17 休日
孤児院『ひだまり』の朝は、いつも例外なく早い。
鶏の鳴き声よりも早くにマリアが厨房へ入り、それに引きずられるようにして年長組が起き出すのがここの日常だ。
だが、その日だけは少し違っていた。いつもなら朝食が終わればすぐに各自の役割や、教会の手伝い、あるいは不器用な手付きでの木彫りの練習などに散っていくはずの子供たちが、誰一人として食堂から動こうとしないのだ。
じっと、向けられる無数の視線。
ノア・クロードは、読み進めていた王国の流通経路に関する暗号書から一切の視線を外さないまま、その無言の圧力を全身で受け止めていた。
「ノア兄ちゃん!!」
沈黙を破り、一番に声を上げたのはやはりルークだった。勢いよくテーブルを叩かんばかりに身を乗り出してくる。その後ろには、まるで訓練された兵のように、十数人の子供たちが横一列の陣形を組んで控えていた。全員が、きらきらと輝く期待に満ちた、しかしどこか必死な顔をしている。
「……何だ」
ノアは本をめくる指を止め、ようやく顔を上げた。その漆黒の瞳には、すでに「嫌な予感しかしない」という色が滲んでいる。
「今日は日曜日だろ!? 孤児院の、みんなのお休みの日だ!」
「それがどうした。休みなら、普段手の回らない建物の補修や、備蓄品の棚卸しをするのが合理的な時間の使い方だ。カインが持ち込んだあの大量の菓子の在庫管理も終わっていない」
「違う! そういうことじゃない!」
ルークは自分の頭を抱えるようにして叫び、後ろの子供たちに大きく手を振った。それを合図に、待機していた有象無象の包囲網が一斉に声を張り上げる。
「遊びに行こう、ノア兄ちゃん!」
「中央区の市場、今すっごい大きいお祭りが来てるんだって!」
「大道芸人が火を吹くの、見たい!」
「お菓子! 新しいお菓子食べたい!」
「広場でみんなで鬼ごっこするの!」
食堂が蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
王国裏社会の頂点に立ち、数千の暗殺者の命を一言で左右する絶対支配者が、日曜日の朝から平均年齢八歳の幼児たちに完璧に退路を断たれている。この光景をゼノンが見れば、あまりの現実の不条理さに間違いなく胃薬を常用し始めるだろう。
ノアは眉間を限界まで険しくし、救いを求めるように厨房の入り口に佇む女性へと視線を向けた。
「マリア姉ちゃん。子供たちの規律が乱れている。今日のスケジュールを再確認させてくれ」
しかし、一番信頼しているはずの身内は、おたまを片手に持ったまま、これ以上ないほど悪戯っぽく優しげに微笑んだ。
「私は、大賛成よ。ノア」
「……何?」
「最近、みんな事件のせいでずっと怖い思いをして、お部屋に閉じこもりがちだったでしょう? 我慢ばっかりさせてたもの。たまには息抜きにお出かけして、思いっきり笑う日があってもいいじゃない」
ノアは食堂を見回した。幼い子供たちは、期待と不安が入り混じった表情でこちらを見ている。夜中以来、夜中に泣き出す子供も少なくなかった。
それを一番知っているのは、自分だ。
「……………」
数秒だけ沈黙し、ノアは静かに本を閉じた。
「……三時間だけだ」
「え?」
「市場での自由行動は三時間。それ以上は認めない」
子供たちは、「わあああ!」と歓声を上げ、ノアの外套の裾を引っ張り始める。
逃げ場はどこにもなかった。裏社会のどんな罠よりも強固な、家族という名の包囲網に、若き総帥はただ一度の、しかし決定的な敗北を喫したのだった。
◇◇◇
一時間後。
王都中央区。休日を祝い、燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて賑わう市場通りは、人々の活気と喧騒で満ち溢れていた。
