16 黒鴉の日常
東区の事件から、さらに数日。
王都の喧騒から隔絶された孤児院『ひだまり』は、元の穏やかな日常の呼吸を取り戻していた。
中庭の瑞々しい芝生の上では、子供たちが声を上げて泥だらけになりながら影踏みに興じ、開け放たれた厨房の窓からは、マリアが鼻歌交じりに昼食のスープをかき混ぜる、小気味よい木べらの音が響いてくる。陽光の降り注ぐその空間は、どこまでも平和で、どこまでも無害だった。
そんな平穏な空間に、今日もまた、裏社会の不穏すぎる足音が接近していた。
「総帥ーーーーーーーっ!!」
鼓膜を直接震わせるような、いっそ清々しいほどの爆音。
次の瞬間、年季の入った孤児院の頑丈な木製の門が、凄まじい勢いで左右に蹴り開かれた。
「帰れ」
本をめくる指先一つ動かさず、ノア・クロードは特等席のソファから氷点下の声を放った。開け放たれた門の前に立っていたのは、文字通り家の一角を切り取ってきたかのような、巨大な特注の木箱を平然と肩に担いだ大男――黒鴉第一翼、カインだった。
「おいおいおい! 久しぶりに顔を出した頼れる兄貴分に対する最初の挨拶が『帰れ』って、そりゃあひどくねぇか、総帥!?」
「お前がこの敷地に一歩でも足を踏み入れると、例外なく面倒事と余計な仕事しか起きない。時間の無駄だ。即刻立ち去れ」
「ひどっ! 胸に刺さるわ!」
カインは大袈裟に空いた方の手で胸を押さえ、傷ついた振りをしてみせる。だが、その背後の道には、馬の鼻息も荒々しい、先日のものよりさらに一回り大きな大型馬車が、これでもかと車体を沈み込ませて停車していた。荷台には隙間なく布が被せられているが、そこから漂ってくる異様な魔力と、それ以上に濃厚な「ある匂い」に、ノアは額に青筋が浮かぶのを感じていた。
「……今度は、一体何を企んでいる」
「企んでるたぁ人聞きが悪い! 見りゃ分かんだろうが、純然たる『支援物資』だよ!」
「先週、エレナの予算で一年分は困らないほどの物資が搬入されたはずだ。我が組織の物流管理能力は、一週間で破綻するほど低能だったか?」
「いやいや、今回は中身の毛色が違うんだって! ほら、見ろよ!」
カインが荷台の布を豪快に引っぺがすと、そこには王都の一流菓子店、果ては隣国の宮廷御用達の銘柄まで揃った、色とりどりの菓子箱が壁のように積み上げられていた。
「今回は高級菓子尽くしだ! ガキども、集まりな!」
「必要ない。甘味は子供の歯と発育に――」
「お菓子!?」
「わあぁぁ! お菓子だー! カインのおっちゃん大好きー!」
ノアが冷徹に却下しようとした瞬間、リビングの扉を文字通り突き破るような勢いで、ルークを筆頭とした子供たちの津波が中庭へ溢れ出していった。
彼らは一瞬でカインの巨体に取り付き、衣服の裾を引っ張り、飛び跳ねて大騒ぎを始める。ノアの「教育的指導」など、甘い砂糖の香りの前には無力だった。
「……裏切り者しかいないな、この家は」
ノアは深く、深くため息を吐き、子供たちに揉みくちゃにされながら鼻高々に笑うカインを見つめていた。
◇◇◇
その頃。王都のさらに地下深く、光の届かない『黒鴉』本部の一角。
第三翼ゼノンは、地上の喧騒とは無縁の、冷徹な静寂が支配する執務室で、山のような情報書簡を処理していた。彼の羽ペンが走る音だけが、規則正しく室内に響いている。
コンコン、と控えめなノックの音と共に、夜烏の仮面をつけた部下が滑り込むように入室してきた。
「ゼノン様、少々よろしいでしょうか。地上の密偵より、緊急を要する確認事項が」
「手短に。私の時間は、無能な愚痴を聞くためにあるのではない」
ゼノンは視線すら上げず、眼鏡の奥の切れ長の瞳で書類の文字を追い続ける。
「はっ。……その、総帥の御身についてなのですが。現在、総帥はどちらの隠れ家に? 王宮の夜会に関する暗殺計画の決裁、および大教会への揺さぶりの件で、直接ご判断を仰ぎたい案件が多数滞っております」
その問いを聞いた瞬間、ゼノンの羽ペンがピたりと止まった。
ゼノンはゆっくりと顔を上げ、銀縁眼鏡の位置を指先で直すと、感情の完璧に抜け落ちた、地獄の底のような無表情で告げた。
「――孤児院です」
「……はい?」
「ですから、孤児院『ひだまり』です。現在は第一翼のカインが持ち込んだ不必要な糖類の山に囲まれ、子供たちという名の有象無象の包囲網に捕まっている時間帯かと推測されます」
