第5話 無名の花束
第5話をアップします。
マリ子は、カトラリーを並べ、テーブルの準備を終えようとしているところだった。
まだ、会が始まるには少し余裕のある時間で、店に訪れているのは今夜の主催者である栗林敏江と、彼女が招いたゲストの二人だけだった。
ソファに座ったふたりは、旧知の仲のようで、お互いの昔話に花を咲かせているようだった。
ゲストの上品な婦人は、年齢は見たところ70をゆうに超えているようであったが、小奇麗なスーツを着こなしてその年齢を感じさせない容貌だった。また、栗林が”さん”付けで呼び、丁寧な言葉使いで話していることからも、ただの年上の知り合いというだけではなく、これまでずいぶん世話になっている関係であることをうかがわせた。
「ほんとに吉川さんのお力がなければ、私はとてもここまでやってこれませんでしたよ」
「何を言ってるのよ。あなたはこの世界に入るときから、ずいぶんとガッツがあって、それがあったから今までやって来れてるんじゃないの。私がしたことなんて、ほんの少しあなたの進む道の地ならしをしたくらいのものよ」
「それが私にとってどれだけ助けになったことか。ほんとうに感謝しかありませんよ」
「とにかくお互いに議員として働いてくる間には、いろんなことがあったものよね。いいことも、悪いことも、まぁつらいことの方が多かったかしらね。今でもどこかの狸おやじには一発お見舞いしてやりたい気分よ。もっとも、わたしはもう引退した身だから、そんなことするわけにはいかないけど」
「そうですね、吉川さんには、これからは落ち着いて静かに過ごしていただきたいです」
栗林が、マリ子に声をかけた。
「マリ子ちゃん、他の会員からは何か連絡がなかったかい?」
「いいえ、特にご連絡はいただいていないですから、皆さんそろそろおいでになると思います」
「そうかい、それならいいんだけどね。ところでマリ子ちゃん、ちょっとこっちに来てくれないかい。今日もね、いい話があるんだよ。本当にいい話だから、話だけでもよく聞いておくれよ」
「私の後援会にいる若社長さんでね、最近とても業績を伸ばしてるそうで順風満帆、それでいて人柄はほんとに実直なんだよ」
マリ子はいつものことながら、半分困った様子で、
「栗林様、いつも本当にありがたいお話なのに申し訳ないんですが、私今は結婚やお付き合いをするというつもりは、、、」
その様子を見て、ゲストの女性が助け舟を出した。
「栗林さん、相変わらず面倒見がいいのね。でもこちらの給仕さんの気持ちも考えないと。ところで、給仕さん、あなたお歳はいくつになるの?」
「今年で34になります」
「あらそう、いい年齢じゃないの。ねぇ、あなたも一生一人でいるつもりじゃないんでしょう?生涯の伴侶がいるってことは、ほんとにいいことだと私は思うわよ。もちろん自分の人生だから、どうするかはよく考えて決めることだけれど。だから、栗林さんからのお話もよく吟味するようにね」
「はい、いろいろよく考えて決めるようにしようと思います」
「そうね、それがいいわ」
ゲストが言った。栗林は、
「結局今日も断られちゃったわね。残念だわ」
と悔しがっていた。
そうこうするうち、他の会員たちがやってきて、例会を行う個室は賑やかになってきた。
それぞれゲストに紹介され名乗り合う。ゲストの名前は吉川公子と言った。
最後にやってきた石山美里は、今日も随分と疲れているようで、吉川とのあいさつもそこそこに、ソファに腰を下ろすなり、いつものようにマリ子にハーブティーをお願いしていた。
全員がそろったところで、主催者の栗林がマリ子に食前酒をオーダーした。
マリ子はすかさず銘々にシャンパンのグラスを渡した。ただ、ゲストには本人の希望でアルコールなしのスパークリングウォーターである。
栗林が、主催者として、会の開催を宣言する。
「よろしいですか、皆さん。今宵もおいしい食事とお楽しいおしゃべりを存分に満喫しましょう。乾杯!」
「「「乾杯!」」」
会食が始まった。栗林が言う。
「今日はちょっと軽めのフレンチなんだ。だからもし物足りないと感じる人がいたら、各自でアラカルトを追加注文してもらって構わないからね」
コースのメインは、店の看板メニューのテールシチューで、皆その味に舌鼓を打ったが、美樹本、芳賀、氷山は追加の一品を注文していた。
食事が一段落し、マリ子がテーブルの食器を片付け、デザートと紅茶が運ばれた。
ゲストへの質問の時間である。
進行役の石山がテーブルの上のベルを鳴らして、皆の注目を集めてからゲストの吉川に向かって言った。
