16.誰にでもやることかい
「じゃあ、帰るからな」
二三時を過ぎて大将から目配せされて、横へ立って小声で言ったら、驚いたように目を開いた綾人が自分を見た。
「もう上がるのか」
「うん。大将がさ、今日は早く帰れって」
人が減るタイミングの今は、テーブル席の注文は落ち着いていた。
「……そうだな」
その意図を素早く理解して頷くから、やっぱり賢いんだなと、綾人の少し赤くなった首筋を、諒は見ていた。
……昨日、肩へ倒れて、インディゴのコットンから耳に届く心臓の音が大きく聞こえたけれど、気付かないふりをしてもたれていた。
「真木さんも、気を付けてな」
「ああ」
甘えたくて。
受け入れてもらえると、知りたくて。
ここを離れても。店員じゃなくなっても。
「自転車は今日も駅前か。送ろう」
恋人じゃ、なくても。
「まだ人が多いし、一人で大丈夫だろ。……ガキじゃねえんだからさ」
反対の肩を抱いてくれた腕の力強さと、手の熱が、まだ残っていた。
「……」
座ってろよ、と続けるのを、眉をひそめてしばらく黙ってから、
「心配だな。やっぱり駅まで」
低い声で綾人が言いかけるのを、「今は客だろ、ゆっくりしてくれよ」と返したら、口を噤んだ。
「……」
今は。あんたは客だから。
汗をかくくらい急いで来てくれたと、知っているから。
「駅に着いたらラインする」
気にしてくれるのは、嬉しいけど。
「……分かった」
大人のあんたを煩わせるのは、嫌なんだ。
「飲み過ぎるなよ」
もっと。
本当は。
「分かってる」
一緒に居たい。
店を出た十分後、諒から「自転車も無事だった」とラインでメッセージが届いて、ほっとしながら「まっすぐ帰るんだぞ」と送った。
会計を済ませて一緒に駅まで行きたかったけれど、自分を見つめる諒に気遣うような雰囲気があったから、座っていろと言うのを素直に受け入れた。
大将とこれからについて話しておきたい気持ちもあって、諒が帰ってからフロアに出てきた大将もそれは同じだったようで、ビールを奢られながら対策について考えた。
まだ諦めていない男を知れば出禁はやはり悪手かもしれないと二人とも浮かぶのは、今の状態でも男にとっては極端に傾いた現実のはずで、追い詰めると何をするか想像出来ないことが、打てる手を制限させていた。
「ストーカー、なんだよな、あれも」
隣へ座って、丁寧語をやめた大将が大きくグラスを傾けて、
「そうだな。客の立場を利用して諒だけをターゲットにしているからな。……その上で待ち伏せなんて、異常だろう」
苦い思いで自分もグラスを掴んだ。
厨房を離れていいのかと尋ねたら、「弟子がやれるから大丈夫だ」とあっさり答える顔に、信頼が浮かんでいた。
「あんたが教えてくれなかったら、諒の奴は一人で抱え続けたんだろうな。あいつは、ああ見えて繊細なところがあるから」
肩を落とした大将が呟くのを、顔を見たら
「ちょっと、過去にいろいろあったようでな、あいつは。店の皆で忘年会を開いた時に酔った勢いで言うのを聞いただけだが、ここでバイトするのも社会勉強なんだと」
「……」
「遅刻はしないし覚えもいいし、まあ、たまに客とやり合う時もあるがな、いつも明るくて元気だからここでは大事にされてるんだ、あいつは」
「……そうだな」
俺の知らない、諒の過去がある。
誰だって、事情と背景を抱えて生きているのは、当たり前で。
――そういうの、社会人になっても変わんねえのかな。
「でも、だからかもな、人に上手に頼ることを、知らないというか」
もう一度グラスを口に運んでから、
「何であんたなんだろうなって、思ったんだが……あいつの信用に足る人間なのは、俺も分かったからな」
こちらを見る顔が、優しい表情を浮かべていた。
「……」
「今日も、急いで来てくれたんだろ、真木さん。諒から連絡がいったんだよな。凄い顔で入ってきたからすぐ分かったぞ」
「……悪い」
「謝ることじゃねえよ、変な言い方してこっちこそすまねえな。そうじゃなくて――――あいつのために、動ける人間なんだよな、あんたは」
――忙しかったんだな、今日は。真木さん。
「動けている自信はないがな」
泡が消えつつあるグラスを見つめながら呟いたら、
「あの日の最初に、俺に名刺をくれたよな。身元を隠す気がないからだろ。常連でも、名前も知らねえ奴のほうが多いんだぜ、ここは。自分について先に情報を出すのは、俺に信用して欲しいからだろ」
見慣れた客の一人がおやすみと言いながら横を通って、大将が笑顔を返す。
「そこまでするかよ、大学生のアルバイトだぜ、相手は。平日の夜に時間を使ってな、わざわざ」
「悠長に構えていられる状況じゃないからな。当たり前だ」
仕事の世界以外で分析されることなど滅多にないから、尻の据わりが悪くてグラスを掴むと一気に喉へ流し込む。
「だからさ」
そんな自分を笑いながら、大将が瓶の口を向ける。
「自分の時間も、気持ちも、諒に差し出せるんだろ、あんたは。立派な社会人が」
それは、誰にでもやることかい。
「……」
とくとくとグラスに流れ込む黄金色の波が、綺麗だった。
注文が入って、おうと大きく返す若い声が聞こえた。