「ま、またですか……」
部下は一瞬、天を見上げるようにして遠い目になった。
王国の裏社会を完全に掌握し、その名を聞けば一国の王族すら夜も眠れなくなるほどの恐怖の象徴――『黒鴉の怪物総帥』。その実態が、王都の片隅のボロい孤児院で、幼児たちにお菓子を分配する割り振りの計算に頭を悩ませているなど、誰が信じられるだろうか。
裏社会の現実は、時として拷問よりも残酷に、幹部たちの理性を削り取っていくのだった。
◇◇◇
夕方近くなり、中庭の影が長く伸びる頃。
孤児院の居間には、カインに加えて、すっかり常連の顔となったセレシスも腰掛けていた。
「ノアさん、こちらのクッキー、本当に美味しいですよ。大教会の施しで配られるものとは、その、バターの量が全く違います……!」
セレシスは頬をほんのり桜色に染めながら、子供たちと一緒に嬉しそうに菓子を口に運んでいる。彼女の周りには常に、その聖なる気配に引き寄せられた子供たちが群がっており、さながら聖画の一場面のようだった。
そんな様子を、ソファに深く腰掛けたカインが、意地の悪い笑みを浮かべながら肘でノアの脇腹を小突いた。
「なぁ、総帥」
「気安く触るな。叩き斬るぞ」
「いいから見ろって。あの修道女の嬢ちゃん、最近、半ばどころか完全にうちの常連じゃねえか。今日も教会の用事のついでとか言ってたが、あそこの大聖堂からここに来るの、普通に馬車で結構かかるからな?」
「……そうだな。大教会の移動効率の悪さは以前から問題視している。ゼノンに命じて、教会の馬車馬の質を向上させる裏ルートを構築させるべきか」
「そうじゃねえよ! 毎日だぜ? 毎日、わざわざ時間を作ってここに顔出しにきてるんだぞ?」
「……ふん。大教会の聖職者というのは、想像以上に暇な組織のようだな。職務怠慢だ。神への祈りよりも、子供どもの相手の方が有意義だと気づいたのなら、いっそ還俗すればいい」
ノアは至極真面目に、組織の効率性の観点から冷淡に言い放った。
その徹底的なまでの的外れな回答を聞いた瞬間、カインは一瞬呆気に取られた後、耐えきれずにブハッと盛大に紅茶を吹き出した。
「ギャハハハハハ! 暇って! 嬢ちゃん、大教会でも次代の聖女候補って言われてる超多忙の身だぞ!? 総帥、お前……暗殺の作戦を立てさせたら天才のくせに、こういうことに関しては本当に、脳味噌が幼児並みの鈍感さだな!」
「意味が分からん。俺は常に客観的な事実に基づいて発言している」
「だろうな! ああ、だろうよ! 嬢ちゃんが不憫で涙が出てくるぜ!」
カインは涙を拭いながら腹を抱えて笑い転げる。ノアはますます不愉快そうに眉間を険しくしたが、カインの「諦め」の籠もった笑いの理由を、彼の頭脳を持ってしても、ついに解き明かすことはできなかった。
◇◇◇
その日の夜。
子供たちが一日の興奮に疲れ果て、泥のような深い眠りについた後。
ノアは昼間の「不器用な兄」の仮面を脱ぎ捨て、珍しく地下の黒鴉本部へと足を運んでいた。
最深部に位置する『黒翼の間』。
昼間の温かな空気とは一転し、そこには冷徹な魔力と殺気の密度が充満していた。
巨大な黒曜石の円卓を囲むように、黒鴉の「最高幹部」たちが並んでいる。
第一翼、カイン。先ほどまでの、お調子者の顔はどこにもない。
第三翼、ゼノン。眼鏡の奥の瞳は、裏社会のすべての動向を見透かすように冷え切っている。
第四翼、エレナ。羽ペンの音を響かせ、組織の血脈たる金を支配する女。
第五翼、レオン。椅子の背もたれに深く寄りかかり、飢えた獣のように笑みを浮かべている。
第六翼、オズウェル。片眼鏡の奥で、静かに主君の降臨を待つ老魔導士。
そして、ノアの背後の影から、音もなく這い出るようにして控える
第七翼ソフィア。
王国を裏から支配する、一騎当千の怪物たちが、一人の少年の前に平伏していた。
「総帥」
ゼノンが、一枚の極厚の羊皮紙の資料を、円卓を滑らせるようにしてノアの前へと差し出した。
「今月の、我が組織における総括財務、および各部門の活動報告書です。すでに目を通されているかと思いますが、最終確認の決裁を」
「……読め。要点だけでいい」
「拒否します。今回は、ご自身で『読んで』ください」
「面倒だ。俺のリソースを、そんな数字の羅列に割かせるな」
「総帥」