「吉川さん、これからあなたには会食の対価として自己紹介と身の上話をしてもらいます。ここで話されたことは外へ漏らすことは一切しませんので、ご心配になることはありません。会員全員と給仕のマリ子さんも含めて固く保証します。ですので、どんなことでも気兼ねなく話していただいてけっこうですよ」
促されるように、吉川が口を開いた。
「吉川公子と申します。今はもう引退していますから、あまり話すこともないんですけれど、いちおう、県会議員として長いこと仕事をしてきました。でも、どれだけ皆さんのお役に立てる仕事ができたのかと思い返すと、正直あまり胸を張れるようなことをしてきたとは言えませんね。それでも今は、ここにいる栗林さんや、その他の後輩たちが頑張ってくれていますから、そういう新しい世代が、しっかり引き継いでいってくれると信じています」
栗林が応じるように、
「吉川さんは、ああおっしゃってるけど、吉川さんが偉大な先達としてしっかり土台を築いてくれたから、私たちが今ちゃんと仕事ができるようになったんで、私らからしたらほんとにどれだけお世話になったか知れないんだよ」
「たしかに、私が県政に関わるようになったころは、女性議員はわずかしかいなくて、ほんとに風当たりも強かったから、つらい時もありましたよ。でも、栗林さんにそう言ってもらえると、長いことやってきたことも無駄じゃなかったって気にもなりますよ」
吉川は少し照れたように笑った。
「それに議員を辞めて、改めて世の中が随分違って見えるようになったわね。現役のころは、一日中予定に追われて、人に会って、話しを聞いて、また別の人にって、動き続けてという感じで、そういうのが当たり前だったから、、、引退したら退屈するんじゃないかと思っていたわ」
「というと、それがそうでもなかったんですか?」
石山が尋ねると、吉川はうなずいた。
「ええ。最初のうちはね、何をしていいのか分からなくて戸惑ったけれど、今では朝はゆっくり新聞を読んで、お昼には近所まで散歩に出て、午後は昔の友人に電話をしたり、本を読んだり。たまに講演を頼まれることもあるけれど、断ることも増えたわね」
「吉川さんらしいですね。引退しても、全然じっとしてはいられないじゃないですか」
栗林が笑う。
「いいえ、それはきっとあなたよ。私はもう十分働いたもの。これからは、若い人たちに任せて、私は後ろから眺めているくらいでちょうどいいのよ」
そう言ってから、吉川は紅茶のカップに手を伸ばした。
「それに、最近はちょっとした楽しみもあるの」
「へえ、それはどんな楽しみなんですか?」
美樹本が興味を示す。
「花よ」
吉川はそう答えて、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「庭で花を育てるようになったのよ。といっても、たいしたものじゃないわ。鉢植えをいくつか置いて、季節の花を楽しんでいるだけよ。でも、毎朝水をやっていると、花が咲くのが待ち遠しくなってくるのよ」
「それは素敵ですね」
芳賀が言った。
「ええ。ところがね、庭で花を育てているのとは別に、私の家にはもう一つ別の少し妙な花が届くようになったの」
吉川はそこで言葉を切り、皆の顔を見回した。
「このことを、今日皆さんにお話ししたいと思っているの」
栗林が聞いた。
「妙な花が届くって、どういうことですか?」
「それがね、毎月必ず決まった日、19日なんですけどね、花屋さんから花束が届くのよ。ただ、誰からのものか名前は伏せられていて、送り主は分からないの。花束もごく小さいささやかなもので、最初のうちは、ちょっとみすぼらしいと思えたし、匿名の贈り物なんて少し気味が悪いと思ったわ」
「でも、かれこれ1年ほども続いていて、最近では、花束が届くのがちょっと楽しみになってきてるのよ」
「それにしても、送り主が分からないって、たしかに妙なことですね。その花屋にそのことは尋ねられたんですか?」
栗林が気にして追及する。
「それが、花屋さんは、送り主から名前は伏せるように特に頼まれてるっていう話で、結局分からずじまいなの」
「なんだか不思議なというか、怪しい感じのする話ですね。吉川さんは、送り主が分からないままでもいいんですか?」
氷山は少しいぶかしむように言った。
「それは、だれからの贈り物かはっきりした方が、気持ちは落ち着くでしょうね。でも、分からないままだったとしてもかまわないって今は思えるの」
吉川は落ち着いて言ったが、栗林が、