「二人一組で行動しろ」
「人混みでは走るな」
「迷ったら広場の時計台へ戻れ」
「知らない人間には付いて行くな」
「返事」
「「「はーーい!!」」」
「…………」
そして馬車から降りた次の瞬間。
「「わああああああ!!」」
「走るな」
「もう走ってるー!」
子供たちは完全に制御を失った弾丸のように暴走を始めた。
左右にぎっしりと並ぶ色鮮やかな屋台。香ばしい焼き肉や、甘い果実のソースの匂い。遠くから聞こえてくる陽気な楽師たちの演奏や、大きな拍手を受ける大道芸人。孤児院で普段暮らしているルークたちにとって、そこはまるで絵本の中の世界がそのまま飛び出してきたかのような衝撃だった。
「こら、走るんじゃない! 人にぶつかったらどうするの!」
マリアが声を張りながら子供たちの後ろを追いかけるが、興奮状態の子供たちには届かない。そんな中、ノアだけは、周囲の雑踏から完全に浮いたような、冷徹で無駄のない足取りで子供たちの動線を監視していた。彼の目は、市場に紛れ込んでいるかもしれないスリや、万が一の暗殺者の気配を瞬時に間引きするために、常にミリ単位で動き続けている。
「ノア兄ちゃん!」
ルークが、人混みを器用にすり抜けてノアの目の前に戻ってきた。瞳をこれでもかと輝かせ、小さな両手を差し出してくる。
「何だ」
「お金!」
「却下だ」
「まだ何も言ってないじゃん!!」
「どうせ、あそこに見える串焼きの屋台か、あっちの菓子の露店に行きたいんだろう」
「な、なんで分かったの!? もしかして、また怪しい魔術使った!?」
ルークは本気で驚いたように自分の顔を触る。ノアは呆れたようにその小さな額を、指先で軽く小突いた。
「魔術など必要ない。お前の顔に『肉と砂糖が食べたい』と大きな文字で書いてある。お前の行動パターンは非常に単純で、予測が容易だ」
「むぅぅ……! ノア兄ちゃんのケチ! だったら、一回だけ、一回だけあそこのリンゴ飴買って!」
「駄目だ。朝食を食べてからまだ二時間しか経っていない。昼食が食べられなくなる、昼まで待て。」
少し離れた場所から、その二人のやり取りを、自分の口元を両手で押さえながら見つめている人物がいた。
白い修道服を休日用の落ち着いた街着に変えたセレシスだった。彼女は漏れ出しそうになる笑いを堪えきれず、肩を小刻みに震わせている。
「……ふふっ、ふふふ……っ」
「何だ、セレシス。俺の統率行動に何か不備でもあるか。それとも、大教会の教義において、市場での買い食いは推奨されているのか」
ノアが怪訝そうに振り返ると、セレシスは慌てて首を振って、青い瞳を和らげた。
「いえ、違います。……ただ、あなた、本当にお兄さんなんですね」
「意味が分からん。俺は生物学的にあいつらの兄ではない」
「そういう理屈っぽくて、不器用なところです。……あの夜はあんなに恐ろしかったのに、ここではただの、妹や弟に振り回されて困っている、お兄ちゃんの顔をしていらっしゃいます」
セレシスの言葉は、ノアにとって理解しがたいものだった。彼はフンと鼻を鳴らし、再び走り去るルークの背中に視線を戻しながら、感情の起伏のない淡々とした声で即答した。
「組織の肩書きなど、ここでは何の意味も持たない。あいつらは――俺の、家族だ」
たった一言。何の虚飾もない、当たり前の事実を告げるような口調。
だが、その言葉を受け止めたセレシスは、息を呑むようにして、その透き通るような青い瞳を少しだけ大きく見開いた。
ノアの横顔は、どこまでも平然としていた。揺るぎない、傲慢なほどの確信。