ゼノンが、珍しく、本気で胃を痛めているかのような、深く、重いため息を吐き出した。その隣では、エレナが静かに、しかし絶対に言い訳を許さないという極めて冷徹な手取りで、資料の特定の項目を指先でトントンと叩いた。
「総帥。今回の件に関しては、私もゼノンに全面的に同意します。何故なら、あなたの知らないところで、我が組織の特定部門における『予算の異常な肥大化』が継続しており、もはや財務管理の限界数値を突破しかけているからです」
「……何だと?」
ノアの瞳が僅かに細められる。黒鴉の財務を預かるエレナが「異常」と言うほどの事態。どこかの貴族が裏切り、軍資金を着服したか、あるいは他国との密貿易で大規模な損失を出したか。ノアは冷酷な暗殺者の思考で、ゆっくりと資料の手元へと視線を落とした。
そして、その文字を確認した瞬間。
世界最強の裏組織の総帥は初めて、自分の目を疑った。
そこには、精緻な文字でこう記されていた。
『孤児院「ひだまり」支援・および周辺環境整備費』
――前月比、七百八十パーセント増。
「……何だ、これは」
部屋の温度が、一瞬で凍りつく。ノアの全身から漏れ出た、刺すような殺気が会議室を満たした。
「誰だ。この国家の国家予算に匹敵するほどの金を、ただのボロい孤児院に注ぎ込んだ無能は。……前に出ろ。今すぐ首を刎ねてやる」
ノアの冷徹な追及。
だが、次の瞬間、円卓を囲む怪物たちの挙動は、あまりにも不自然なものだった。
カインは不自然なほど天井の模様をじっと見つめ始め、レオンは自分の爪の間の汚れを熱心に掃除し始め、エレナは突然、手元の資料の余白にものすごい速度で無意味な直線を描き始めた。オズウェルにいたっては、完全に気配を消して置物のように硬直している。
全員だった。
ゼノン以外の全員が、綺麗に視線を逸らしていた。
「説明しろ、カイン。お前が昼間持ってきたあの馬車一杯の菓子は、一体どこの予算から出た」
「いやぁ……その、なんだ、総帥。ガキどもがよ、美味そうに菓子を食うツラを見てたらよ、つい『もっといいもんを食わせてやりてぇ』って思うのが人情だろ? だから、ちょっと第一翼の遠征費をなぁ……」
「レオン。お前の部隊の戦闘訓練費から、何故か『最高級の漆喰と、防犯用魔導障壁の設置費用』が引き落とされているのはどういうことだ」
「ケッ、あのガキどもを守るなら、壁は厚い方がいいだろ。敵が来た時に壊されたら気分が悪い」
「オズウェル。お前の研究費の項目にある『栄養管理用、特級魔導ハチミツの精製』とは何だ」
「ほっほっほ……いや、老体のちょっとした趣味と言いますか。子供たちの骨格形成における、魔導的な栄養解析の研究用として、ほんの数キロほど、ね?」
好き勝手な言い訳が、会議室に飛び交う。彼らは戦場では数万の軍勢を一人で蹂躙する怪物でありながら、その実態は、自分たちの主君が大切にしている孤児院の子供たちを、これでもかと甘やかすことに己の能力と組織の権力を投入していたのだ。
ノアは深く、深く額を押さえた。頭痛がしてくるのを感じる。
黒鴉は王国最大の、最も恐れられる裏組織のはずだった。その最高幹部たちが、揃いも揃って孤児院のパトロールと貢ぎ物の選定に血道を上げている。
その光景を横目で眺めながら、唯一の常識人であるゼノンだけが、静かに、しかしどこか満足そうにため息を吐いた。
「……本当に、平和ですね、我が組織は」
その言葉に、誰も反論できる者はいなかった。ノアは彼らへの処罰の言葉を喉の奥に飲み込むしかなかった。
ノアは資料を閉じた。
黒鴉。王国最大の裏組織。その最高幹部たちは、王国よりも孤児院の事情を優先している。
本当に救いようがない。
「……馬鹿ばかりだ」
小さく呟く。
だが、その言葉には不思議と棘がなかった。
円卓の向こうでは、まだカインとレオンが
「俺の支援の方が役に立った」
「いや俺だ」
と、低レベルな言い争いを続けている。
ゼノンは頭を抱え、エレナは予算の再計算を始め、オズウェルは楽しそうに紅茶を飲んでいた。
黒鴉は今日も変わらない。
そして。その光景を見つめるノアの口元には、誰にも気付かれないほど僅かな笑みが浮かんでいた。
その時。
ゼノンの机の上に置かれた未処理の報告書が風で捲れた。
そこには、王国北部辺境村消失事件という見出しが記されていた。
しかし。
今この場でそれを気にする者はいなかった。




