで構成された、強襲特化の実動部隊だ。エレナが指先で小さく通信結晶へ触れる。
次の瞬間。
カササササッ――
本部を取り囲んでいた黒い影が、一斉に街へ散っていく。
夜烏。
黒鴉最精鋭の実働部隊。総帥の命令が下る前から動き始めるほど、彼らはエレナの判断を信頼していた。
漆黒の装束を纏った「夜烏」の構成員たちが、夕闇に紛れて屋根から屋根へと音もなく跳躍していく姿が見えた。一人一人が一騎当千の化け物。それが十数人、数十人と一斉に東区へと「狩り」に赴く。それはまさに、黒い鴉の群れが街を飲み込んでいくかのような、圧倒的で不気味な光景だった。
「調査班から追記です。」
エレナが手元の書類に目を落とす。
「現場から特殊な隠蔽魔法の痕跡が確認されました。偶然ではありませんね。」
「……なら、迷子の線は完全に消えたな」
ノアの心の中に、どろりとした黒い殺意が湧き上がる。
黒鴉には、先代総帥が遺した絶対の掟がある。
――仲間を見捨てない。
例えその身の翼が折れようとも、一度繋いだ家族の手だけは決して離してはならない。彼らにとって、孤児院の子供たちは組織の部下である前に、守るべき家族であった。
*
本部の廊下へ出たノアの横に、音もなく並ぶ男がいた。
鍛え上げられた強靭な肉体を持つ男――『第一翼』副総帥のカインだ。ノアの右腕であり、この組織で最も長く時間を共にしてきた、いわば兄のような存在でもある。
「なんだ、カイン。作戦の修正か?」
前を見据えたまま、歩調を緩めずにノアが問う。
「いや、そうじゃない」
カインは真面目な顔のまま、ノアを真っ直ぐに見下ろしてきた。そして、極めて真剣な声音で告げた。
「総帥。朝から何も食べてねぇだろ」
「……は?」
緊迫した状況にはあまりにも不釣り合いな言葉に、ノアは思わず足を止めた。後ろを付いてきていたソフィアも目を丸くしている。
「今は関係ない。作戦中だ」
「大いに関係あるぜ」
カインは深い溜息をつきながら、当然のように言い放った。
「総帥は集中するとすぐに自分の体を蔑ろにする。朝のミーティングから今まで、水一杯すら口にしていないだろ。そんな状態で戦場に出て、万が一倒れたら、副総帥としての俺の胃に穴が空く。これを食べながら行けよな」
そう言って、カインが懐から取り出したのは、紙に包まれた小ぶりのサンドイッチだった。
普段は他人を寄せ付けない冷徹な総帥であるノアも、この男の呆れるほどの過保護さには形無しだった。
「……お前なぁ」
「ソフィアからも言ってやれ」
「そうです、総帥。ちゃんと食べないと背が伸びません。アルバス様にも言われていたでしょう。」
「ソフィア、お前は後で説教だ」
ノアは不機嫌そうに眉をひそめながらも、カインからサンドイッチをひったくるように受け取り、口に放り込んだ。
そしてバサリ、と黒い外套を羽織る。
それは黒鴉総帥の証。
「夜烏の配置、完了しました。いつでもいけます」
ソフィアが、先ほどまでの動揺を消し去り、冷徹な『第七翼』の顔で告げる。カインもまた、副総帥としての鋭い眼光を取り戻していた。
窓の外を見れば、地平線へと沈みゆく夕日が、世界を血のような赤色に染め上げていた。この光の届かない影の中で、今もなお、彼らの仲間が恐怖に震えている。
「行くぞ」
ノアは振り返ることなく、真っ直ぐに出口へと歩を進めた。
カインが、ソフィアが、そして闇に潜む無数の鴉たちが、総帥の背中に絶対の忠誠と仲間としての絆を預けて付いてくる。
「決まっている。俺たちの翼を――仲間を取り戻しに行く」
一人の子供を取り戻すために。黒鴉は、その黒い翼を広げた。




