6.嬉しかったんだ
土曜日。十五時。
諒はカフェに居た。
たまに足を向けるここは外のテラス席を気に入って、でもこの何週間かは週末に雨が多かったから、座るのは久しぶりだった。
大学とアパートの中間あたりにある店舗は、アルバイトのない日に講義が終わってから寄ることもあって、今日はインターンシップについて書かれた書類を読むつもりでいた。
「そろそろ梅雨が明けるかな」
快晴とまではいかなくても雲の隙間から日差しが伸びる午後は、昨日よりも湿度が低くて、半袖のシャツで正解だったなと通る風の涼しさを感じていた。
隔週で入っている土曜日のアルバイトは今週は休みで、夜は友人たちと食事をしたらカラオケに行く約束があって、それまで一人で部屋にいるとどうしても昨日の綾人を思い出すから、気分転換をしたかった。
「……勝手に帰るんじゃねえよ」
注文したアイスコーヒーのカップを掴んで、何度目かの独り言は自分が休憩に入っている間に店を出てしまった綾人への愚痴で、言葉が落ちてから慌てて周りを見回して、一人のテーブルではあとため息をついた。
――あ、いや、お前が嫌なら無理には。
――そういうことは、しねえんだ。客とは。
暗い声で断った自分を見る綾人の瞳が揺れて、そこに浮かぶ驚きと落胆の色が、瞼から消えなかった。
「ごめん」
その後から目を合わせなくなった綾人は、拒否されたのだと、思ったはずで。
だから俺がフロアから消えている間に帰ったのだと、戻ってみたら空っぽの席にショックを受けた。
既に食器が下げられたカウンターのテーブルに忘れ物はなくて、教えてもらったのは名前だけで連絡先なんて知らないから、弁解も出来なくて。
「……」
書類を挟んだファイルを出そうと思いながら、隣の席に置いたバッグへ手を伸ばせなくて、いつも飲んでいるはずのアイスコーヒーも何だか味気なくて、半分飲んでから進まない。
……でも、何て言うんだよ、真木さんに。
俺の事情なんて。
あんたには関係ないし、ややこしいと分かったら、もしかしたら。
…………もう来なくなるかもしれないだろ。
――諒。
「せっかく、仲良くなれたのにさ」
酔いが赤く滲む目尻を思い出して、誘ってもらえて本当は嬉しかったんだと、喉まで言葉が上がってくる。
優しい声に甘えていたのは、俺だった。
あの夜、初めて二人で笑った数分が、今も高揚を消せずにいた。
「真木さん」
――真木だ。真木綾人。俺の名前だ。
力強い声で、まっすぐに自分を見て、教えてくれた名前は。
常連客の一人とアルバイト店員では置いておけなかったつながりを、進めてくれた気がした。
「真木……」
呟いて肩が落ちて、バッグを取ろうとした手がまた戻って、もう来てくれなくなったらどうしようと浮かぶのを、どうにも出来ない。
俺はあの人の会社も、知らないし。
だから、会いに行くことも、無理だし。
周りの席に座っているカップルや女性たちの笑い声が耳に届いて、真木さんは何やってんのかなと浮かんで、
「やっぱり帰ろ」
何処にいても落ち着かない心を持て余して、諒は立ち上がった。
バッグを肩に掛けたつもりが半端な位置になって、腕へ滑った拍子に指がカップを突いて、とんと倒れる。
「あ」
蓋が開いて、テーブルへ流れた液体と氷に、はああと大きく肩を落とした。
「……何やってんだよ」
隣の席の二人組が自分を眺めるのが視界に入って、紙ナプキンを取り行こうとバッグを椅子へ戻した時。
「大丈夫か」
声がして、顔を上げたら綾人が立っていた。
「へ?」
「濡れてないか、お前は」
同じ調子で言葉が続いて、何も答えられない自分から視線を外した綾人が、手にした紙ナプキンを素早くテーブルへ広げる。
……何で。
あんたがここに。
「バッグは無事だな」
椅子を見てから呟いて、そのまま床へ屈むのを、やっと正気に戻った意識で慌てて自分も膝を折った。
「い、いいよ真木さん。汚れるから」
「どうでもいい。それよりテーブルを拭け」
伸ばした手を避けた綾人が短く言って、勢いに圧されてまた立ち上がると、広げられた紙ナプキンで隅から拭う。
心臓がどくどくと大きな音を立てて、でも手だけは正確に動いて一滴も残さず拭き上げるのは、バイトで養った無意識かもしれなかった。
「……」
真木さん。
何でここに居るんだよ。
……いつから、俺を見てたんだ。
よし、と言葉が流れて、立ち上がった綾人がテーブルを確認して、自分の手から丸めた紙ナプキンを取り上げると隅に設置してあるゴミ箱に入れて、また戻ってくる。
ありがと、と言いたくて口を開いたら、
「待ってろ。同じものを買ってくる」
その前に、低い声が聞こえた。
「え?」
こっちを見ずに背中を向けるから、「真木さん」と思わず声を掛けたら、
「一杯おごるだけだ」
ぶっきらぼうな口調が飛んできて、返事を待たずにカウンターへ歩いて、自分が倒したものと同じアイスコーヒーを買って戻ってきた。
「じゃあな」
それをテーブルに置いて短く言ったら、目を合わせないままさっさと離れていくから、何も返せなかった。
「……」
礼のつもりかよ。これが。
……こんな形で、受け取るなんて。
でも、あんたがこうするのは、きっと俺のせいで。
俺が、逃げたから。
「……待てよ」
逸らした瞳が少しだけ陰っていて、ずきずきと鳴る胸が痛くて、このままにしちゃ駄目だと、思った。
……理由があるんだ、避けるのは。
それを、伝えないといけないと、思った。
あんたには。
「待てよ」
もう一度喉が動いて、足を止めるのが見えた。
「真木さん」
店で、あんたに会えるのが、俺は。
嬉しかったんだ。




