第3話 図書館の老婦人
黄水仙の会 第3話です。少し慣れてきたかと思いますが、やっぱりまだまだですね。
今夜の黄水仙の会は、珍しく主催者の芳賀悦子を除いて全員が集まっていた。いつもは遅刻しがちな石山美里も、席について紅茶を飲みくつろいでいた。
「あなた、今日はいつになく早く来られたんだね」
栗林敏江が声をかける。
「ええ、手にかけていた事案が3つほどうまく片付いたので、今日は余裕ができたんです。ほんと、久しぶりに思い切り羽を伸ばせるって感じですよ」
石山は肩の荷が下りたという感じで両腕を上げて伸びをした。
「栗林先生、今日はいつものあれ、持ってきてないんですか」
石山に聞かれた栗林は、
「そうそう、それそれ。マリ子ちゃん!」
「はい、ただいま」
呼ばれたマリ子は栗林のもとにやってきた。
「栗林様、なんでしょう」
「またって言われるかもしれないけどさぁ、今日はほんとにいい話なんだよ。地元の建設会社の2代目になる人なんだけど、人柄の良さは折り紙付き、私も一度会ったことがあるけどとても礼儀正しいし、どう?一度会ってみないかい?」
と言って、男性のお見合い写真を見せようとした。しかし、マリ子は機先を制して、
「いつもお気遣いはありがたいのですが、やはり今はこのお仕事をするのが本当に楽しくて、新しい出会いに向かう気持ちが湧いてこないんです。今回のお話も申し訳ありませんがお断りさせて下さい」
と、栗林には残念な答えを返した。
「おやそうかい、ほんとに残念だねぇ。いつになったら、マリ子ちゃんのお眼鏡にかなう殿方を紹介できるのかしら。でもわたしゃ、あきらめませんからね」
栗林はまだやる気満々のようだった。
氷山麗子、夏目京香、美樹本佳織の3人は、コスメの話題で盛り上がっていた。
氷山が言った。
「これ最近買ったリップなんだけど、どう?この色私に似合ってるかなぁ」
美樹本が、
「今付けてるのがそうなのね。そうねぇ、全体に顔色がくすんで見える感じがしちゃうわね。肌のベースカラーとリップが合ってないのかもしれないわ。もしやったことがなければ、一度パーソナルカラー診断するのをお勧めするわ。一生ものだし」
「そうなんだ。私カラー診断ってやったことないから、今度受けてみよ」
「それがいいわよ。自分に似合う色が分かってると、メイクも服選びも楽になるしね。それに、人に会う時の印象にも関わるわ」
夏目も言った。
「そうですよね。配色は何についても大事な要素だと思います。私も絵を描くときには絵の具を前にして相当悩みますもの」
氷山も納得したようにうなずいた。そして、
「夏目さんのファッションとても素敵だわ。どこかのブランドなの?」
「いえ、私ふだんから特別なものは着てませんよ。これも全部ウニクロなの」
「え、ほんとに!でもすごく似合ってるし、かっこいいわ。ウニクロも捨てたもんじゃないのね」
氷山が言った。美樹本も、
「夏目さんはやっぱり感覚が鋭いのよ、自分に合うものが何かほんとによく分かってるんだわ」
「ほんとにそうねぇ」
氷山も感心して言った。
そんなおしゃべりをしていると、今日の主催者の芳賀悦子がゲストを伴ってやってきた。芳賀は今日も和装である。
「皆さん、遅くなってごめんなさい。ゲストの永井さんと待ち合わせをして、タクシー使ったんだけど、道路が混んでいてね。それで時間がかかっちゃって」
栗林が声をかけた。
「気にすることないよ。そのおかげでたっぷり楽しくおしゃべりができたってもんさ。それでそちらが今夜のゲストの方なんだね」
芳賀が答えた。
「紹介しますね。私が良く通ってる図書館で司書をされている、永井美由樹さんです。私がいつもいつも閉架書庫の本を借りる手続きをお願いするもんだから、顔見知りになっちゃってね」
「永井美由樹と申します。本日はこんな素敵なところにお招きいただいて、ありがとうございます」
