15 穏やかな朝
東区倉庫街の、あの地獄のような事件から三日。
王都の片隅にひっそりと佇む孤児院『ひだまり』には、ようやく、本当に久しぶりとなる平穏な朝が訪れていた。
薄いカーテン越しに差し込む柔らかな陽光が、板張りの床を白く温める。厨房からは、香ばしいバターと小麦が焦げる焼きたてのパンの香りがふわりと漂い、開け放たれた窓からは、中庭を元気いっぱいに駆け回る子供たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。
ほんの数日前まで、誰もが暗い地下牢の恐怖に怯え、不安と絶望に押し潰されそうになっていたとは到底信じられないほど、今の孤児院を流れる空気は、穏やかで優しさに満ちていた。
そんな奇跡のような平穏を、いつも通りの遠慮のなさでぶち破る足音が廊下に響く。
「ノア兄ちゃーーーん!!」
バタバタとスリッパを鳴らし、文字通り突っ込んできたのはルークだった。ハチミツ色の瞳をこれでもかと輝かせ、ノアの座る古いソファの前に飛び込んでくる。
「見て見て! 早く見てってば!」
ノアは膝の上に広げていた、裏社会の勢力図が暗号で記された古い魔導書から、ゆっくりと顔を上げた。ルークがその小さな両手で、これみよがしに胸の前に差し出してきたのは、一羽の木彫りの鴉だった。
それは、以前ルークがノアにプレゼントしようとして、不格好になってしまった最初の作品とは、比べ物にならないほどの出来栄えだった。刃物の跡はまだ荒削りなものの、翼の美しい曲線や、細かな羽の重なりまでが、幼い手で一本一本、執念のようにつぶさに刻み込まれている。
「どう!? これ、結構頑張ったんだから!」
ルークは期待と、ほんの少しの不安が入り混じった瞳でノアの顔色を窺う。その背後では、廊下からのぞき見していた他の子供たちも、ゴクリと唾を呑んで事の顛末を見守っていた。
ノアは無言のまま、小さな手からその木彫りの鴉を受け取った。指先で細かな彫り込みの感触を確かめ、数秒間、じっと観察する。
静寂が部屋を満たす。子供たちが緊張で身を硬くする中、ノアの薄い唇から、ぽつりと短い言葉が漏れた。
「……前より、かなり上手いな。羽のバランスが良い」
その瞬間、ルークの顔がパッと一瞬で弾けるように輝いた。
「ほんと!? 嘘じゃない!? 本当に上手い!?」
「ああ。嘘を言うメリットがない」
「やったーーーーーっ!!」
ルークはソファの目の前で、天井に頭が届きそうなほどの勢いで飛び上がった。それを見た背後の子供たちも、まるで自分のことのように一斉に歓声を上げて部屋になだれ込んでくる。
「すごーーい! ルーク、ノア兄ちゃんに合格もらった!」
「ずるいぞルーク! お前ばっかり! ノア兄ちゃん、俺の粘土も見て!」
「今日はお祭りだ! ルークの木彫り記念日だー!」
「……大袈裟だ。早く朝食の席につけ」
子供たちに揉みくちゃにされながら、ノアは呆れたようにため息を吐き、視線を元の本へと戻そうとした。しかし、耳の後ろがほんの少しだけ居心地悪そうに赤くなっているのを、子供たちが見逃すはずもない。普段のノアは、冷淡で、何を考えているか分からず、滅多に他人を素直に褒めることなどしない。だからこそ、彼から向けられる肯定の言葉がどれほど特別で、どれほど価値があるか、この『ひだまり』の子供たちは誰よりもよく知っていた。ノアの言葉一つで、子供たちの世界は簡単に輝きを取り戻すのだ。
そんな騒がしくも愛おしい光景を、厨房の小窓から見つめていたマリアが、目元を優しく緩めて小さく笑った。
「本当に……みんな、驚くほど元気になったわね」
エプロンで手を拭きながら、マリアがリビングへと歩み寄ってくる。よく見れば、彼女の目の周りには、まだうっすらと抜けない疲労の影が残っていた。ルークが攫われたあの日から、彼女は一睡もできず、心が張り裂けるような思いで祈り続けていたのだ。肉体的な疲労はまだピークにあるはずだった。それでも、今こうして心から笑っていられる理由。そのすべてが、眼前の光景に詰まっていた。
マリアは騒ぐ子供たちの頭を順番に撫でて食堂へと促した後、ソファの傍らに立ち、静かにノアを見つめた。
「ノア」
「何だ、マリア姉ちゃん。味付けの文句ならエレナに言ってくれ」
「違うわよ。……ありがとう」
マリアは、いつになく真剣な、そして母親のような深い慈愛の籠もった眼差しで、深く頭を下げた。