「それでも、やっぱり謎のままっていうのは私は気になりますよ。吉川さん、正解が出るかどうか分かりませんが、みんなでその送り主のことを考えてみませんか」
「それじゃあ、皆さんがもやもやしたままなのもよくないから、やってみましょうか。でもなかなか大変なことかもしれませんよ」
吉川の言葉で、謎解きが始まった。
「では、最初に私から」
石山が言った。
「害がないところで考えると、吉川さんの支持者の誰かが、プレゼントの意味で送っているのではないですか?匿名なのは名前を出すことを遠慮しているだけなのなら、分からなくもないですよ」
「でも、支持者なら、あえて名前を出さない理由が少し弱いように感じるわ」
と美樹本が応じ、さらに続けて、
「逆にかつての政敵から、まだお前のことは今でも忘れていないぞっていう、意思表示だとか。それなら、匿名にして怖がらせるっていう意味があるかもしれませんよ」
と説を述べる。しかし、
「私もね、ずいぶん長いことあの世界にいましたから、かなり激しくやり合った相手は何人もいましたよ。でも、そこは感情的にというより、主義主張の違いをぶつけただけのことで、土俵を降りてまで害を及ぼそうっていうことはないはずですよ。第一、わたしはもう引退して、影響力なんてほとんどないんですから」
と言って、吉川が退けた。
「じゃあ、まさかとは思いますけど」
と氷山が口を開く、
「どこかのストーカーの仕業ってことはないかしら。吉川さん、こう言っては大変失礼ですけど、とてもそのお歳には見えないほどお美しいし、十分考えられることかもしれませんよ」
吉川は声をあげて笑った。
「お世辞でもうれしいわ。でも、こんなお婆さんにストーカーだなんて、いくらなんでも考えすぎですよ」
「そうとも言い切れませんよ。吉川さんがもっとずっと若い時から、吉川さんのことを思い続けていた人がいるかも分からないじゃないですか」
「そんなことがあるかしらね。もしあったとしてもそんな昔のことなんて、もうお互い憶えてませんよ」
吉川は半分呆れつつ、まんざらでもない様子で言った。
「氷山さん、若き日の恋愛の話はともかく、ストーカーはいきすぎだよ」
芳賀が言った。
「それに花束が贈られるようになったのは1年前からなんだろう。昔の恋人からだったら、なんで1年前からなのかもよく分からないよ」
続けて栗林が口を開いた。
「もっと話は単純なことじゃないのかねぇ。花屋が配達先を間違えてるんだよ。そういうことだって、十分あり得るだろう?」
「でも、それだと送り主を隠す理由が分からなくないですか?送り主が分かれば、間違いだって分かるわけですし」
美樹本が異を唱えた。
「まぁ、そう言われればたしかにそうなんだけどね」
栗林も同意するしかなかった。
「それじゃあ、こういうのはどうかしら」
芳賀が口を開く。
「その送り主は、吉川さんに何か負い目を感じていて、そのことに対して謝罪の意味で花を送ってるんじゃないですかね。だから、ためらいがあって名前を出すのを控えているとか」
「1年かもっと前に吉川さんに迷惑がかかるような、何かそんな出来事がありませんでしたか?」
「さあ、どうですか。ちょっと心当たりはないですけどねぇ」
吉川は首をひねるばかりだった。
「それにほぼ1年にもわたって送り続ける意味も分からないわ」
石山も首をかしげた
「その線も違うみたいだねぇ」
芳賀は残念そうだった。
「そうだ。花の届けられる日、19日でしたっけ、いつも決まってるって言ってましたよね。何かの記念日ってことはないですか? 送り主の方と吉川さんだけには分かるような」
石山が言ったが、美樹本が、
「それじゃぁ、吉川さんには花が贈られる理由も、送り主が誰かも分かってるってことにならない?それに記念日って言ったら、1年に1回なんじゃないの?」
と聞き返した。
「あぁ~、それは確かにそうだわね」
石山もあきらめ顔だった。
「ところで吉川さん」
夏目が問いかけた。
「送られてくる花ですが、どんな種類の花なんでしょうか」
「花の種類っていうと、花言葉かい?」
栗林が聞いた。
「はい、花の種類に共通しているものがあれば、花言葉を調べて、送り主の意図が分かるんじゃないかと思って」
夏目の言葉を受けて、栗林が吉川に聞く。
「吉川さん、花の種類って分かりますか?」
「もちろん分かりますよ。だいたい決まっているんです。勿忘草にスターチス、シオンのほぼ3種類ですね」
「勿忘草にスターチス、シオンですか。ちょっと調べてみます」
夏目が言ってスマホを操作した。