永井があいさつした。やや緊張の色が見えたが落ち着いた声だった。
芳賀が続けた。
「もちろん、ただの顔見知りなだけじゃないんだよ。お互い本好きだってことで気が合って、仲良くなってね。終いにゃ、私が作家をしてて、二階堂紬ってペンネームで本を書いてるってことも知られちゃったしね」
「じゃあ、いい友人ってわけなんだね。私なんか普段の議員同士の付き合いじゃ、お互い腹の探り合いばっかりで気の休まるときがないって具合だよ」
栗林が愚痴交じりに言った。
「先生のご苦労はみんな分かってますよ。我々庶民のために汗水流してくれているんですもの」
石山がとりなした。
「ともかく全員揃ったことですし、今夜の例会を始めませんか。マリ子さんお願いよ」
石山がそう呼びかけると、給仕のマリ子が絶妙のタイミングで、食前酒のスパークリングワインを持って現れた。
各自でグラスを持ち、主催者の芳賀が開会の宣言をする。
「それでは今夜の黄水仙の会を始めましょう。今宵も素晴らしい食事とひとときの有意義なおしゃべりを楽しみましょう。乾杯!」
「「「乾杯!」」」
そして会食が始まった。
「今夜は私のリクエストでイタリアンのコースにしたわ」
芳賀が言った。
前菜のスズキのカルパッチョから始まり、クリームソースのパスタに続いて、バルサミコソースを効かせた牛のステーキがメインディッシュとなった。
今夜の料理もどれも素晴らしく、シェフの手腕を皆で絶賛するのだった。
食事が一段落し、ドルチェのティラミスとエスプレッソが運ばれた。
進行役を自任する石山がテーブルに置かれたベルで合図をし、皆の注目を集めると、質問タイムが始まることを告げた。
「永井さん、会の決まりに従って、ここからはあなたに自己紹介と、身の上話をしてもらいます。途中で会員から質問を受けることもあると思いますが、なるべく答えてください。それから、ここで話されたことは、どんなことであれ他言無用です。だれかが外部に漏らすことは絶対にありません。給仕のマリ子さんも含めてね。ここにいる皆が保証します」
石山の話を聞いて、永井が話し始めた。
「なんだかほんとに秘密の会合みたいなんですね。ちょっとどきどきします。それでは改めて自己紹介から。名前は永井美由樹と申します。先ほど芳賀さんからも言われたとおり、市立図書館で司書として働いています」
「大雑把に言えば司書がするのは図書館の事務作業全般ってことになると思いますが、おそらく司書と聞いて皆さんがイメージされるのは、図書の貸し出しと返却業務でしょうか。でも、実際にはほかにも返却された図書を棚に戻したり、棚を整理したり、それから絵本の読み聞かせ会の企画とか、おすすめ図書の特設コーナーの企画なども行います。ですが、司書としてのもっとも重要な仕事はリファレンスサービスだと思っています」
「たくさんお仕事があるんですね。ところで、そのレファレンスサービスっていうのは何ですか?」
氷山が聞いた。
「リファレンスサービスというのは、何か調べものをするのに資料を探したい、あるいはこんなタイトルの本を探してほしい、というような利用者の方の様々な要望に応えて、目的の図書や資料を探すお手伝いをすることです。例えば、「『たくさんの魚が集まる有名な絵本』を探して」っていう感じでうろ覚えで頼まれることもあるんです。これの正解は『スイミー』っていう有名な絵本なんですが、このくらいなら、いちどでもその本を読んだことがあれば分かります」
「『スイミー』なら私も知ってるよ。たしかにいい絵本だね。孫に買ってやったっけ」
と栗林が言った。
永井が続ける。
「ところが、かなりひどく作品名を間違えている方もたまにいて、ついこのあいだも「『宇宙の幼稚園の終わり』っていう本を探しているんですが、、、」って聞かれたときには、一瞬何の事だろうと耳を疑いました」
「なあに、それ?そんな訳の分からないものでも探し出すんですか?」
