19.抱えていたもの
「大学にさ、バイトの掲示板みたいなのがあって。そこに募集が貼られてたんだ」
「そうか。見る目があったな、あそこで正解だ」
空に流れる黒い雲が見えて、雨の気配を感じた。
「何であんたが言うんだよ、それを。見る目があるなんてその時は分かんねえだろ」
ふふっと笑ってから、諒がこちらを見る。
「続けられる場所は、貴重なんだ。大将が褒めてたぞ、遅刻もしないし覚えがいいと」
「そんなの、真面目にやってりゃ当たり前だろ」
肩をすくめてそう返してから、
「社会勉強だからさ、バイトは。自分で稼げるようになるって、大事だろ」
続けた言葉に、力が入っていた。
「……まあ、その通りだが」
これは大将にも同じことを言ってたよなと思い出して、
「諒は、ご両親は健在なのか。居酒屋でバイトをしているのは、知っているんだよな」
何気なく尋ねたら返事がなくて、隣を見たら、視線を前に戻してきゅっと唇を閉じていた。
「……」
青い瞳に翳りが走って、訊いてはまずかったかと眉を潜めた時、
「……ま、いいか。あんたなら」
小さく呟くのが聞こえて、こちらへ顔を向けると
「養子なんだよ、俺」
ぽつんと落ちた言葉に、心に走る冷たい筋を感じた。
「……そうか」
足が止まって、気が付けば遊歩道をだいぶ進んで、端が見えていることに気が付く。
「あ、やめろよ、可哀想だなとか大変だなとか。そういうのじゃねえから、全然」
同じように立ち止まった諒の顔は、今はおそらく緊張で頬が強張っていた。
「……」
流れる静寂の中に、ざあと波の音が交じる。
「小学生の時にさ、事故で。……家族みんないなくなってさ、俺だけ生き残っちまって」
言いながら、何かを映すのをやめた瞳が、ただ自分を捉えていた。
「親戚の人がもらってくれたんだよ。でも、いきなり一人になってどう生きればいいのか解らなくなって、ちょっと、荒れてさ。……高校の頃とか、他の学校の奴らと喧嘩ばっかりして、俺」
焦点を失っているのは、取り返せない過去を見ているのかと、思った。
「それでも、親父も母さんも、側にいてくれたんだ。俺たちの子だって、警察でもずっと言ってくれてさ。見放されないんだって分かったらやっと、まともに生きようと思えるようになって」
「……」
「滅茶苦茶勉強したんだぜ、俺。学校が終わったら図書館で閉館まで勉強して。集中力が高いって先生が褒めてくれてさ、親も応援してくれるから、頑張ったんだ。……それで、大学まで行かせてもらってるから、今」
諒。
「だから、仕送りだけに頼るんじゃなくて、出来ることは自分で何とかしようって」
――バイト代貯めてさ、一発合格。
「……」
「心配かけたくねえじゃん、大事にしてもらってるのに」
そう続けて、にっと頬を上げる、強気な表情が。
「……」
裡に抑えた脆さを伝えるようで、どうにもならない現実を生き抜いた淋しさを突き付けるようで、胸が詰まって、次に新しい熱が膨らんだ。
「あ、武蔵さんは知らないからな、言うなよ。こんなの他人には関係ないんだからな」
「諒」
無理に言葉を続けるのを呼んだら、びくっと肩を上げた。
――ちょっと、過去にいろいろあったようでな、あいつは。
「お前のプライバシーを、勝手に話すことなんて、しない」
静かに言ったら、口を噤んで自分を見つめる瞳が、揺れた。
「……打ち明けてくれて、感謝する」
諒。
「……」
そびやかした肩も、突っ張ったままの足も、逸らすことが出来ずにいる、瞳も。
「人には事情と背景がある。…………だからお前は、あの男のことも、言えなかったんだな」
生きてくれてありがとうと、それだけが。
「……」
いま目の前に居てくれることが、俺は。
俺は。
「よく頑張ったな」
諒。
小さく続けたら、こちらを見る顔が歪んで、寄った眉も細くなった瞳も、攣った頬も、切れた糸を伝えた。
