10.雨
来たら来たで夏は暑いから嫌だけど、と友人たちと話したのは一昨日のことで、今はざあざあと大きな音を立てて雫が降り注ぐのを、諒は講義室の窓から見ていた。
「傘持ってきて正解だったな」
「いいな、俺は忘れた。バイクで来ちまったのに、どうしよう」
隣の一人がため息をつくのを、テキストをバッグに突っ込みながら「俺もねえよ」と呟いた。
「五十里、今日はバイトは?」
もう一人から質問が飛んできて、
「休み。入るのは水曜と金曜と、隔週で土曜」
前も言っただろ、と続けたら「平日は図書館とか行ってるもんな、いつも何かあるイメージ」と肩をすくめられた。
「お前らも少しは本でも読め」
「うわ、五十里の口から怖い言葉が出たぞ」
情報科学科は男ばかりで、付き合う連中が自分と似たようなタイプになるのが難点ではあるけれど、気楽に過ごせるのを諒は気に入っていた。
講義室に残っているのは他にも傘のない奴なのか、同じように窓の外を見ているのを、自転車で来ている自分はどうやって帰るかと首を傾けた。
貸してくれる奴なんて、いそうにねえな。
「どうする、食堂でも行く?」
「待ってどうにかなるのかよ、これ」
最後の講義が終わるまでには上がるかななんて言っていたのが、夕方に向けて雨の勢いは増している気がした。
「俺は図書館に行く。夜には止むだろ」
リュックを持ち上げながら言ったら、「なんだよ、また勉強か」と一人が笑って、
「違えよ、『スクリーン』の今月号が読みたいんだ」
「あ、雑誌か。そういえば置いてたな」
「そんなことも知らねえのか、三回生だぞ」
呆れた声で返してから、じゃあなと輪を離れた。
「五十里、インターン先が決まった教えろよ」
一人の声が追い掛けてくるのをおうと答えて、講義室を出る。
木曜日、十六時。
アルバイトのない平日は、アパートへすぐ帰る気になれなくて、よく図書館へ足を向けていた。
部屋だとどうしても気が散るから、講義の復習をしたい時の習慣だった。
「……高校時代の癖が抜けねえんだよな」
まだ学生が多く行き交う廊下を歩きながら、入学試験を合格するために気張っていた過去を思い出す。
魂を入れ直したあの頃の自分は、父親と母親を安心させたい一心で、ひたすらに参考書を解いていた。
その時の集中力が、今もいろんな場面で自分を助けてくれるから、この生き方でいいんだと思った。
「……」
バイト先で、注文の取り方からレジの操作まですぐに覚えたのも。
綾人の注文の順番や料理の好みを知って、皿の提案をするタイミングも。
人の役に立てるのは何も表舞台だけじゃなくて、システムエンジニアを目指すのも、見えないところで誰かを支える仕事が出来ればと、単純に思ったからだった。
――気にするな。仕事に専念しろ。
あんな風に人から言われたのは、初めてだった。
まるで、部下を守る上司のようだと浮かぶのは、やっぱりインターンシップのことが頭にあるからかもしれなくて。
「会社でもあんな感じなんだろうな」
今日は何やってんだろ、真木さん。
土砂降りの外は車の運転も大変なんじゃねえかなと、営業とだけ教えてくれた綾人の今が、気になった。
図書館に入ると普段より学生の姿があって、皆考えることは同じかと思いながら目当ての雑誌を取ると、一席に座った。
……後でラインするくらいは、いいよな。
短いやり取りしかしたことはないけれど、送れば必ず返事をくれるから、本当は何でも話したかった。
でも、いざ送ろうとして気が付くのは、店を離れたら今度は自分の立場が解らないことで。
大学のことなんかあんたは聞かされても退屈だよなと思って、結局は「ちゃんと寝ろよ」とか無難なことしか書けなかった。
「友達、でいいんだよな。いや、知り合いって感じか、まだ」
学生と社会人で、年の差もあって。
――お前こそ、ちゃんと飯を食って休めよ。
ページをめくりながら、店で話す時と変わらない調子で返ってくる言葉を思い出して、どんなつもりで返事をくれるのかなと、どうしても考える。
――黙って出てしまって、悪かったな。
テーブルに忘れられたスマートフォンを見付けた夜、それを掴んで飛び出した自分は、綾人との間に生まれる距離が、怖かった。