石山が聞いた。
「はい、結局「幼」と「終わり」から引っかかって、アーサー・C・クラークの『地球幼年期の終わり』というSF作品だと分かりました。見つかった時にはホッとしましたよ」
「ほかにも「セアカゴケグモの何とかって本はありますか?」と聞かれたこともありましたが、これはすぐに分かりました。アイザック・アシモフの連作短編推理、『黒後家蜘蛛の会』です。6人の男が毎月集まって晩餐会を開くんですが、招かれたゲストが身近にあった謎を披露して、最後は給仕が謎を解くっていう、安楽椅子探偵ものの傑作です。私の大好きな作品だったので」
「へぇ、6人で会食なんて、なんだかどこかで聞いたようなお話だねぇ」
栗林が言った。皆も顔を見合わせた。マリ子はひとり静かに微笑んでいた。
「とにかく、リファレンスサービスは、司書の腕の見せ所でもありますし、目的の書籍を見つけて、利用者の方に喜んでもらえることがとても楽しいんです」
永井は少し興奮気味で、顔が紅潮していた。
「あなた、本当にお仕事も本も好きなのね。でも、司書の方たちががんばってもどうしても見つからない本もあるんでしょう」
美樹本が聞いた。
「そうですね。ほんとに全部が見つかるわけではないですね。でも、他の図書館とも連携しているので、90%くらいは見つけられていると思います」
永井が答えた。そして少し困ったように
「ただ、直接リファレンスサービスに関わることではないんですが、ちょっと不思議なことがあるんですよ」
と言った。
「図書館の謎なんて何だかわくわくするね。幽霊が出るとかそういう話じゃないんだろ」
芳賀が身を乗り出した。
「もちろん違いますよ。でもどうにも説明がつかないんですよね」
永井が思案げに答えた。
「じゃ、その話を聞かせてもらって、なんとか説明がつかないか、みんなで考えてみましょうよ」
石山が言った。
「で、どんな話なんだい。永井さん」
芳賀が尋ねた。
「はい、話はそんなに複雑なことじゃないんです。毎月必ず、閉架書庫にある一冊の本を借りに来る、ある年配のご婦人がいらっしゃるんですが、閲覧席でしばらく同じページを眺めたあと、そのまま返却して帰っていくんです。でも、ページをめくったり本文を読む様子もないし、ほんとに同じページを見ているだけで、しかも、ここ数年ずっとなんです。なにか理由があると思うんですが、それが分からなくてずっと気になってるんです」
永井の話が終わると、栗林が言った。
「妖しい感じじゃないけど、たしかに妙な話だねぇ」
「その方、どんな理由があって、そんなことしてるんでしょう?」
石山も不思議がった。
「すみません、”ヘイカショコ”って何のことですか?」
氷山が尋ねた。
「ああ、閉架書庫というのは、普通の本棚には並べられていなくて、普段は倉庫のようなところに施錠してしまわれている書籍や資料があるんですが、その倉庫のことを閉架書庫というんです。古くて貴重な資料だったり、利用頻度が低い本などが納められることが多いです。でも、そこにある本も窓口で申請すれば、一般の本と同じように借りることができるんですよ」
と、永井が説明した。
「そういうところがあるのね。知らなかったわ」
氷山がうなずいた。
「それより、そのご婦人の謎よ」
美樹本が言った。
「例えばこんなのはどう?そのご婦人はその本の中にある文章の一節がとても気に入っていて、いつもその文章を見ながら感慨にふけるの。自分の人生のある局面を変えるような大きな影響を与えた一節だったとしたら、深く印象に残っていて何度も見返すってこともあり得るんじゃない?」
「でも、それだと図書館まで借りに来ることが説明できる?同じ本を自分で買えばいいんだもの。もし、その本が絶版だったとしても、今の時代オンラインで古本も手に入るし、多少の出費を気にしなければそれですんじゃうわ」
石山が反論した。