けれど、セレシスは知っている。その「当たり前」の日常を、子供たちの何気ない笑い声を守るためだけに、この目の前の少年がどれほど孤独な地獄へ踏み込んだか。どれほど冷酷に引き金を惹き、己の身を削りながら戦ってきたか。得た力の一切を自分のためには使わず、ただこの孤児院を、家族を守るために戦っている。
(この人は、自分が優しい人だということを、きっと一生認めない)
セレシスは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、心の中でそっと微笑んだ。
その時だった。
ノアがルークを呼び止めた。
「ルーク」
「ん?」
「そこから動くな」
「え?」
「きゃっ――!?」
突如として、人混みの喧騒を切り裂くような、小さな悲鳴が響いた。
見れば、数メートル先、露店の角から勢いよく飛び出してきた荷馬車の進路上で、買い物途中らしき小さな少女が足をもつれさせ、派手に転倒していた。
御者が血相を変えて手綱を引き、急ブレーキをかけるが、重量のある荷車は慣性に従って、少女の小さな身体を容赦なく轢き潰そうと迫る。周囲の人間が悲鳴を上げ、誰もが最悪の結末を覚悟して目を背けた。
だが。
次の瞬間、人々の視覚を置き去りにするような、一筋の『黒い影』が爆発的な速度で市場を横切った。
「え――?」
少女が恐怖に目を瞑った刹那。
気づけば、彼女の身体は荷車の車輪の下ではなく、大通りから完全に外れた、安全な建物の陰へと移されていた。
突風が吹き抜けたかのような風圧。何が起きたのか、馬車の御者も、周囲の野次馬たちも、誰一人として状況を理解できていない。
ただ、少女の目の前に、衣服の裾をわずかに揺らしたノアが、最初からそこにいたかのような自然さで静かに佇んでいた。
「……周囲の状況を把握せずに立ち止まるな。死にたくなければ、自分の足元くらいは常に見ておけ」
「は、ひ、はい……っ」
少女は怪我一つない自分の身体と、目の前に現れた冷徹な黒髪の少年の姿を見比べながら、完全に呆然としていた。
ノアはそれ以上の言葉をかけることなく、何事もなかったかのようにセレシスたちの元へと、ポケットに手を突っ込んだまま歩いて戻ってくる。その一連の動作には、人を助けたという高揚感も、己の超人的な身体能力を誇るような気配も、塵ほども含まれていなかった。
セレシスは、そのあまりにも極端で「ノアらしい」救出劇に、深い溜め息を吐きながらも苦笑せざるを得なかった。
「ノアさん。せっかく格好良く助けたのですから、もう少し優しく『怪我はなかったかい?』とか言えないんですか?」
「無駄だ。そんな感情的な対話は、今後の事故防止における何の教訓にもならない。それに、ここで誰かが大怪我をすれば、市場がパニックになり、子供たちの遊興時間が削られる。その方が面倒だ」
「……本当に、そういうところですよ、あなたは」
「?」
ノアは、本気で何が悪いのか分からない、という風に不思議そうに小首を傾げていた。
◇◇◇
夕方。
太陽が西の地平線に沈み、王都全体が温かなオレンジ色の夕闇に包まれる頃。孤児院へと帰る貸し切りの馬車の中は、昼間の喧騒が嘘のような、静かな寝息で満たされていた。
あれだけ暴れ回っていた子供たちは、文字通り体力の限界まで遊び尽くし、全員が疲れ果てて全滅していた。
ルークは、市場でカインに買ってもらった大きな木の実のクッキーを大事そうに両手で抱きしめたまま、ノアの太ももに頭を乗せて、すやすやと幸せそうな寝息を立てている。ノアは、ルークが抱えたクッキーが落ちそうになっていることに気づき、静かに位置を直した。起こさないよう、ほんのわずかに。他の子供たちも、マリアやセレシスの身体に寄りかかるようにして、丸くなって眠っていた。その顔は、全員が例外なく、満ち足りた笑顔だった。
