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黒鴉の総帥は最後の刻印を継ぐ  作者: カタナワイ


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18/18

18 消失の村

夜。

王都の喧騒から遠く離れた高台に佇む孤児院『ひだまり』は、しんとした深い眠りに包まれていた。

日中、近くの市場に行き、無邪気にはしゃぎ回って疲れ果てた子供たちは、温かい夕食を胃袋に収めるなり、まるで糸が切れた人形のように次々と深い眠りへと落ちていった。月の光が淡く差し込む男子部屋の中央では、幼いルークが、昼間に第一翼カインから買ってもらった木の実のクッキーの袋を小さな両腕でぎゅっと抱き締めたまま、実にあどけない、幸せそうな寝息を立てている。


黒鴉の総帥、ノア・クロードは、そのベッドの傍らに静かに立っていた。


いつも耳が痛くなるほど騒がしい部屋は、今や嘘のように静まり返っている。開け放たれた窓から吹く夜風の音と、子供たちが立てる規則正しい小さな寝息だけが、この空間を満たしていた。

ノアは気配を完全に消したまま、音もなくルークの枕元へと近付く。そして、寝返りによって乱れてしまった柔らかな髪を、手袋を嵌めていない指先でそっと整えた。


「……よく眠れ」


誰の耳にも届かないほどの声で、小さく呟く。

その声音には、王都の裏社会を絶対的な恐怖で支配する「怪物」としての冷酷さは微塵もなかった。そこにあるのは、ただひたすらに大切な弟の安眠を見守る、不器用な兄の静かな温度だけだった。


だが、次の瞬間。

未練を残すことなく踵を返し、子供たちのパジャマの上から漆黒の外套を音もなく羽織る。そのまま影へと溶け込むようにして、部屋を後にした。

扉が閉まる際に生じた、衣服の擦れるような微かな風の音だけが、彼の僅かな「日常」の終わりを告げていた。


◇◇◇


数十分後。

王都のきらびやかな石畳の下、幾重もの隠し通路と強固な結界を潜り抜けた先にある地下深く。

光も、法も、表の秩序も決して届くことのない永久の闇の底に、黒鴉本部最深部――『黒翼の間』は存在していた。

ひんやりとした冷気が満ちる石室の中央には、巨大な黒曜石の円卓が鎮座している。その周囲には、すでに主君の召集に応じた黒鴉の最高幹部たちが、それぞれの威容を誇るように着席していた。


第一翼、カイン。巨躯を椅子に沈め、退屈そうに指の骨を鳴らしている。

第三翼、ゼノン。眼鏡の位置を微調整しながら、手元の魔導端末の数値を冷徹に精査している。

第四翼、エレナ。優雅に足を組み、冷酷な美貌に僅かな退屈を滲ませている。

第五翼、レオン。椅子の背もたれに乱暴に身体を預け、獣のような鋭い瞳を細めて室内を睨みつけている。

そして第六翼、オズウェル。老骨に鞭打つような仕草を見せつつ、片眼鏡の奥で油断のない光を湛えていた。


ノアが上座へ向かって歩むと、彼の背後の影から、第七翼ソフィアが音もなく滑り出るように姿を現した。彼女は一切の気配を発することなく、主君のあらゆる命令を即座に遂行する冷徹な刃のように、その背後にぴたりと控える。


円卓には、ただ一つだけ空席があった。

第二翼、リアナの席だ。

だが、それは彼女が任務を放棄したわけではなかった。円卓の中央に浮かび上がる、淡い青白い光を放つ通信鏡の向こう側。黒髪を短く切り揃えた冷徹な顔立ちの女が、氷のような瞳でこちらを凝視していた。

黒鴉第二翼、リアナ。外部諜報と密偵網を統括し、組織のあらゆる「目」となって機能する女である。彼女は現在、王国北部へと極秘に展開した密偵班の最前線指揮に当たっていた。


