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遠ざかるゴミ収集所を未練がましく眺めながらも、千代の心には早々に諦めがうまれていた。男がいつも決まった時間にゴミを出すとは限らない。昨日は偶然、千代がバスに乗る時間と男のゴミ出しの時間が重なったのだろう。
千代は目を伏せて息を吸い込むと、すとんと肩を落として息を吐いた。
男の事を知るのは容易いだろう。あのゴミ収集場を使用している戸数は知れているのだから。けれど、わざわざ男を探してみようとも、バスの時間を変えてみようとも思わない。男は気にかかる。しかしそれだけだ。ほんのひと時、目を奪われる光景に出会った。それだけなのだ。薄暗い曇り空の日に、雲の切れ目からさす陽の光のように、男は千代の代わり映えのない灰色の日々に、束の間、鮮やかな色彩をもたらしたに過ぎない。
肩にかけた鞄から本を取り出す。千代が物語の世界に没頭するのにそう時はかからなかった。
煙草の男を気にすることはもうないだろう。
千代は翌朝、バスに乗り込むまで確かにそう思っていた。ところがどうだろう、定位置へとついた千代の目は自然とゴミ収集所へと向けられていた。今日はゴミの日でないというのに。
当然のことながらバスの外に男の姿は見当たらない。ただ、ランドセルを背負った子供が二人、跳ねるようにして駆けていく様が映るだけだ。
予想通りのその光景に千代はさして落胆することもなかった。ただ、ほんの少し、心の片隅から染み出すように湧き出た寂しさを、諦める事に慣れた頭で誤魔化して、鞄の中へと手を入れていた。
男を見た日の朝のように、通勤中の千代が男の存在を引きずる事はなかった。本を取り出せばすぐに、夢中になれるし、男のスエットと同じ色のスーツを見ても思い出したりはしない。
なのに翌朝、バスに乗り込むと視線は外をさ迷い男の姿を探す。そんな日々を幾度か繰り返したある日の朝。
いつも通り午前7時38分のバスに乗り込んだ千代は、手すりに手をかけて、最早毎朝の儀式と化していた行動をとる。視線をゴミ収集所へと向けたのだ。
そして、息を呑んだ。
男が、いた。
途端に千代の意識は男へと吸い寄せられていった。背後から聞こえていた小さな音楽が聞こえなくなっていき、まわりの景色がぼんやりと滲んでいく。
大きく膨らんだゴミ袋を片手に持った男は、寝癖のついたやや長い前髪を、大きな手でかき回した。そのほっそりとした長い指に挟まれた煙草から、ゆらゆらと煙が昇っていく。
千代は、ほう、と息をついた。
なぜ、一瞬でも男の事を忘れられるなどと思ったのだろう。自分の心はもうこんなにも男に捕らわれてしまっていたのに。
男が煙草に火をつけていなくとも、男の手がしなやかに動く様を目にしなくとも、男の髪が美しく整えられていようとも、きっと変わらなかっただろう。
唇を歪めて欠伸をかみ殺した男が、口元へと煙草をあてがう。これ以上旨いものはないというかのように目を眇めてそれを吸い込む様を、千代は満ち足りた気持ちで眺めていた。