「ルークを、あの子たちを……無事に連れ帰ってきてくれて。本当に、ありがとう」
裏社会の怪物たちを相手に、ノアがどれほど冷酷な戦いを繰り広げてきたか、マリアは詳しくは知らない。けれど、彼が自分の大切な家族のために、その小さな背中にどれほど重いものを背負って動いてくれたのかは、痛いほど分かっていた。
ノアは、向けられた真っ直ぐな感謝から逃れるように、ふいと気まずそうに視線を窓の外へと逸らした。
「当然のことをしたまでだ。あいつは、ここの人間だからな」
「それでもよ」
マリアは一歩近づき、ノアの乱れた黒髪を優しく手櫛で整える。ノアは嫌そうな顔をしつつも、その温かい手を拒絶しようとはしなかった。
「あなただって、怪我をしていたかもしれない。相手は恐ろしい奴隷商会だったんでしょう? 危険な目に遭ったんじゃないかって、私、生きた心地がしなかったわ」
「……問題ない。俺があの程度の有象無象に後れを取ることはない」
一ミリの揺らぎもない、冷徹なまでの即答。
マリアは一瞬呆気にとられた後、クスッと、どこか諦めたような苦笑を漏らした。本当に、この子は昔から何も変わらない。世界を裏から支配する組織のトップだろうが何だろうが、自分の身の安全や価値のことになると、驚くほど無頓着で、不器用なのだ。
「そういう自分の命のことも、もっと大事にしなさいって言ってるの。分かった?」
「意味が分からん。合理的でない」
「でしょうね。ノアは頭が良すぎて、たまに一番大事なことが分からなくなるんだから」
マリアが肩を竦めると、それを見ていたルークたちが「ノア兄ちゃんが怒られてるー!」と指を差して笑い出す。ノアはますます眉間を険しくしたが、その場の誰も、彼が本気で怒っていないことを知っていた。
孤児院には、奪われかけた「本物の日常」が、完全に、温かく戻ってきていた。
◇◇◇
昼過ぎ。太陽が最も高い位置に昇り、中庭の木々が爽やかな影を落とす頃、ひだまりの玄関のベルがカラランと涼しい音を立てた。
「こんにちは。皆さん、ご機嫌いかがですか?」
扉を開けて入ってきたのは、初夏の風を連れてきたかのような、清廉な人物だった。
汚れ一つない白い修道服。日の光を浴びてきらきらと輝く柔らかな金髪。そして、地獄を見てなお、一切の濁りを知らない透き通るような青い瞳。
大教会の修道女、セレシスだった。
「あ! セレシスお姉ちゃん!!」
「本当に来た! 約束守ってくれたんだ!」
中庭やリビングにいた子供たちが、一斉に弾かれたように弾丸となってセレシスへと飛びついていく。セレシスは「わわっ!」と一瞬よろめきながらも、すぐにその聖母のような笑みを浮かべ、慣れた様子で膝をついて、小さな身体を一人一人、愛おしそうにきつく抱きしめていった。
「ええ、みんなに会いに来ましたよ。ルーク、ちゃんとご飯は食べていますか? 怖い夢は見ませんでしたか?」
「ぜんぜん! 俺、もうノア兄ちゃんの次に強いから平気!」
ルークが胸を張るのを見て、セレシスはホッとしたように胸を撫で下ろす。
その様子を、リビングの特等席でエレナが手配した高級な最高級の紅茶をすすりながら、ノアは冷めた目で見つめていた。
「相変わらず人気だな、お前は。カインたちの誰よりも、人心掌握の才能がある」
「人心掌握だなんて、そんな物騒な言い方はやめてください!」
セレシスは子供たちの頭を撫でながら立ち上がり、ノアの向かいの席へと腰掛けた。少し頬を膨らませて抗議する姿は、地下牢で命がけの祈りを捧げていた「聖女」の姿とは違い、年相応であった。
「私はただ、子供たちが可愛いだけです。それに……あの事件の後、皆さんの様子がずっと気になっていて。夜もあまり眠れなくて、気がついたら足がこちらを向いていました」
事件の翌日から、セレシスは教会の激務や尋問の合間を縫って、何度もこの孤児院へ顔を出していた。恐怖を経験した子供たちの心のケアをするため、というのは表向きの理由で、本質はただ、みんなの笑顔が見たかったから。
そして。
「……それに、あなたのことも、少し、心配でしたから」
セレシスはノアの冷徹な黒い瞳を真っ直ぐ見つめられず、視線を少し落としながら、消え入りそうな小さな声で呟いた。あの地下牢で、世界を呪うような深い闇を背負いながら戦っていた少年。その彼が、この温かい場所でちゃんと息を吸えているのか、それが堪らなく気になっていたのだ。
しかし、ノアの聴覚は裏社会の暗殺者としてのもの。その微小な呟きを拾いつつも、そこに込められた感情の機微までは解読できなかった。
