15.心の内側にあるもの
腕時計を見たら二一時を少し過ぎていて、何度目かの舌打ちを綾人は止めなかった。
「……急がないと」
諒。
——また来た。
ラインのメッセージに気付いたのはトイレに立った時で、それがどんな状況を指すかこれだけでは分からなくて、頬に血がのぼった。
華金の街はいつものように混んでいて、人の間をすり抜けるように早足で歩道を進みながら、じくじくと痛む胸で諒に話しかける。
……もうすぐ着くからな。待ってろ。
返信を送る時間すらもったいなくて、メッセージを読んですぐ座敷へ戻ったら部下から緊急の連絡が入ったと嘘をついて、一人で料亭を出た。
「そうか。金曜の夜まで大変だな。真木係長、頼んだぞ」
神妙な顔を作る課長を睨みつけたいのを抑えて、やっぱり断ればよかったと思う自分のほうを、殴りたかった。
――新しい取引先の営業課長さんに紹介しておきたいんだ。いずれは部長の席も見えている君だからな、こういうのは早めがいい。一席設けたから、今夜は付き合え。
夕方、部署へ現れた課長からそう言われた時は一瞬で観念したものの、店は平和だろうと、どこかで楽観視する気持ちがあった。
あの月曜日、大将と話をして、事実を知ってすぐに対策を考えてくれることに感謝して、諒を護れると、思っていた。
「……クソが」
心が歪んだ大人の一方的な思慕に巻き込まれるなど、許しておけるはずがなくて。
あいつはまだ学生なんだ。社会を知らないんだ。
見通しの甘さから取り返しのつかないことになったら、俺は。大将は。
――――俺は。
「諒」
予約された料亭に移動してからはスマートフォンを見る余裕はなくて、「今から入る」と届いているのをプレビューで確認したのが最後だった。
既読がつかないのを見れば、仕事をしていると諒は想像するはずだった。社畜と思われているから、俺は。
――なるべく残業はしないと、言っただろう。
昨日の夜、車で呟いたことをみずから覆す俺に、諒はきっと、落胆する。
社会人には社会人の事情がある。それはいずれ、諒も実感することになると、分かっていても。
「諒」
側に居たいんだ。
俺は。
「いらっしゃい」
店の庇が見えて、足を緩めると呼吸を整えてから引き戸を開けたら、いつもと変わらない大将の声が飛んできた。
「お」
入口前のレジに諒が立っていて、自分を見てぱあと表情が明るくなるのが分かって、胸で別の光が弾ける。
「……諒」
「お疲れ。いま終わったのかよ」
一瞬で目を走らせる店内に男の姿はなくて、テーブルに座っている客たちの様子は普段と同じ賑やかさで、
「無事か」
思わず言葉が落ちるのを、諒がぱちんと瞬きを返した。
「……おう」
すぐに意味を理解したように小声で返してから、「座るだろ」と背中を向けるのを、後ろに続く。
「遅かったな。すぐ作れるぜ」
厨房から大将の明るい声が流れて、それを聞いたらやっと安堵が湧いて、「助かる」と笑顔で返していた。
カウンターの奥の席は、今夜も空いたままだった。
「……」
椅子を引いて腰を下ろしたら、「いつものでいいか」と、斜め後ろに立つ諒が尋ねる。
「そうだな。頼む」
こちらを見る表情は、もう、先週とは違っている気がした。
「汗かいてるじゃねえか」
おしぼり持ってくる、と続けるのを
「遅くなって悪かった。大丈夫なんだな」
確認したくて遮ったら、目を開いてから唇を結んで、無言で頷いた。
「そうか」
よかった。
何も起こらなくて。
「……今日もすぐに帰った。全部、大将がやってくれて」
俺が居ない時に、もし、お前に何かあれば。
手を出す奴がいれば。
「叩きのめしてやろうか」
冷たい声が出て、底に沈む凄んだ響きを止められなくて、諒の体が揺れた。
「……」
「あ、いや」
心臓の鼓動が少しずつ落ち着いて、我に返って瞬きをしたら
「……あんたが捕まるほうが、嫌だろ」
静かな調子で言葉が流れて、見つめる諒の、青い瞳がまっすぐに自分を捉えた。
「……」
「やるなら二人で畳んじまおうぜ」
そう続けてから、にっと上げる頬と、ふてぶてしい声が。
「それがいいな」
胸で熱を膨らませて、
「お前が無事で、よかった」
躊躇わず落ちた本音に、諒が笑顔で頷いた。
「忙しかったんだな、今日は。真木さん」
「ちょっと、野暮用でな。終わらせてきた」
やっと肩から力が抜けて、ふうと息を吐きながらネクタイを緩めたら
「……首の後ろ、汗がすごい」
呟いた諒が身を屈めて、目の前に差し出された青いハンカチは昨日渡したもので、
「何とか乾いたから持ってきたんだけど。って、これで拭いたらまた汚れるか」
耳元に届く小さな声と、かかる息が、熱かった。
「……」
黙って受け取ってから、胸にじわりと滲む、波が。
「ビール持ってくる」
昨日、自分の部屋で体を倒した諒を、呼び戻した。
「……ああ」
食べ終わってから、自分の隣へ移動した諒はテレビを見ながらずっと機嫌が良かったけれど、ふと静かになったことに気付いて隣を見たら、うとうとと瞼が下がっている姿に心がとんと揺れた。
そのままゆっくりと体が傾いて、肩へもたれかかるのを、自動的に上がった腕で反対側の肩を抱えることに、違和感はなかった。
「大将、お造り一つ」
――真木さん。
甘えた声の囁きが流れて、脱力する体は今とは違う匂いで自分を包んで、愛おしさでずきずきと痛む胸で、抱き締めたいのを堪えていた。
触れてしまえば、次も求めてしまうはずの、熱が。
「はい。あれだ、駆け付け一杯ってやつ?」
自分も諒も男だとか、客とバイトだとか、社会人と学生だとか、二人にくっついている余計なものを、消し去った。
「一人でやるのか」
指を掛けた取っ手が冷たくて心地よくて、「見ていてやるよ」とすぐそこで笑う諒がいて、それは決して当たり前ではなくて。
二人で築いてきた何かが、心の内側には確かにあって。
懸念は、完全に消えた訳ではないけれど。
「喉が乾いていたんだ」
今ここに座っていられる幸運を、まるで安っぽいテレビドラマのような展開を、これでいいと喉へ流し込む。




