14.次の異変
開店してすぐ、引き戸を開けて現れた男は、まっすぐに奥の席へ歩いてすとんと腰を下ろした。
「……」
いつもなら、店内を見回してまず自分を確認するのを、今日は一瞥もくれずにメニュー表を手に取るのが、不気味だった。
「諒」
それでも、いらっしゃいと普段通りの声を掛けた大将が小声で自分を呼んで、厨房へ入ると
「また来たな。呼ばれても行くんじゃないぞ、いいな」
眉を寄せた顔で言われて、黙って頷いた。
……諦めてねえのかよ。
いつも一緒に入るバイトの女子が、「五十里くん、あれ」と背中を向けて呟いて、
「大将から聞いただろ。近付くんじゃねえぞ」
短く返して、他の客の注文取りと配膳に集中した。
これまでは無害な客だったのが、大将から要注意人物のお達しが出たことで、フロアは少しだけ緊張が敷かれていた。
暴れたり大声を出したりすることがないからこそ、今まで黙認出来たその存在は、今は正しく邪魔者だった。
大将が正面きって動くことなど、滅多にないから。
「なんだよ、大変なことになってたんなら、言えよ」
調理兼皿洗いを担当する二五歳の奴が着替えながら小突くのを、悪かったなと答えたのは先週で、
「大将が出るなんてよっぽどだぜ。忙しいんだから煩わせるなよ」
舌打ちと一緒に出た言葉は、自分ではなく男を指していた。
「また来た」
綾人には伝えておいたほうがいいと、レジカウンターの隅っこで素早くラインを起動した。
昨日言われた通りに、店へ着いたら「今から入る」と一言だけ送っていた。
「すみません」
男の声がして、皿を運んでいた自分の代わりに女子が厨房へ体を向けて、出てきた大将が男の対応をするのを、他の客たちが珍しそうに見ていた。
「……」
普通じゃねえんだ、こんなのは。
男のことは俺の個人的な事情であって、どうして大将や客が巻き込まれてるんだと、自衛しか思い付かなかったのを、今になって諒は後悔する。
――大将に話すべきだな。お前一人でどうにかするのは無理だ。
ジョッキを運びながら綾人の声が蘇って、あの人に打ち明けてよかったと、前向きに変わった事態を喜んでいたのに。
「諒、三番テーブルさんだ」
大将の威勢のいい声が変わらないことが、店の平穏を保っていた。
「おい坊主、今日はえらい静かじゃねえか」
早くから来る常連の一人がいつものように焼酎のグラスを向けて、不思議そうな表情をするのを見て我に返った。
「大学がさ、忙しくて」
疲れてんだと頭をかいて、しっかりしなくちゃ駄目だと気合を入れ直して、笑顔を作る。
……俺の、ことだから。
そう思っていたら、幾つかの皿を平らげた男が立ち上がって、レジに向かうのを大将が会計をして、出ていった。滞在は一時間半くらいで、いつもより早かった。
終始静かな様子は、何を考えているのか外から窺い知れなくて、注意深く言葉を選ぶ大将の声も警戒していた。
「帰ったな」
「何なの、一体」
厨房で皿を洗っていた奴と女子が言い合って、「いつまで来るのかしら」と呟くのを「そのうち厭きるだろ」と返したのは、そうなってくれという願望で。
座っている間、男が自分の姿を視界に入れ続けているのは、届く気配で気付いていた。
……しつこいにも、程があるだろ。
男が消えていつもの喧騒を取り戻した店内で、綾人が現れるのを、待っていた。
「今日は遅いね、あの人」
空けたままのカウンターの奥に首を傾けた女子が言って、ふと壁を見たら時計は二〇時を指していた。
「社畜だからな。残業だろ」
「何それ、そんな言い方しちゃ駄目よ」
……まだ終わらねえのかよ。
ちくりと胸でつまずく痛みは、会いたいと思うからで。
「……」
休憩の時間になって、ラインのトーク画面を開いたら既読がついていないから、やっぱり仕事かよと肩が落ちる。
「諒、今日は十一時までだからな」
大将が休憩と更衣室を兼ねた小部屋へ顔を出して、「いいのかよ」と返したら
「今日はあいつが残ってくれるから、お前は早めに帰れ。自転車は駅前に駐めたんだよな?」
こちらの顔色を確認するように言うから、黙って頷いた。
人が多い時間に離れるほうが、安全かもしれなかった。
「今日は、来ないかもな」
真木さん。
大将が出してくれた賄いを食べながらどうしても意識はそこに向いて、鳴らないスマートフォンを見つめてばかりいた。
……あの人は社会人で、どこかの会社の、営業で。
俺みたいに、自由な時間が多い訳じゃなくて。自分の都合で何でも進むってことも、仕事ならあり得ないのは、バイトをしているから少しは理解出来て。
――なるべく残業はしないと、言っただろう。
「……」
でも、毎週必ず、来てくれるのは。
そう出来るようにしているのかと、初めて考えた。
――遅かったじゃねえか。残業かよ。
…………真木さん。
「ライン、してもいいよな……」
昨日の夜、送ってくれた綾人を振り切るように車を降りてからメッセージは来なくて、どうしてこんなに淋しくなるのか、拗ねたままの自分を心の隅に押し込める。
「よし」
頷いて、両頬を叩いてからフロアへ戻った。




