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発車を告げる、くぐもったマイク超しの声が車内に響く。
男を目に出来るこの短い時間を、一瞬たりとも無駄にしないようにと、千代は一心に男へと視線を向けていた。
収集所へついた男は、噛むようにして煙草を咥えると、ごみ袋を両手に持ち替えた。いかにも寝起きの重たい動作で、詰まれた他の袋の一番上へとそれを乗せる。こちらに背を向ける形となった男の、襟足の髪が一筋あらぬ方向へと跳ねている事に気づいて、千代はくすりと、笑みをこぼしていた。
バスにエンジンがかけられ、小刻みの揺れが足元から手すりを握る掌へと順に伝わるのを感じて、千代は小さくため息をついた。
次に男の姿を目にできるのは、いつの事なのだろう。初めて男を見た日から今日までにゆうに2週間程の時が経過している。また、同じだけの時を待たなくてはいけないのだろうか。それとも、もっと長くかかるだろうか………。
タイヤが回転を始めたその時、ゴミを出し終えた男が、顔を上げる。
バスが発車する音に気がついて何気なく振り返った。そんな動作だった。
深く煙草を吸い込んだ男の視線がバスを、千代を、捕らえる。
―――――え?
男を凝視していた千代の視線は当然のように、男のそれと絡まった。
突然の事に驚いた千代は視線を外す事もできずに、目を丸くして男を見つめる。男の眉が僅かに上がるのを、確かに千代は見た。
見ていた事を男に気づかれてしまっただろうか? 今すぐにでも俯いて男の目から逃れたい。しかし今更、目線を変えるのも不自然に思えて千代はとどまった。
(どうしよう………はやく、はやく、速度をあげてほしい)
本来ならば惜しんでいたはずのこの時間が、何とも居た堪れない時へと変わっていく。 バスのガラスに朝の光が反射して自分の姿を隠してくれてはいないだろうか、と千代は祈るように考えてみるが、男の視線は明らかに千代へと向けられていた。
顔から火が出る思いとはこの事だ。きっと今自分の顔は真っ赤になっているのだろう。背後の女性のイヤホンから漏れ聞こえているはずの音楽は、胸の音にかき消され、背中にはじんわりと汗が浮き出ていた。
バスのタイヤが2度、アスファルトの上を転がった頃、千代はとうとう堪えきれず、会釈に見えなくもない程度に顎をひいてから、ついと視線をさ迷わせた。前の座席に座るサラリーマンが手にしている新聞に、これ幸いと目を向ける。
大きな見出しと共に、愛らしい笑顔で紙面を飾っていたのは、手に汗を握ってテレビ中継を見ながら、声援をおくった事もある年若い女性アスリートのものであった。しかし、今の千代には、まるで意味のない文字の羅列を目にしているように、記事の中身もろくに頭に入りはしない。
目を逸らしたのはわざとらしくはなかっただろうか。おかしな女だと思われはしなかっただろうか。男は今、どこを見ているのだろうか。視線を逸らせば逸らしたでどうにも落ち着かない。
ほんの少しだけ、一瞬だけならわからないかもと、俯き加減に顔を伏せたまま、そろりと向けた視線の先に、肺に吸い込んだ煙を、すぼめた薄い唇から細く細く吐き出しながら、気だるげに首を傾けてこちらを見つめる男の姿を認めて、千代は息を詰めた。