「総帥」


ノアが上座の椅子に静かに腰を下ろすと同時に、ゼノンが一切の無駄なく起立した。


「第二翼リアナより緊急で上がった、北部に関する報告を共有します」

「始めろ」


ノアの声は低く、そして短い。

しかし、その一言が放たれただけで、室内の空気の重圧が一段と跳ね上がった。幹部たちの表情から雑念が消え去り、戦時さながらの緊迫感が満ちていく。


ゼノンは円卓の上に、古びた羊皮紙の地図を丁重に広げた。

王国北部。険しい国境に近い、深い山岳地帯。その原生林の奥深くに、赤黒いインクで小さな印が記されている。


「リンドル村です」


ゼノンの手袋に包まれた指先が、地図上の一点を正確に示す。


「公式な登録住民数は、三百二十七名。主な産業は寒冷地特有の薬草栽培と、わずかな木材加工のみ。王室への納税額も微々たるもので、政治的価値は皆無。当然、軍事的な拠点としての意味もほとんど持ち得ません。王国の広大な地図上においては、そこに存在していようが消えていようが、中央の貴族共は誰も気に留めないような、典型的な辺境の貧村です」


そこで、ゼノンは一度言葉を切った。

地下室の空気が、呼吸の音さえ憚られるほどに張り詰める。


「その村が――丸ごと、消えました」


誰も口を開かなかった。いつもなら軽口を叩くはずのレオンでさえ、獣のような瞳を凶暴に細めたまま、地図の一点を凝視している。


「消えた、とはどういう意味だ」


ノアの静かな問いが響く。


「文字通りの意味です」


通信鏡の向こう側から、リアナが冷たく淡々とした声音で引き継いだ。その声には感情の起伏が一切存在しない。


「住民三百二十七名。現時点にいたるまで、周囲の街道を含めて生存確認はゼロ。ですが、これほどの規模の人間が消滅したにもかかわらず、現地には死体の一つも、飛び散った血痕も、あるいは何者かと交戦したような戦闘痕すらも、一切確認されていません」

「……死体が、一つもないだと?」


カインがその太い眉を不快そうにひそめ、低く唸るような声を漏らした。


「ええ」


リアナは冷酷な事実を突きつけるように言葉を続ける。


「村に残された家屋の損壊は皆無。タンスの中の家財道具や衣類もそのまま残されています。金目のものが略奪された形跡もありません。家畜小屋には家畜が取り残されたままとなっており、中には食卓に温かいスープや食事が並んだままの家も複数確認されました。ある家では鍋にスープが残り、テーブルの上のパンは、まさに今ちぎって口へ運ぶ途中だったかのような状態で放置されています」


第四翼エレナが、その美しい額に深い皺を刻んだ。


「……つまり、住民たちは自らの意志で夜逃げをしたわけでも、避難したわけでもないということね」

「はい」


リアナの瞳が、鏡の向こうで僅かに鋭利さを増す。


「彼らはそれぞれの日常生活の、そのまさに途中で、唐突にその姿を消しています。誰一人として、逃走の準備をした形跡も、外部の侵入者と争った形跡もありません」


カインが巨躯の腕を組み、骨の軋む音を立てた。


「おいおい……三百人以上の人間が、誰一人として悲鳴も上げずに、煙みたいに消えたってのかよ。いくらなんでも非現実的すぎるだろ」

「その通りです」


ゼノンが手元の資料をめくりながら、リアナの言葉を補足する。


「通常の拉致や軍事行動では絶対にあり得ません。三百人以上の人間を一斉に強制移動させれば、どれほど隠蔽工作を施そうとも、必ず地面に足跡や荷車の痕跡が残る。魔導を用いたとしても、それだけの質量を動かせば濃厚な魔力の残滓が周囲の空間に刻まれるはずです。しかし、リンドル村にはそれらが一切存在しない」


「補足します」


通信鏡の向こうで、リアナが静かに口を開いた。幹部たちの視線が鏡の向こうの彼女へと集まる。


「現在、リンドル村へ至る三本の主要街道は、すべて私の配下によって完全に封鎖済みです。王国軍に対しては『大規模な雪崩による通行止め』として公式に通達し、工兵隊の派遣を遅らせています。周囲の地方領主に対しては『凶悪な山賊団の討伐作戦を軍が代行中』との偽情報を流し、兵の接近を阻止。さらに、大教会の巡礼団が近くを通過する予定でしたが、これも別件の『異端調査』を優先させるよう大教会内部の協力者を通じて情報を操作し、ルートを変更させました」


