5.混乱
混乱は、次の週に起こった。
金曜日、定時で退社して店へ向かったら、笑顔で迎えてくれた諒に内心で安堵の息を吐いた。
「生中と、枝豆」
こちらが言う前にさっさと書き込むのを笑って、
「真木さん、今日はアジフライが出来るって、大将が」
ジョッキを運んでくれた諒の言葉に、「じゃあそれを一つ」と頷くのも、いつもの流れで。
席へ着く前、厨房に立つ大将へ声を掛けたら、「いつも来てくれてありがとうな」と野太い声で挨拶をされて、先週の失態を詫びたら大したことじゃねえよと気さくな様子で手を振ってくれた。
武蔵という店名はこの人の名前かもしれないなと、恰幅のいい躯体と人懐っこい笑顔を見ながら浮かんだ。
曇り空の今日は蒸し暑くて、また混むかもなと思いながら席を確保出来たことに安心していたのに。
「先週食べた雑炊が美味かった。今日も頼む」
「あ、よかった。じゃあ大将に伝えとくから、欲しくなったら言ってくれよ」
真木さん、と呼んでくれる諒は機嫌が良くて、この一週間胸で抱え続けた高揚がようやく落ち着くのを感じて、
「あの時も言ったが、お前に礼がしたい」
「しつこいな。いいって言ったじゃねえか。忘れ物を届けただけだろ」
皿を並べながら諒が呆れたように返すのを、「一番高い酒を飲むんじゃなかったのか」と笑った。
「それ、売上に貢献したって恩を着せるんだろ、今度は」
横目で見てくる諒に可愛いと思いかけるのをどうにか逸らしながら、
「それが嫌なら、飯でも食べに行くか」
と軽い調子で返したのは、そのほうが諒は気楽かと、ただの思い付きだった。
「……」
それを言おうとして諒の顔を見たら、わずかに眉を寄せて頬に力が入っているのが分かって、言葉を呑み込んだ。
「……えっと」
「どうした」
何に引っ掛かったのかと首を傾げて、次の瞬間に客の立場を超えた提案をした自分へ気が付いて、
「あ、いや、お前が嫌なら無理には」
慌てて言いかけるのを、
「そういうことは、しねえんだ。客とは」
低い声が落ちて、瞳に流れた昏い光を見逃せなくて、口を閉じた。
「……」
そのままふいと顔を逸らした諒が、「気持ちだけ受け取っとく」と続けて離れていくのを、黙って見送った。
…………調子に、乗ったのか。俺は。
つきんと胸を刺す痛みでジョッキに手を伸ばして、客と店員という隔たりを今頃実感して、喉に流し込んだ苦い波が、じくりと胃を侵す。
この程度なら大丈夫だろうとどこかで思っていたのは、甘えだった。
それからも諒は来てくれたけれど、生まれた緊張が抜けていないのが離れて立つ様子でどうしても伝わって、触れてはいけない線を守っている諒を傷つけたのだと、目を合わせるのを今日は自分が避けていた。
「……悪かったな」
せっかく、名前を呼んでくれるようになったのに。
「真木さん、そろそろ雑炊持ってきてもいいか」
通りがけに尋ねる諒へ黙って頷いて、重ねるばかりの杯に酔いが回ってきて、届いたそれを食べると諒が休憩に入ったのを見届けて、席を立った。
「いつでも来てくれよ」
会計の時、奥から大将の明るい声が飛んできて、それには笑顔を返せたけれど、「またな」と諒に送られない店を後にしたら一気に酔いと痛みが胸を占めて、マンションの部屋へ帰るとソファに座り込んだ。
諒より年上で社会人の自分が迂闊なことをしたと、失態を認めるのは、勇気が要るけれど。
「――――でも」
ただ、違和感は、ずっとあった。
あの一言で、そこまで拒否するのか。
――遅かったじゃねえか。残業かよ。
俺が早く来ないことを…………拗ねるような、お前が。
「諒」
黒い染みに交じる違和感は、尋ねたらもっと自分を遠ざける可能性のほうが高くて、どうやって傷を埋めればいいのかと綾人は考え込む。