「何か言ったか? 教会側でまた不穏な動きでもあったのか」
「いえ! なんでもありません! 全然、何でもないですっ!」
セレシスは顔を真っ赤にして、千切れるほどの勢いで両手を左右に振った。そのあまりの慌てぶりに、隣で木彫りを弄んでいたルークが、ニヤニヤとした実に邪悪な、子供特有の笑みを浮かべ始める。
(……嫌な予感がするな)
ノアがそう察知した時には、すでに遅かった。ルークはセレシスの修道服の袖をツンツンと引っ張りながら、大声で言い放った。
「ねぇねぇ、セレシスお姉ちゃん。お顔、ものすごーく真っ赤だよ? ノア兄ちゃんのお顔、じっと見たから?」
「る、ルーク!? な、何を言っているのですか、私はただ、お外が暑かっただけで……っ!」
「赤くな〜いって言おうとしたでしょ! ほら、リンゴみたい!」
「赤くないです!!」
完全なる即答。そして、怒涛の勢いで顔を両手で覆うセレシス。
その、あからさまに図星を突かれた初々しい反応を見て、リビングにいた子供たち、さらには厨房のマリアまでが盛大な声を上げた。
ノアだけが、紅茶のカップを手に持ったまま、「何が面白いんだ……? 外の気温は平年並みのはずだが」と意味が分からず、怪訝そうに小首を傾げていた。
◇◇◇
夕方になり、西の空が燃えるような茜色に染まる頃。
孤児院の前に、ガタガタとけたたましい音を立てて、一台の巨大な、そして不釣り合いなほど頑丈な馬車が停止した。
「おーーーい! 総帥! 迎えに来たぜ……じゃなくて、お届け物だ!」
馬車の御者台から飛び降りてきたのは、聞き慣れた豪快な声の主。黒鴉第一翼、カインだった。
彼はその巨体に見合わぬ器用さで、馬車の荷台から、大人が二人で運ぶような巨大な木箱を、軽々と三つも四つも両腕に抱えて笑っている。
「支援物資の山だ! ひだまりのガキども、喜べよ!」
「……またか、カイン。一昨日も持ってきたはずだが」
玄関から出てきたノアは、半眼になってその物資の山を見つめた。
カインが地面にドスンと下ろした木箱の隙間からは、最高級の小麦粉、保存性の高い燻製肉、大量のハチミツ瓶、さらには冬物の上質な毛布や衣服が、これでもかと詰め込まれているのが見えた。孤児院が丸一年、贅沢に暮らしてもお釣りがくるほどの狂気的な量だ。
「まただ、悪かったな! だが、俺の意志じゃねえんだよ。あの第四翼の、エレナの姉御がよぉ……『ひだまりの備蓄が数パーセントでも減少することは、私の管理能力に対する侮辱です』とか言って、裏の流通ルートを強引に一本、この孤児院専用に繋ぎやがったんだ」
「予算はどうした。あの女、組織の公金を私物化している訳ではなかろうな」
「気にするな、だとよ。姉御の個人資産、あるいは今回の事件でアシュフォードから毟り取った裏金の一部を綺麗に洗浄して回したらしいぜ。……まぁ、あの姉御なりに、ルークが攫われたことに相当ブチ切れてたんだろ。二度と、あの子たちにひもじい思いはさせねえってよ」
カインは頭の後ろで手を組み、ガハハと笑う。
ノアは小さくため息を吐いた。容易に想像がつく。エレナは普段、冷徹な数字の鬼として組織を統括しているが、その本質は黒鴉の仲間への執着が誰よりも強い。自分の管理下にない場所で、ルークが飢えと恐怖に晒された事実が、彼女のプライドと、内なる優しさを激しく逆撫でしたのだろう。
「物資の搬入は俺がやっとくから、総帥はそこで休んでな」
カインはそう言うと、子供たちを呼び集めて楽しそうに荷物を運び込み始めた。
その頼もしい背中を見送った後、カインが不意に足を止め、少しだけ真面目な顔をしてノアを振り返った。
「総帥」
「何だ」
「……良かったな。みんな、無事で」
ノアは、すぐには答えなかった。
だが、彼の視線の先には――。
カインの周りで「おじさん力持ちー!」とはしゃぎ回る子供たち。
嬉しそうに小麦粉の袋を受け取るマリア。
それをお手伝いしようとして、裾を汚しているセレシス。
そして、自分が作った木彫りの鴉を、見せびらかして自慢しているルークの姿。
暗い地下牢で、己の闇の魔力を暴走させてでも、世界のすべてを敵に回してでも、絶対に守り抜くと誓った景色。
その全てが、今、目の前にあった。
「……ああ」
夜風に溶けるような、短い返事。それだけだったが、その声の温度は、地下牢でベルグを焼き尽くした時とは、全く違う温かさを含んでいた。