何とかして存在をねじ込みたいと、もっと近付きたいと、心を突き動かした衝動は、綾人の言葉であっさりと落ち着いた。
あの人が、俺の気持ちを気にしていたと、分かったから。俺が気にしたように。
「……」
好きな俳優の特集が読みたかったはずなのに、胸に浮かぶのは綾人の笑顔で、文章を目で追えない。
……会いてえな。
話してくれるだけで、いいから。
静かな空間はやっぱり集中力が鍛えられるばかりで、一度掴んだ綾人の面影を追い続けて、ぼんやりと座っていたらいつの間にか窓の外は暗くなっていた。
「まだ止まないね」
「どうしよ、タクシー相乗りする?」
隣のテーブルへ座っていた女子二人からそんな会話が聞こえて、スマートフォンを見たら十八時を表示していた。
窓を見たらざあざあと変わらず降りしきる雨にため息をついて、腹が減ったし濡れて帰るかと、結局読み進められなかった雑誌を閉じた時。
ポケットへ戻したスマートフォンが振動して、もう一度出して画面に目をやると、綾人のアイコンが視界に飛び込んだ。
「へ?」
思わず声が出て、慌てて下を向いて画面を凝視したら、表示されているのは間違えるはずがない綾人のアイコンで、
「すごい雨だが、大丈夫か」
短い言葉が並んでいたから、心臓がどくんと跳ねた。
「……」
真木さん。
隣の二人組が席を立って、その音に揺れた指がメッセージに触れて、トーク画面が開かれる。
最後に送ったのは昨日の夜で、返ってきた「おやすみ」の言葉とスタンプを、今日も何度か見返した。
「……えっと」
こんなタイミングで綾人のほうからメッセージが来ることなんて、初めてで。
どくどくと鳴る鼓動で脳が上手く回らなくて、耳に入る雨音が余計に思考を邪魔して、
「まだ大学。自転車だから帰れなくて」
動いた指は、今の状況をそのまま綴った。
「……」
送信をタップするとすぐに既読の文字が浮かんで、真木さんも開いていると思ったら、胸の真ん中が熱くなる。
帰れないんだ。
雨だから。
真木さん。
思いが流れるのと同時に、画面が着信に切り替わる。
「……は」
真木綾人、と名前が表示されるのを、まじまじと見つめた。
――一応、番諒も教えておく。ラインだけじゃもしもの時が不安だ。
あの土曜日、アカウントを交換した時にそう言った綾人の顔が蘇った。
「……」
ここで話すのは駄目だとそこだけは正常な判断が出来て、着信の振動が続くスマートフォンを握りしめると、急いで外へ出る。
ざあ、と大きくなる雨音に、今は風のうねりが加わっていた。
入口からすぐの庇の下へ移動して、振動の途切れた画面が留守番電話へ接続されているのを確認して、通話のアイコンをスライドさせた。
「諒」
「真木さん」
声が重なって、びゅうと風が鳴って、
「外にいるのか」
すぐに続いた声は、少しだけ早口だった。
「うん」
真木さん。
「大学か。無事なんだな」
「うん」
今日はバイトはないって、知ってるよな。
「全然止みそうにないな、雨」
「うん」
帰れないんだ。
真木さん。
「……本当に大丈夫なのか」
諒。
低い声は、頷くだけの自分を心配しているのが伝わる。
「……」
会い……。
「うん。ちょうどさ、友達が来て傘貸してくれるって。今から帰る」
「……」
ばたばたと地面で跳ねる雫が視界に入る。
そうか、と呟くのが聞こえた。
「うん。真木さんはまだ仕事?」
「迎えに行くから、濡れないところで待ってろ」
声を遮って流れた言葉に、うずくまる痛みが揺れた。
「は?」
「この雨で傘なんて役に立たないだろう。俺は会社を出るところだ。大学まで三十分くらいだから、準備していろ」
落ち着いた声の後ろで、衣擦れのような音が聞こえた。
「……」
「諒?」
「い、いいのかよ。あんた……」
「濡れて帰って、風邪でもひいたらどうするんだ」
抑えた口調に、お疲れさまですと人の声が重なった。
「でも」
「我慢しろ。送るだけだ」
「……」
何を、我慢するんだよ。俺が。
突っ立ったままだから、靴の先が跳ね上がる飛沫で濡れていた。
「着いたら電話する」
いいな、と続いて、そのまま接続が切れた。
「……」
真木さん。
揺れ続ける心が、ちりちりと光を散らした。
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