ノアは、自分の膝の上で無防備に眠るルークの頭髪を、視線は窓の外に向けたまま、指先でわずかに払い、整えた。
久しぶりに訪れた、何の血の匂いもしない、平和な一日。この時間が、永遠に続けばいい。そんな、裏社会の支配者には許されないはずの、甘く、切ない願いが、ほんの少しだけ脳裏をよぎる。
ピピッ――。
その時、ノアの外套の内ポケットに忍ばせていた、カインから緊急連絡用として渡されていた特殊な『通信結晶』が、細く、かすかな光を放った。
ノアの瞳から、一瞬で「兄」の温もりが消え去り、冷酷な「総帥」の光が宿る。彼はルークを起こさないよう、細心の注意を払って結晶を取り出し、極めて小さな声で魔力を通した。
「……俺だ。状況は」
『――総帥』
結晶の向こうから聞こえてきたのは、第三翼ゼノンの声だった。
いつも通りの、完璧に計算され尽くした、冷徹で冷静な声音。だが、長年彼の報告を聞いてきたノアの耳は、その声音の奥に、僅かな――異様な「硬さ」があることを見逃さなかった。
「何があった、ゼノン。市場の予算に関してなら、後でエレナと直接話す」
『いえ、予算の件ではありません。……第二翼リアナより、北部密偵網の報告が届きました』
ノアの漆黒の瞳が、ミリ単位で細められる。窓の外を流れる夕焼けの景色が、心なしか急速に色を失い、不吉な影を帯びていくように見えた。
「内容は」
結晶の向こうで、ゼノンが一度、短く沈黙した。あの完璧な男が、報告を前にして呼吸を整える。その事実だけで、事態の異常性が嫌というほど伝わってきた。
そして、ゼノンは、静かに、しかし絶対の事実としてその言葉を告げた。
『――王国北部辺境の山間部において。国境沿いに位置していた一つの【村】が、一夜にして、完全に消失しました』
「……続けろ」
『対象はリンドル村。登録住民数、三百二十七名。……家屋や家財、家畜、果ては村を囲む防壁にいたるまで、物理的な破壊の痕跡は一切ありません。ですが、人間だけが、文字通り一人残らず消え失せています。まるで、最初からそこに誰も存在していなかったかのように、生活の痕跡だけを残して、全員が行方不明です』
馬車の中。子供たちの安らかな寝息が響くその空間で、ノアの周囲の空気だけが、一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。セレシスが、そのただならぬ気配の変化に気づき、ハッと息を呑んでノアの顔を見つめる。
『そして……無人となった村の広場の中央、地面に深く刻まれている「それ」を確認しました』
ゼノンの声が、かつてないほど低く、重くなる。
『――完璧な円環。その内部に、重なり合う三つの不揃いな三日月。……例の紋章です』
その具体的な名称こそ、ゼノンの口からは出なかった。だが、ノアにとっては、それで十分すぎるほどだった。
「……分かった。引き続き情報を待て」
『御意』
ブツリ、と通信が途絶える。ノアは結晶をポケットに仕舞い、眠る子供たちを見た。すると
「……ノア、兄ちゃん……」
ルークの寝言を聞いたノアは、ルークが抱きしめているクッキーの箱を落ちないように、そっと直した。そして、通信内容を思い出し
「……失わせない」
と誰にも聞こえないほど小さく、ノアは呟き、また夕焼けに染まる窓の外を見た。
その日。
ノア・クロードはまだ知らなかった。この報告が、黒鴉の歴史を、王国の歴史を。
そして、自らの運命さえも根底から覆す事件の始まりであることを。夕焼けに染まる王都を乗せた馬車は、静かに孤児院への帰路を進んでいく。
だがその頃。
王国北部、リンドル村。
誰もいないはずの教会だけが、夕闇の中で静かに佇んでいた。
まるで、誰かが訪れるのを待ち続けているかのように。