リアナは自身の功績を誇る風でもなく、表情一つ変えずに淡々と続ける。


「少なくとも現時点において、あの現場へ合法・非合法問わず到達できる組織は、我々黒鴉のみです」


カインがその様子に、感心したように小さく口笛を吹いた。


「相変わらず仕事が早ぇな、第二翼。手回しが完璧すぎて恐ろしいぜ」

「情報は速度です」


リアナは短く、氷のような声で答えた。


「敵より一歩遅れた情報に価値はありません。総帥の足を引っ張るわけにはいきませんから」


その言葉を受け、オズウェルが白髪の頭を軽く揺らし、片眼鏡の奥の目を細めた。


「ほっほ……転移術式の可能性も潰されているとなると、現代魔導を随分と馬鹿にした現象ですな。これほどの完璧な隠蔽、魔法というよりは、これは……性質としては『呪い』に近い」


◇◇◇


室内に再び重苦しい沈黙が流れる中、ゼノンは次の資料を黒曜石の円卓へと滑らせた。

そこには、現地の石畳を克明に写し取った、数枚の魔導写真が貼られていた。

村の中央広場。その冷たい石畳のちょうど中心部に、鋭利な刃物か何かの爪で執拗に刻み込まれたような、不気味な図形が写し出されている。


完璧なまでの円環。その内部に配置された、三つの不揃いな三日月。そして、それらの全てを冷酷に貫く、複雑に歪んだ幾何学線。


その写真を視界に入れた瞬間――ノアの右手の甲が、ドクンと、ほんの僅かに熱を帯びた。皮膚の奥がピリピリと脈打つような感覚。


「……例の紋章か」

「はい」


ゼノンが重々しく頷く。


「アシュフォード商会の地下牢で発見された、あの謎の金属片に刻まれていた紋章と、線の歪み方に至るまで完全に一致します」


――黄昏評議会。


その不吉な名を、この場で口にする者は誰もいなかった。

しかし、円卓を囲む最高幹部たちの全員が、肌で理解していた。今回の事件は、アシュフォード商会の残党による小規模な報復や、ありふれた裏社会の権力抗争などという矮小な話ではない。

黒鴉の密偵網をもってしても未だその輪郭すら掴めなかった、歴史の底の底に潜む本物の「闇」が、ついに表の世界へとその凶悪な爪を伸ばしてきたのだ。


「気に入らねぇな」


レオンが鋭い犬歯を剥き出しにし、低く唸った。


「姿も見せねぇ、目的も分からねぇ。なのに三百人以上の人間を村ごと丸ごと消し去っただと? 舐めた真似をしやがる。俺たちの縄張りのすぐ近くでよ」

「同感です」


エレナが冷徹な視線を地図へ向けながら同意する。


「身代金の要求もなければ、何らかの声明文の類いもない。金銭目的でもなければ、政治的な交渉の道具でもない。私たちの最も対処しづらい、純粋な狂気か、あるいは未知の目的による事件です」


ゼノンは手元の書類を綺麗に揃え、無言で上座のノアへと視線を向けた。


「総帥。現時点で私の班と第二翼が掴んでいる情報は、以上となります」

「生存者は」


ノアのその一言に、通信鏡の向こうのリアナの表情が、微かに緊張を帯びて動いた。


「……一名だけ、発見されています」


その瞬間、室内の空気が張り詰めた弦のように限界まで引き絞られた。


「場所は」

「村から北へ約五キロメートル離れた、原生林のさらに奥深くです。第二翼の北部哨戒班が、木々の隙間で意識不明の状態で倒れている人物を発見し、即座に確保しました」

「村人か」

「おそらくは。ただし、衣服の消耗が激しく、本人確認のための所持品もないため、正確な素性はまだ特定できていません」


ゼノンが、その人物の診断書をノアの前へと置いた。


「発見後、直ちに王都内にある我が組織の直轄極秘医療施設へ極秘搬送しました。現在は二十四時間体制で厳重な監視下に置いています」

「容態は」

「昏睡状態です」


ゼノンの声音が、一段と低く重くなる。


「奇妙なことに、肉体的な外傷や毒物の形跡はほとんど見られません。ですが、精神の深部へ、通常の人間なら廃人になってもおかしくないほどの極めて強い負荷を受けた痕跡があります。我が班の最高位の覚醒術式にも全く反応を示さず、記憶抽出の魔術も、精神の壁に阻まれてことごとく失敗に終わりました」