「真木……」
外でないなら、とっくに抱き締めていた。
「一人では、生きていけないんだ」
人は。
深く鳴る心臓の音に息を吐いたら、握った拳が見えた。
「……そう、かもな」
衝動を堪えて霞んだ声が、揺れて、震える瞳から光が零れそうで、一歩足を出した。
「だから」
ごろごろと空で聞こえて、ぽつんと雫が頬に落ちる。
「全部を一人で抱える必要なんて、ないんだ」
そう言った時、ざあと降り出した雨で、諒の涙が隠れた。
「うわ」
叩きつける雫に体を捻る諒の手を掴んで、「あそこへ」と通り過ぎた東屋を振り返る。
「いきなり来たな」
「ゲリラ豪雨かよ」
言い合いながら、絡んだ指先を握り込んだら、同じ力が返ってくる。
「真木さん」
「走れ」
熱くて力強い、思いが。
きっと今だけは、同じ色の。
「うわ、濡れた」
屋根の下へ駆け込んで、つないだ手を離せなくて、濡れたままなのをぎゅうと諒がくっつける。
「……」
睫毛が雫を弾いて、気付いたようにぱっと解かれる指を、追いかけたかった。
「通り雨っぽいな。すぐに止みそうだが」
大きな音を立てる外に顔を向けて、ハンカチを差し出した。
「ほら」
「いいよ、真木さんが使えよ」
あんたも濡れてる、と首を振るのを「風邪をひくだろう」と言って、頬の雫を拭った。
「……」
それを避けずに、じいとこちらを見る顔が、さっきとは変わっていた。
「ありがとな」
真木さん。
今はまっすぐに届く声を、ああと頷く。
「拭いておけ」
ハンカチを頭に載せたら、笑ってくれるから。
「……海にいる人たち、どうしてんのかな」
「降る前に波から上がるんじゃないか。慣れてるだろうしな」
言いながら二人でベンチへ腰を下ろして、水蒸気の上がる波を見た。
肩の雫を拭う諒の腕が当たるのを、このままでいいと思いながら。
「夜は、どうするんだ」
ふと言葉が落ちて、諒がこちらへ視線を向けた。
「へ?」
向けられたハンカチを受け取って、自分も腕に当てながら
「街へ行くんだろう。友達と飲むんじゃなかったのか」
静かに続けたら、ぐっと息を詰めた諒が
「……えっと、今日は、あれ、合コンで」
小さな声で言ってから、ふいと顔を逸らす。
「そうか」
それだろうと思った。
「行くって言っていたもんな」
笑いながらこめかみの雫を押さえたら、
「別に、飯食うだけだって言っただろ。だから」
視線を寄越さず拗ねたような口調で言うのを
「行かなければいいだろう」
本音がそのまま落ちて、「は?」と勢いよくこちらへ体が向いて、
「それか、どうしても行きたいなら俺が送迎するが」
どうする、と諒の顔を見た。
「……」
付き合い、もあるからな。学生でも。大事な。
「……何で、あんたが決めるんだよ」
目を丸くしていたのが、ぱちんと瞬きをしてから頬が赤くなる。
「自転車しかないのに、降ったらどうするんだ。濡れたままで人に会うつもりか」
「……」
強い音を上げていた雨粒の勢いが、少しずつ弱くなる。
「こういう時は素直に甘えろ」
……そうしてもいいんだ、俺には。
畳んだハンカチをポケットへ仕舞いながら言うと、
「じゃあ、送ってくれよ」
低い声が聞こえて、隣を見た。
「いいぞ」
「今日は、男が足りねえからって、人数合わせで呼ばれてんだよ。……別に、出会いが欲しいとか、俺はねえし」
赤い顔でぶつぶつと言うのを
「言い訳か。男らしくないぞ」
おかしくなってふふっと笑ったら
「なんだよ、俺に彼女ができたほうがいいのかよ、あんたは」
むきになって言い返してから、言葉の意図に気が付いてまた目を開く。
「あ」
「それは」
庇の下に流れ込む、白い霧が見えた。
「……あるのか、お前には。そんな可能性が」
静かに返したら、
「……ねえよ」
ぼそっと呟いた諒の耳朶まで赤い顔が、可愛らしかった。