「それでも、図書館のその本じゃなきゃいけない理由があるのかもよ。豪華版だとか、初版本だとか」
美樹本も引かない。しかし、石山も
「でも、それが決定的な理由になるとはちょっと考えづらいわよ。永井さん、その本って、何か特別な価値があるものなんですか?」
永井が答える。
「いえ、特に希少的な価値がある本というわけではないですね。一応、単行本の初版だったとは思いますが」
夏目が口を開く。
「そうなんですね。私はてっきり、きれいな装丁がされている本で、そのご婦人は、文章ではなく本の美しさに感心しているのじゃないかと考えてました。でも、今のお話ですと、その本一冊だけに限った価値があるというわけではないようですね」
永井も
「はい、古い本ですが状態は良くて、大事にされてきたものだというのはよく分かります。今後もしっかり保管していかなければと思っています」
と答えた。
「ねぇ、こういうのはどう?」
氷山が言った。
「そのご婦人がいつも開くというそのページに、何かメモがされてるの。それを毎回読んで、誰かに連絡するのよ。つまりその本を何かの連絡手段に使ってるんじゃない?普段は倉庫に入ってるんなら、ほかの誰かに読まれる心配もないし」
芳賀が驚いたように言う。
「それじゃまるで、スパイか何かじゃないか。ちょっと考えが大胆すぎると思うねぇ。それに図書館の本に書き込みをするのはご法度。公共の財産だからね。それに、連絡を取り合う相手は一体誰なんだい。」
氷山は
「でも、メモのことは、この間みたいに、消せるインクとドライアイスを使うとかしたら、できるんじゃない?それに、相手だって貸し出し記録を見ればすぐわかるはずよ」
と食い下がった。
しかし永井が、
「それが、今の図書館では、個人情報保護の目的で、返却と同時に貸し出し情報は削除されてしまうんですよ。それに、私の記憶の限りということになってしまいますが、その本を借りているのは、そのご婦人の他にはいないと思います」
と補足した。
「ほらね。やっぱり麗子ちゃんの考えじゃ難しいわよ。ドライアイスだって図書館の中なんかで使ったら、すぐに見つかっちゃうし」
「くやしいなぁ」
と、氷山は唇をとがらせた。
「永井さん、そのご婦人はいつもどこでその本を閲覧してたんですか?」
芳賀が永井に聞く。
「いつもオープンな閲覧席を使っていました。だから手元もよく見えたし、毎回同じページを見てることがよく分かったんです」
「同じページというのはどのページなんですか?」
栗林が聞いた。
「それが、本の奥付なんです。作品名、作者名、発行日、出版社などが書かれているところです」
永井の答えに、
「そんなところを見て何か意味があるのかねぇ」
と、栗林は頭を抱えた。
氷山が
「もう一つ思い浮かんだわ。彼女はそもそも本なんか見ていないのよ。毎月決まった日に図書館に来て、図書館の中を観察、あるいは監視してたのよ。これなら、適当に本を開くだけで、あとは目的を果たすことができるわ」
と意見を述べたが、永井が、
「いえ、たしかにそのご婦人は本をじっと見ていました。閲覧席から顔を上げることはほとんどなかったんです」
と言って反論した。
石山も、
「そういう目的なら、本を借りなくても、適当に図書館の中を歩き回っているだけでもことが足りるわよ。それに、いつも同じ本、しかも閉架書庫の本って言うのも疑問よ。どの本だっていいんだもの」
と言った。さらに続けて、
「ねえ、今思いついたんだけど、そのご婦人、軽い痴ほう症、あるいは強迫障害を患ってるってことはないかしら。そのせいで、毎回同じ本を借りるし、同じページを見続けるのよ。ちょっと悲しい考えだけど、ありえないとは言えないわ。どう、永井さん」
永井は
「はっきり言って、それも可能性は低いと思います。ご婦人は70を超えたくらいの方なんですが、いつも穏やかで、貸し出しも、返却も、受け答えはしっかりしていていますし、健康的に問題がある方とは感じられませんでした」