カインが太い腕を組み直しながら、苛立たしげに眉をひそめる。


「じゃあ、生きてるってだけで、そいつからは何も聞き出せないってわけかよ」

「いえ」


ゼノンは診断書の余白、医師によるメモが記された欄を人差し指で指し示した。

そこには、同じ言葉が、紙面を黒く塗りつぶさんばかりの狂気的な密度で、何度も、何度も書き連ねられていた。


来る。

来る。

来る。

来る。

来る――。


「発見されて以降、その生存者は意識を取り戻さないまま、昏睡の底でこの同じ言葉だけを執拗に繰り返しています」


室内が、シンと静まり返る。ゼノンは低く、まるでおぞましい呪詛を読み上げるように続けた。


「――来る、と」


◇◇◇


誰も、すぐには次の言葉を発することができなかった。

生存者が残したその短い言葉には、単なる精神異常のうわ言というには、あまりにも生々しい「恐怖」の質量が伴っていた。

何かがこちらへ向かって歩みを進めている。あるいは、自分たちのすぐ近くまで、その悍ましい足音が迫っている。そんな、理屈を超えた直感が、黒鴉の怪物たちの尖鋭化された神経を、冷酷に静かに撫で回していた。


「何が来るってんだよ、一体」


レオンが不快そうに首の骨を鳴らし、低く唸る。


「その生存者は、数時間に一度だけ、何かに弾かれたように発作的にその目を見開きます」


ゼノンは静かに資料を閉じた。


「その際、異常な力で、必ず『北』の方角を指差すそうです」

「北か」


カインが再び地図へと視線を落とす。

王国のさらに北。リンドル村のさらに先にある山岳地帯の向こう側。そこは、冬になれば猛吹雪に閉ざされ、人の足がほとんど踏み入ることのない、極寒の未開拓地だ。


誰も口を開かなかった。

ノアは無言のまま、黒曜石の円卓の上に広げられた地図を見下ろしていた。

リンドル村。その忌々しい印の横には、黄昏評議会の紋章が不気味に佇んでいる。


その時、ノアの右手の甲が、先ほどよりも明確に、じわりと熱を帯び始めた。皮膚の裏側を細い針で突かれるような不快な感覚。

――呼ばれている。

そんな根拠のない錯覚が、一瞬だけ彼の脳裏をよぎった。まるで北の暗闇の奥に潜む何かが、自分という存在を見つけ出し、手招きしているかのような。


ノアは静かに目を閉じ、その湧き上がった不快な感覚を、圧倒的な冷徹な理性によって跡形もなく押し潰した。

そして、ゆっくりと瞼を開く。その漆黒の瞳には、一切の迷いも揺らぎも存在しなかった。


「……明朝、北へ向かう」


短い、しかし絶対的な命令。

だが、その一言だけで、最高幹部たちの間に走っていた緊張のすべてが、一つの明確な「殺意」へと収束していく。総帥の決定を待っていた静寂が、歓喜の波動へと変わる。


「カイン、同行しろ」

「御意」


第一翼カインが、待ってましたと言わんばかりに獰猛な笑みをその顔面に浮かべた。


「ゼノン、お前も来い。現地に遺された術式の解析が必要だ」

「承知しました。すべての移動用魔導端末と解析術式を即座に積み込ませます」

「ソフィア」

「ここに」


影の中から冷たい声が応じる。


「影を広げろ。道中、俺の周囲から一瞬たりとも離れるな」

「御意。総帥の影となり、あらゆる敵を排除します」

「リアナは現地の密偵網をそのまま維持しろ。こちらの到着まで、ネズミ一匹たりとも村へ入れるな」

「承知しました」


通信鏡の向こう側で、第二翼リアナが深く、敬意を込めて頭を下げる。

第四翼エレナが、静かに居住まいを正して問う。


「後方支援および、王都の防衛は」

「お前に一任する。補給線の確保、医療班の待機、そして大教会と王宮への情報封鎖を完璧に整えろ」

「御意。完璧に遂行いたします」

「オズウェル」

