9.変わっていく現実
そんなことがあった二日後の金曜日、綾人へメッセージを送ったら「行けたら行く」と半端な答えが返ってきて、「じゃあ来なくていい」と笑いながら送信した。
ラインのアカウントを交換したいと言ったのは自分で、それに躊躇せず頷いてスマートフォンを取り出した綾人は、
「店で何かあったらいつでも送ってこい」
と、静かな声で画面を操作していた。
「連絡用かよ」
俺は、離れている間もつながっていられる何かが、欲しくて。
「違うのか」
それを、首を傾げて尋ねる綾人が物足りなかった。
……男とラインなんかしても、つまんないよな。あんたは。
客と店員の立場を超えたのは、どちらが先だったのか。
なるべくしてこう成れたのだと、近付けたのが嬉しいのは自分だけかと思ったら何だか気落ちして、
「社畜だもんな、学生とラインなんか、する暇ないよな」
と、不貞腐れた声が出た。
「社畜か。お前から見ればそうかもな。……ラインは嫌いじゃない」
ふふっと笑った綾人が指を動かして、自分のスマートフォンから通知音が鳴った。
「会社の連中とも報告で使うからな」
「……」
画面には、何かで見たキャラクターのスタンプが表示されていた。
「似合わねえ」
「若い部下がプレゼントしてくれたんだ」
「若いって、あんたもそうだろ」
その時に綾人が二九歳だと知って、初めて目にしたカーキ色のシャツに白のテーパードパンツがよく似合っていて、テーブルを囲んで一緒に肩を揺らしている自分たちが、嬉しかった。
……話した事情を再び持ち出さないのも、おそらく気遣いだろうなと、思っていた。
そんな週末を過ぎて、新しい関係になれたのを確かめたくて、どうしても送ってしまう短いメッセージに、あんたはきちんと返事をくれたけど。
月曜日に店を訪れると、多分その時にはもう決めていたんじゃないのかと、諒は思う。
――あの人、月曜は俺の手が空くのをずっと待って、終電ぎりぎりまで話してくれたからな。
「……どうして、そこまでするんだよ。客のあんたが」
――そう思ってくれるなら、信用しろ。
俺の知らない、大人の世界があるのだとしても。
社会人のあんたは、まだ学生の俺のことをどう思っているんだと、ただ一方的に護られる存在になっている今の事実は、それを思い出すと少しだけ居心地が悪かった。
「諒」
十八時を過ぎて店に来た綾人は、引き戸から足を踏み入れて、自分を見付けると小さく名前を呼ぶのが聞こえて、心がぽんと跳ねた。
「なんだよ、今日は早かったんだな」
「金曜の残業はなるべく控えていると、言っただろう」
その顔が、今は前と少し違っていて、堂々としているように見えるのが不思議だった。
厨房の前を通る時、中にいた大将とちらりと目線を交わしたのを、見逃さなかった。
「先週と同じでいい?」
「ああ、頼む」
例の客は、今夜もいつもの席に座って、ドリンクを頼むために自分を呼ぶのを聞いた大将が、厨房から出てきた。
「注文は俺が聞きます。何にしましょう?」
まっすぐ歩いてくる様子に目を見開いていた男は、その一言で、多分悟ったのだと諒は思う。
男の視界から遮るように自分との間へ立った大将は、伸ばした背中から強い意思が伝わった。
俺の店で、勝手をするなと。
「……そうか」
皿を並べながら、小声で「あの人、一杯飲んですぐに帰ったぜ」と言ったら、目を合わせずに綾人が頷いた。
――そいつは、俺も気付いていたんだ。やけにお前にばかり声を掛けるなと思っていたんだが……そんなことをしていたのか。
土曜日、抑えた声で呟いたのを、思い出した。
「大丈夫かな」
ジョッキの泡を見つめながら小さく息を吐いたら、
「気にするな。仕事に専念しろ」
すぐに言葉が返ってきて、逸らされる気持ちが、ちくりと胸を刺した。
「……分かった」
俺の、ことなんだけど。
深く触れないのは、今は店に居て、俺を不安にさせないためだと、想像は出来るけど。
何だか部下へ言うような言葉が、くすぐったかった。。
「帰りは大丈夫なのか」
今夜も綾人は遅い時間まで過ごして、会計を頼まれた時に質問が飛んできて、
「今日は、駅前の駐輪場に停めてきたから」
あそこなら明るいし、と肩をすくめて答える。
