7.諒の事情
その男がいつから通うようになったのかは、覚えていなくて。
「諒、っていい名前ですね」
穏やかな口調で最初にそう言われた時は、単純に嬉しくて、つい笑顔で応えていた。
それが多分、間違いだった。
いつも週末の夜に来ては奥の席を陣取るその男が、俺にしか注文を言わないと気が付いた時には、バイトで入る曜日や時間を把握されていた。
「お幾つですか。元気で男らしい」
「バイトは何時までですか」
「何処に住んでいるんですか」
皿を運ぶ度に質問が飛んできて、さすがにおかしいと思って適当に言葉を濁して、すぐテーブルを離れた。
他のバイトにはそんなことはしなくて、俺より年下の女子すら眼中にないように、その男は俺ばかり目で追っていた。
「なあ、あの人。五十里にだけしつこいよな」
「でも、大人しいし。注文もしてくれるから追い出せないよね」
バイト仲間たちから見れば、大酒飲んで暴れる訳でもないし絡んで話し相手を強制することもないその男は、ただ俺に興味があるだけの、無害な存在で。
「ま、俺が盾になりゃ済むだろ」
気楽な感じを作ってそう返しながら、この間そいつに帰りを待ち伏せされたなんてことは、言えなかった。
「二人で飲みませんか」
細長い瞳に光がなくて、表情のわからない顔と声は店に居る時より数段低くて、歩道に出るのを防ぐように前へ立ち塞がった男に、鳥肌が立った。
いつも自転車を止めている路地裏で、そんなことまで知られていたと後で思い返して、怖くなった。
「…………今から用事があるんで」
向こうの歩道には人が通っているから、手出しされないことだけが、多分、救いだった。
そうですか、と首を傾けた男はしばらく自分を見つめてから「それじゃ」とそのまま去っていって、次の週にはまた開店からやってきて、同じ席へ座った。
「……」
「食事にでも行きませんか」
二人で。
注文を口にしてからついでのように続いた言葉を、無視した。
それからは、なるべく男へ近付かないようにして、テーブルから離れて立つと注文を取る時もそれ以外の会話をやめた。
「諒。大丈夫なのか、あの人は」
バイト仲間から状況を聞いていた大将が心配してくれたけど、「どうってことはねえよ。変わった奴ってだけだ」と答えて、帰る時間をずらしたり自転車を停める場所を変えたりして、自力で何とかしてきた。
自衛することだけに、徹したのは。
俺に問題が起これば親父と母さんが悲しむから、そんな事態だけは絶対に避けたかった。
「今日は来る?」
スマートフォンの画面へ表示されたメッセージに、ふっと口元が緩んで、タップするとトーク画面を開いた。
「行けたら行く」
素早く打ち込んで送信のボタンに指を置くと、すぐに既読の文字がついて
「じゃあ来なくていい」
と流れた文章に、「はっ」と笑い声が出た。
「え、係長?」
向こうのデスクで日報を入力していた柏木が、驚いたようにこちらを見る。
「ど、どうかしたんですか」
「……いや、何でもない」
咳払いをして背筋を伸ばすと、「空けておいてくれ」とだけ送信してアプリを閉じた。
何を指すかは、諒には通じる。
金曜日、時間は十七時で、定時で退社するつもりだった。
「係長、来週は月曜日が会議でしたね」
送りましたと続けながら柏木の声がして、頷いてから片付いたデスクへスマートフォンを置く。
「だから今日は決済を急がれたんですね。間に合わないから。さすがです」
「……」
納得したように首を縦に振る柏木へ、大学生のアルバイトが居る居酒屋へ行くためだとは、口が裂けても言えない。
「……今日は他の皆は直帰だから、お前もすぐに帰るんだぞ」
「はい。彼女とデートなんです」
浮かれた声が返ってきて、視線を向けた。
「そうか」
「遅れたら怒るんですよね、彼女が。こんな仕事だからいろいろあるのは理解してくれてるけど、やっぱり待たせるのは良くないよなって」
照れたように首をかく顔が嬉しそうで、プライベートを打ち明けてくれる率直さにふと自分も力が抜けて、
「そうだな。待ってくれる人がいるっていうのは、当たり前じゃないからな」
静かに返したら、いつもの前掛け姿が胸をよぎった。
「はい。……って、え、係長もいるんですか、そういう人」
――あんたに誘われるのが嫌だった訳じゃなくて、ちょっと、そういうのに敏感だったから。
――そんなことがあるなら、当然だ。俺もうかつだった。客なのに困らせたな。
「彼女はいないがな。――――ただ、向けてもらえる気持ちに胡座をかいていると、呆気なく失うんだ」
「……」
「信用はそう簡単には戻らないからな」
――別に困ってねえよ。行こうぜ、飯。あんたが大丈夫なら。
――いいのか、それは。今頃訊いて悪いが。
「……営業も同じですよね」
「そうだな。だから、話をする機会を損なうなと、いつも自分に言っている」
「はい」
――あ、俺が店員だからってこと? そんなの、誰が気にするんだよ。大将なら何も言わねえよ、相手はあんただし。
――その信用は嬉しいがな。そんなことがあるなら余計に、客から手を出されたなんて、後で問題になったらお前が嫌な思いをするだろう。
――手を出すって何だよ、ガキじゃねえんだからさ。自分で決めるだろ、誰と過ごすかなんて。
「係長が好きになる人って、かなり絞られそうですよね。でも、彼女が出来たらすごく大事にされるんだろうなあ、係長なら」
――真木さんならいいよ、俺は。
「……手を出す奴がいたら、刑務所に放り込むだろうな」
「は?」
目を開いた柏木へ何でもないと笑って、先週の土曜日、気晴らしがしたくてあのカフェを選んだ自分を、褒めてやりたいとまた浮かぶ。
……本当は、居酒屋の店舗からそう遠くないのを知っていて、気配を無意識に探していたのかも、しれないけれど。
「……」
諒。
あの日、聞かされた事情をそのままにするつもりはない。
少しも鎮まらない怒りで、もう一度拳を握った。