「ええと、勿忘草が”私を忘れないで”、スターチスが”途絶えぬ記憶”、シオンが”あなたを忘れない”となってますね。どれも、忘れないことや記憶に関係する花言葉ばかりです」
「それって、つまり、吉川さんにずっと思いを寄せている人が、花束に思いを託して届けているってことになるじゃありませんか!吉川さん、そんな人に心当たりはありませんか?」
栗林が大きな声を出した。
「いいえ、今も私のことをそんな風に思っている人がいるとは思えませんねぇ。主人のことはごく当たり前に大事に思ってますけど、あの人が匿名で私に花束を贈るなんてことするとは思えないしねぇ」
吉川が答えたが、栗林は、
「花言葉のことを考えたら、ずっと吉川さんのことを忘れないで思い続けていた誰かだと思うんです。それはきっと間違いありません」
「でもそうだったとして、届け先、わたしの住所はその人にどうやって知れるの?」
「同窓会名簿なんかはどうです?吉川さんのような方なら、同窓会には良くお出になられるでしょう?そこで、昔お付き合いのあった懐かしい方ともお会いになることもあったんじゃありませんか?」
と氷山が尋ねた。
「たしかにその通りです。同窓会にもたくさん出たし、懐かしい人にもたくさんお会いしましたね。でも、わたくし、議員を引退してからは同窓会に出ることもめっきり減ってしまって、最近出たのは2年前の大学の学部のものだったかしら」
吉川が思い出すように言った。
「じゃあ、その同窓会でなら、吉川さんのことを思っている人が会うこともありえたし、その人が吉川さんの住所を知ることも出来たわけですよね」
「そうね、でもそしたらどうして名乗らずに匿名で送ってくるのかしらね」
吉川が改めて不思議そうに言った。
「結局そこに戻ってきちゃうのよね。どうしてもそこが説明付かないわ。ちょっといったん休憩しませんか?マリ子ちゃん、紅茶のお代わりをお願いできるかしら」
少し疲れた風な石山がマリ子に声をかけた。
「かしこまりました」
静かに返事をし、マリ子は奥に下がった。
ほどなくして、ティーポットを用意したマリ子が戻り、銘々のカップに紅茶を注いでいった。
紅茶を飲みながらしばしくつろぐ会員たちのそばで控えていたマリ子が、静かに口を開いた。
「あのう、おくつろぎ中のところ申し訳ありません。ひとつ気になったことがありまして」
「なあに、マリ子ちゃん、何か気づいたの?」
栗林が聞き返す。
「はい、届けられる花束は、毎月同じ19日に届けられるとのことでしたね。それで、大変申し上げにくいんですが、その日というのはどなたかの月命日ではないかと思いまして」
「月命日だって?じゃあ、花束の送り主というのは、すでに亡くなっている人だっていうのかい?そんな、幽霊が花を贈るなんてことがあるわけないでしょう」
栗林の言葉を受けてマリ子が続けた。
「いえ、その亡くなられた方のご遺志を継いで、ご遺族のどなたかが故人との約束を果たされているのではないでしょうか。恐らく故人名義の届け物とするのが憚られて、匿名とされたんだと思います」
美樹本が口を開いた。
「なるほど、それならあり得るかもしれないわ。吉川さん、花が届けられ始める前、訃報のはがきが届いたということはありませんでしたか?」
「そうねえ、この歳になると、旧知の方もだんだんと鬼籍に入られることが多くて、訃報のはがきを受け取ることも多くなりますからね」
吉川が答えた。
「その中でも特に思い出深い方の訃報を受け取った、というようなご記憶はありませんか?」
吉川は、
「そうですねえ」
と言って、しばらく記憶をたどるように視線を上に向けていたが、急に何かを思い出したように下を向いて手を口に当て、嗚咽を漏らすと
「あの人だったんだわ」
と言って、涙をこぼした。
「吉川さん、大丈夫ですか」
と、栗林がなだめようとする。
「ええ、大丈夫よ。私こんなに大事だった人のことを今まで分からなかったなんて」
と言って、涙をぬぐった。
「ごめんなさい、ちょっと取り乱してしまって、でも、これですべて合点がいきました。思い当たる方が一人いるんです」
「花が届けられる日は、あの人の月命日だったのね。たしかにその方が亡くなられたのは、ちょうど1年前ごろでした。ご遺族から訃報のはがきを受け取ったのも覚えています。はがきを見て驚きと悲しみを感じながらもどこかで「過去の人」として、胸の奥に仕舞い込もうとしていたのかもしれません」
「その人とは大学時代に会いました。同じ学部で意気投合して、ふたりで夢中で議論し合ったり、将来の夢を語り合ったりね。物静かだけれど芯が強い人で、誰よりも私の無鉄砲な夢を応援してくれた人でした。それに心から愛し合っていたんです」