「ほっほ……ここに」

「現地に残る術式片、あるいは黄昏評議会の痕跡があれば、どんな微細なものであろうとすべて回収する。あの紋章の本質へ近付く鍵だ」

「分かっております。老骨の知恵、すべてを注ぎ込んで解析の準備を整えておきましょう」


ノアは最後に、地図の上に記されたリンドル村の印を、その漆黒の瞳に焼き付けるように見つめた。

三百二十七名もの人間が、死体もなく、血の一滴すら残さず、ただ煙のように消え去った奇妙な村。そこに刻まれた、黄昏評議会の不吉な紋章。そして、ただ一人生き残った者が昏睡の底で繰り返し続ける警告。


ノアは右手を、強く、硬く握り締めた。


「姿の見えない敵だというのなら、こちらからその闇の中へ直接踏み込むだけだ」


その声は低く、冷たく、そして何ものにも揺るがない絶対の威厳に満ちていた。(黄昏評議会がその闇の奥で何を企んでいようと、組織には関係のないことだ)


彼の漆黒の瞳が、円卓を囲む幹部たちの全員を冷酷に射抜く。


「奴らの手が――俺の家族に届く前に、その首を掴んで引きずり出す」


黒鴉の怪物たちは、その絶対的な主君の言葉に応じるように、一斉に深く頭を垂れた。


◇◇◇


同じ頃。

王都のさらに地下深くにある、黒鴉直轄の極秘医療施設。

幾重もの強力な防護結界と認識阻害の術式に守られた、冷たい隔離病室のベッドの上で、リンドル村の唯一の生存者が横たわっていた。


極限の恐怖によって痩せ細った身体。血の気が完全に失われた白い唇。固く閉じられた瞼。

意識は依然として昏睡の底に沈んだままだ。それでも、その口元だけが、壊れたネジ仕掛けの人形のように、微かに、しかし規則正しく動き続けている。


「……来る」

「……来る」

「……来る」


ベッドの傍らで看護と監視に当たっていた医療班の一人が、その不気味な様子に硬い表情を崩さないまま、羊皮紙のカルテに黙々と記録を取っていた。


その、時だった。


生存者の、ベッドの上に投げ出されていた指先が、ピクリと不自然に跳ね上がった。

医療班の術者が、異変を察知してハッと顔を上げる。


次の瞬間。

生存者の閉じられていた瞼が、痙攣するように小さく震えた。


「……!」


医療班が身を乗り出し、術式端末を構える。

ゆっくりと、まるで錆びついた扉が開くようにして、生存者の瞳が開かれていく。


その目は――通常の人間のものではなかった。極度の、言語を絶するような本物の恐怖によって、限界まで見開かれている。

しかし、その瞳の焦点は、目の前にいる医療班の誰にも結ばれていなかった。

その視線は、この冷たい病室の壁を透過し、ここから遥か数千キロメートル先にある、あの極寒の北の"何か"だけを、じっと見つめ続けているかのようだった。


乾き切った唇が、ガタガタと激しく震え始める。


「……黒い翼が……」


生存者の喉がひゅっと鳴り、一度、完全に息が止まる。

静寂。そして、肺の底に残った最後の空気を絞り出すようにして、その言葉を紡いだ。


「……交わる」


その瞬間だった。


病室の天井に灯されていた青白い魔導灯が、前触れもなく、小さく激しく明滅した。


パチ。

パチ、パチ。


部屋の最も深い奥。

光の届かない、誰もいないはずの暗闇の輪郭が、ほんの一瞬だけ――まるで静かな水面に小石を落としたかのように、ぐにゃりと不気味に揺らいだ。

何か巨大な影が、そこからこちらを覗き込んで嗤ったかのような、悍ましい錯覚。


だが、次の瞬間には、何事もなかったかのように魔導灯の光は元に戻り、病室にはただ、冷たい静寂だけが元通りに残されていた。

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