「そうなんだ。メモによる連絡手段も違う、本文の中のお気に入りの一節を見つめてるのも違う、本そのものの希少価値に注目してるのも違う、そもそも本じゃなくて図書館の中を見てるっていうのも違う、本人の異常行動も違うとなると、あと何か考えられることってある?」
石山がお手上げという風に言った。
「こんなのはどうだい」
栗林が口を開いた。
「その本にはやっぱり書き込みがされていて、それが何かを探すヒントになってるんだよ。例えば、隠し財産とか遺産とか。ご婦人はそのメモがその本の中にあることを知っていて、、、」
「でもそれだと、何回も繰り返して借りに来る理由がなくありませんか。書き込みを見つけたら、それをメモ帳か何かに書き写してしまえば、それ以上借りる必要はないわけですから」
美樹本が反論した。
「それにその本にメモがされたタイミングも気になりますよ。図書館の本に書き込むのは禁止されていますから。もし、元からメモがあったのならどういうことかしら」
永井も、
「あのう、書き込みや破損したページなどがあるものは、汚損本として処理されて、廃棄されることが大抵なんです。だから、書き込みなどはごく小さくて、利用に問題がないとされたものに限られると思います」
と言った。
「それじゃあ、複雑な秘密の書き込みなんかはありそうにないねぇ」
栗林は引き下がった。
「ところで、その本って、そもそもなんていう本なの」
芳賀が永井に聞いた。
「作者は長谷川則夫という郷土の有名な作家で、大学教授もされていた方です。題名は『追憶のおもかげ』という、その方の半自伝的な処女小説なんです。郷土の作家の処女小説の初版本ということで大切に閉架に収められているんだと思います」
「その方ってまだご存命なのかしら」
「いえ、たしか10年ほど前に鬼籍に入られたと記憶しています」
「長谷川則夫さんね、憶えてるわ。直接面識があったわけじゃないけど、地域の文化振興にも尽力した偉い先生よ。芳賀さんも聞いたことがあるんじゃない?」
栗林が聞いた。
「恥ずかしながら名前を存じてるくらいなんですが、たしかに聞いた名前ですね」
芳賀が答えた。
「あぁ、でも本のことは分かっても、ご婦人の謎は解けそうにないわ」
石山がうめいた。
「マリ子ちゃん、エスプレッソをお代わり、いえ、紅茶を一杯いただけないかしら」
マリ子が答えた。
「かしこまりました。他の皆様はどうなさいますか?」
マリ子の問いかけに、皆が紅茶を注文した。
しばらくして、紅茶を配膳し終わると、マリ子が控え目に永井に尋ねた。
「永井様、ひとつご確認させていただきたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
「なんですか?給仕さん」
「はい、そのご婦人が毎回借りられる本ですが、寄贈本ではありませんか?」
「ええ、そうです。たしかに寄贈本ですね。でも、それがなにか?」
「ちょっと待って、マリ子ちゃん。どうして寄贈本だって分かるの?」
石山が聞いた。
「それは、先程のお話しの中で永井様が、その本がとても大事にされてきたと分かるということをおっしゃっていましたので」
「なるほど、そういうことね。でも、寄贈本だとどうなるの?」
美樹本も、いまいち分からないというふうに聞いた。
「その本が寄贈されたものということは、前の持ち主がいらっしゃったということになります。つまりその持ち主の痕跡が残っている可能性が高いんじゃないでしょうか」
栗林が、
「それってつまり、メモや書き込みってことだろう?やっぱりその書き込みに秘密があるってことじゃないかい」
と言ったが、永井が制して、
「それが、、、先ほども言ったとおり、本が寄贈されるとき、書き込みや破損したページなどがあるものは、大抵は汚損本として処理されて、返却されるか廃棄されることになるんです。だから、書き込みがあったとしてもごく小さな目立たないものだと思います」