「そのうち私は、真剣に政治を志すようになりました。今でこそ女性議員も増えてきましたが、当時は女性が政治に関わるなんて言えば、相当な風当たりで、ひどく苦労するのは目に見えている、そういう時代でした。それに、彼のご実家は堅実な家柄で、私が踏み込もうとしている世界とはどうしても相いれないものがありました」
「私の目標を応援することは、そういった彼の家柄のこともあり、かえって私の足かせになるのではないかと彼はずいぶん悩んだようです。私の方でも、自分の野心や使命感のために、彼を政治の汚い世界に巻き込むことに負い目を感じていました」
「そうしてお互いのことを思うからこそ、私たちは分かれることにしたんです「お互い自分の道を全うしよう」と誓いあってね。それ以来、私たちは一度も連絡し合うことはありませんでした」
「それから一体どれだけ年月が経ったでしょうか。2年前の学部同窓会で本当に久しぶりにお顔を拝見したんです。車椅子に乗られていて、随分お痩せになっておられたけれど、遠くから目が合ったとき、昔と変わらない穏やかな笑みを浮かべて深く頷いてくださったの。直接言葉は交わさなかったけれど、そのとき同窓会名簿をあの方も持ち帰られたのね」
「ここからは推察ですけれど、きっとご病状が進む中で、あの方はご遺族に頼まれたのでしょうね。「自分が逝った後、月に一度だけでいい、あの人に花を届けてほしい」と。「忘れないでいてほしい」「あなたを忘れない」というメッセージを花に託して。あんなに不器用で優しかった人が、最後に残してくれた精いっぱいのメッセージだったのに、私は名前がないことに怖がったり、不審がったりして」
「いいえ、泣いていたら彼に叱られますね。私はずっと、自分の選んだ道のために彼を犠牲にしてしまったという罪悪感が心のどこかにありました。けれど、あの人はそれどころか、途絶えることのない記憶の中で、ずっと私を見守り続けてくれていたんです」
「この年になって、こんな温かい愛に包まれていたんだと気づかされるなんて、本当に面目ないことだわ。あの方が遺してくれた花束は、私が今まで歩んできた人生そのものを「これで良かったんだ」と肯定してくれているような気がします」
「マリ子さん、気づかせてくれて本当にありがとう。来月からはね、花束が届いたら「ありがとう、私も忘れていないわ」って、笑顔で声をかけて受け取ろうと思います。あの方のご遺族にもいつか陰ながら、感謝をお伝えできたらいいわね」
マリ子も、会員たちも、吉川の話を静かに聞いていた。栗林や芳賀は涙をぬぐっていた。
「マリ子ちゃん、今日の謎解き、ほんとに素晴らしかったわ。私感動しちゃった」
氷山が言った。
「私もこんな愛に包まれてみたいわぁ」
「あなた、みんながしんみりしてるときに、少し空気読みなさいよ」
美樹本がたしなめた。
「だって、こんな感動的な話が聞けるなんて思わないじゃない。私だってこれでもしんみりしてるんですよぅ」
「みんな、いい話の後に涙や言い合いはなしだよ。明るく乾杯して締めにしようじゃないか」
栗林が言った。
「マリ子ちゃん、軽めの赤ワインをお願いよ」
「かしこまりました」
マリ子が明るい色の赤ワインのグラスを銘々に渡した。吉川もみなに倣ってワインで乾杯することにした。
「皆さん、今日はほんとにありがとうございました。謎が解けただけじゃなく、もっと大事なものも手にできた気がします。これもマリ子さんのおかげだわ」
吉川が言った。
「とんでもありません。私はただ気になったことを口にしただけですから」
「そんな謙遜することないよ、マリ子ちゃん。今日はほんとにお手柄だったと思う。みんなそう思ってるはずさ」
栗林がマリ子をほめた。皆も同じ気持ちだった。
そして栗林が乾杯の音頭を取った。
「それでは僭越ながら。今夜は、謎が解けただけでなく、人を思う優しさにも触れられて、皆胸がいっぱいではないかしら。この温かい真相に、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
各々がグラスを掲げ、ワインを口にした。軽やかで優しい味だった。
コートを着て帰途につく会員とゲストたちの姿を、マリ子は静かに見送った。
彼女たちが向かう街並みはいつもと変わらなかったが、その胸には、たしかな温もりが宿っていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。