「そうだな、盗難の心配もないしな」
何度か首を振った綾人が、自分に視線を向けてまた口を開いて、すぐに結んだ。
「ん? なんだよ」
ぱちんと瞬きを返したら、
「……何かあったら、すぐに電話しろ」
と、小さな声が聞こえた。
「……」
心配、してくれるんだよな。
俺は、あんたから見れば、社会を知らないガキだから。
「真木さんも、気を付けて帰れよ」
そう言ってにっと笑ったら、不意を突かれたように目を開いた綾人が「大人を心配するな」と同じよう頬を上げる。
「電車で寝過ごすんじゃねえぞ」
……何処に住んでるのか、知らないけど。
あ、でもあのカフェに来るってことは、近いのかな。意外と。
「ここから二駅だ」
首を傾げる自分を見透かしたように言葉が流れて、
「飲んだから、車の運転は出来ないがな」
と言ったのはなぜなのか、少しだけ空気が変わっているのを、何も答えなかった。
ずっと跳ねている鼓動を持て余して、「またな」と口にして、引き戸から出ていく背中を見送らなかった。
「真木係長、戻りました」
一週間ぶりに耳へ届く声色は落ち着いた響きで、「疲れていないか」と尋ねるのを首を振って、
「すぐにシルバー社の案件へ取り掛かります」
きっぱりと口にするのを笑った。
「そんなに急がなくてもいいんだぞ」
デスクの前に立つ橘は、まるで敬礼するように伸ばした背筋が、今日も美しかった。
「いえ、仕事なので」
「報告書はもう出したんだろう、お前のことだから。出張帰りだ、少し楽にしろ」
そう言ったら、肩の力を抜かないまま「開発部に用事があります」と言葉が返ってくる。
「例の仕様のことか」
北海道の支社へ研修で出向く前に手掛けていた案件を思い出すと、
「乙木が担当チームにいて、設計の第一弾が完成したそうです」
すぐに頷くから、「早い。さすが乙木だな」と思わず呟いた。
「あ、橘さん。おかえりなさい」
外回りから戻った柏木が、デスクの向こうから声を掛けた。
振り返って頭を下げた橘が、再び自分へ向き直ってから、
「あの、係長。お土産があるので、後で配りますね」
と背中を屈めて言うのを、ありがとうと笑った。
橘は、新卒で入社してすぐ営業へ配属された珍しい女性社員で、その理由をまだ一年目なのに営業の基本をあっという間に呑み込んだことで証明し、今は柏木のもとで業務を学んでいた。
「どうでしたか、北海道は」
「新人研修で教わったものより一段上の内容で、すぐ応用出来そうです。講師のかたがよかった」
「そっちじゃないんだけどなあ」
デスクへ戻った橘と柏木が話しているのを聞きながら、ふとインターンシップのことを思い出した。
「橘。乙木はインターン生の担当は難しくないよな」
割り込んですまんと言いながら声を掛けると、
「はい。確か去年もやったはずですが」
顔を向けた橘が頷く。
「開発エンジニア職で数名入れたいんだが、大丈夫だと思うか」
乙木は橘より一年早く入社した工学部卒業のエンジニアで、同期たちの中で飛び抜けているのは、営業で説明が出来ない仕様について直接顧客へ対応するほどの高い開発スキルだった。
「乙木のことだから、またかと文句は言うでしょうが。でも真木係長も関わっていると知れば、喜んで引き受けますよ。去年と同じように」
ふふっと頬を上げる翔につられて笑いながら、この二人だけは特に親しいのは、入社して以来他の上役たちより何倍もの信頼を寄せてくれるからで。
「後で行くので、可能性があると伝えておきます」
「ああ、頼む。いや、少しは休め、橘」
……諒と、そう離れていないな。年齢だけなら。
そんな思いが流れて、諒もあと少しでこんな風にスーツを着た社会人になるのかと、着慣れない姿を想像してつい目元が緩んだ。
――真木さんも、気を付けて帰れよ。
年上の自分に、気さくにそんな言葉を掛けてくれる、諒は。
「……バイトも、いずれ卒業することになるのか」
今の関係に次の変化は避けられないことが、客と店員の関係から一歩進んだだけの現実を、ふと心許ない気分にさせた。
「何か言いましたか、真木係長」
「何でもない。橘、エクセルはいいから土産を配ってくれ」
――連絡用かよ。
それ以外でお前に近付くことを、許してくれるのか。
諒。