「じゃあ、何か所にも書き込みがあるようなのはダメなんだね」
「それに、そのご婦人が見てるのは決まったページだけなわけですしね」
石山も確認するように言った。
「でも、私、何か見えてきた気がするわよ」
美樹本が言った。
「永井さん、そのご婦人が見てるのは、奥付のページだって言いましたよね」
「はいそうです」
「本を開くと、奥付のとなりは何のページになってますか?」
「空白のページです。空白なんですけど、、、そうだ!その空白のページに蔵書票が貼られていました。おそらく元の持ち主の方の自作のものです。それから、その脇にごく小さいですが、その持ち主の直筆の署名がされていました」
「それよ!」
美樹本が大きな声を出した。
「その直筆の署名だわ。そのご婦人は、その署名を眺めていたのよ」
「いったいどんな理由で?」
氷山が聞いた。美樹本は永井に向かって聴いた。
「永井さん、本が寄贈されるタイミングって、どんな時ですか?」
「おそらく一番多いのは、どなたかが亡くなられて、ご遺族の方が故人の蔵書を持ち込む場合だと思います。あとは、家を建て替えるときなどに、本を整理するという場合などでしょうか」
「そうですよね。その本もどなたかが亡くなった時に寄贈されたのだと思うわ。その後、故人を懐かしんだ、おそらく死別した奥様が、本の署名のことを思い出して、死んだご主人の肉筆の筆跡を時折見に来てるってことじゃないかしら」
「それなら、今までのこともおよそすべて説明がつきますね。私もその考え方に賛成します」
夏目が言った。
「私も賛成だねぇ。長年連れ添っただろうご主人のことを死んでしまった今も慕っているなんて、切ない話じゃないか。永井さん、あなたもそう思わないかい?」
芳賀が、永井に問いかけた。
永井は少しの間黙っていたが、やがて静かに頷いた
「そうですね。そう考えると、すべての疑問が収まるように思います」
「私たち司書は、本や資料そのものには気を向けますが、実際のところ、それを読む利用者の方たちの気持ちの中まではなかなか注目できていなかったんですね。あのご婦人のことも、ただ不思議に思うだけで、ページに残された筆跡が、彼女にとって大事なものだとは、思いもよりませんでした」
「それはみんなそうさ、こうしてみると、本はただ事物を記録するだけじゃない。ある個人の生きた証も後の時代に残していくものなんだね。そのご婦人も、亡き夫の思い出に逢いに来ていたってことなんだね」
栗林がしみじみと言った。
永井が言った。
「今日は皆さん、私の長年の疑問を解いてくださって、ほんとにありがとうございました。私はこれからもあの本が大事に保管されるように注意していかなきゃいけませんね。それから給仕さん、あなたの気づきが、謎を解くきっかけになりました。改めてお礼を言いますよ」
「とんでもございません。私はただ気の付いたことを口にしただけです。謎を明らかにしたのは会員の皆様と永井様です」
とマリ子が静かに言った。
「何言ってるのよ、そんな謙遜しないで。あなたの一言がなかったら、みんなも考えをまとめることができなかったはずだし。やっぱりマリ子ちゃんのお手柄よ」
石山が言った。
「じゃ、そろそろ、今日の例会は終わりにしましょうか。最後に乾杯するかい?」
芳賀が聞いた。皆が締めの乾杯に賛成した。
「マリ子ちゃん、何か炭酸のカクテルをお願いね」
「かしこまりました。スプモーニをお持ちします」
鮮やかな朱色のカクテルで、小さく締めくくりの乾杯を交わした。
今夜も図書館の静かな書庫では、一冊の本が誰かの思い出を抱いて眠っている。
そんな情景を思い浮かべながら、会員たちは心地よくそれぞれの帰路へとついたのだった。
第4話は、来週中には投稿できると思います。




