第10話 しんちょうの本
諸学生が母親に託した短いメモには何が書かれている?単純でちょっとコミカルなお話です。
今日の黄水仙の会は、いつもと少し雰囲気が違っていた、今回の主催者、栗林敏江が招いたゲストは、IT企業のプロジェクトマネージャーで、彼女に対して、自分の事務所を持つ会員たちが、HP管理や顧客データベースのセキュリティについて、代わる代わる質問を浴びせていたからだ。
ゲストの渡辺小百合は、そのIT企業で栗林の事務所の担当をしている。
話題の中心は、昨今急増している企業への不正アクセスに関してで、皆いちおう各自でサーバーなどの管理をそれぞれでIT企業に任せてはいるのだが、いざ、不正アクセスがあって、顧客情報が流出したり、ランサムウェアの被害に遭うようなことがあったらと考えると、転ばぬ先の杖とばかりに、有効な対策方法などを聞かずにはいられないのだ。
「渡辺さん、私のところでもひと通りの対策はしているつもりなんですけど、もし、不正アクセスにあって会員の個人情報が流出したりしたら、どうしたらいいんですか?」
氷山麗子が聞いた。氷山のスポーツジムは個人経営とはいえ、それでも3桁の会員が登録している。他人事ではないのだ。
「氷山さんでしたね。そうですね。なるべく早く、不正なアクセスがあったことを検知することです。それができたら重要なデータにアクセスされる前に、アクセスを制限することできますからね」
「それがうまくいけばいいですけど、実際に情報が外部に漏れてしまったら、どうなっちゃうんでしょう」
「メールやSNSでの詐欺の被害があるかもしれません。また、流出したアカウント情報を使って、システムにログインして、システムに破壊工作をされることがあるかもしれませんね」
「それじゃあ、不正アクセスされないようにするのがとても重要だと思いますが、そのために何か有効な方法はないんですか?」
続いて石山美里が聞いた。弁護士の石山も依頼人の情報をしっかり守りたいと考えているのだ。
「システムにログインするときに、パスワードでなくて、パスキーというものを使うことが最近では多くなってますね。スマホで指紋認証や、顔認証、PINコードなどを使うのがそれです。スマホや、指紋がないとアクセスできないので、パスワードよりも安全性が高いんです」
「私どももそうやっていろいろと対策を考えたシステムを組むんですが、どうしても、どこからか不正なアクセスがあったり、情報の漏洩があるので頭が痛いんですよ」
渡辺は悩まし気に頭を振った。
「渡辺さんのとこは、よくやってくれてるよ。わたしのとこの事務所じゃ、管理をお願いするようになってから、これといったトラブルはないからね」
栗林が渡辺の仕事ぶりを誉めるように言った。
「しっかりした管理業者を選ぶことも大事なんじゃないかねえ。それじゃ、あたしは芳賀さんに用事があるからちょっと失礼するよ」
栗林はそういうと大きな封筒を持って席を立ち、芳賀の席へ向かった。
芳賀悦子に向き合うと、封筒を差し出して、栗林が言った。
「頼まれていたものを用意してきたよ。ひと通り中身を確認してみてくれないかい」
「分かりました」
と芳賀が言って、封筒を受け取った。
封筒は3つあり、芳賀はひとつずつ開けると中のお見合い用の写真と経歴書を確認した。経歴書には、メールアドレスとSNSの連絡先も記されている。
芳賀の目にはいずれも申し分のない相手に見えた。
「栗林さん、ありがとうございます。メールとSNSの連絡先もあって、これなら三上さんも満足しますよ」
「すぐには会わずに、最初はメールで連絡を取り合うっていうのは本当なのかい?」
「はい、三上さんが、実際に会う前にメールなどでお互い十分に理解を深めておいた方が、付き合いを始めてからの決断が早いからって言うんです。まあ、今時マッチングアプリなんてものもありますけど、まったくどこの誰とも分からない相手とじゃ、何があるか分かりませんからね」
「それと、栗林さん、このことは三上さんにはまだ内緒にしてるんです。このお見合い写真を見せたら、あの子きっとびっくりしますよ。一体どんな顔するかしら?」
「私もその様子を見てみたいもんだね。なんにせよ、その三上さんの縁談が、これをきっかけにうまいこと進めば私もうれしいしね」
するといつの間にか横に美樹本佳織と夏目京香が立っていた。
美樹本が言った。
「お二人で何の話をしてるんですか?私たちにも聞かせてくださいよ」
「単刀直入に言うよ、お見合いの話さ」
芳賀が答えた。
「え!でもいつものマリ子ちゃんのお見合い話じゃないんでしょう」
「そう。わたしの編集者の三上さんのなんだ。ふた月前にゲストに呼んだ彼女だけど、おぼえているかい?その三上さんが、マリ子ちゃんへのお見合い話を聞いていて、自分のこともずいぶん気にし始めちゃってね。ちょいと世話を焼いてやろうって話なのさ」
「そうなんですね。あの方もいいお年頃のようですから、喜ばれるんじゃないですか?」
夏目が目を輝かせながら言った。
栗林もうなずきながら言った。
「わたしもそう思うんだよ。芳賀さんから話をされたときには、久しぶりに実のあるお見合いができるってうれしくなったよ」
「これからの進展も楽しみですね」
「ほんとにそうさ。さあ、それじゃあ、そろそろ食事を始めることにしようかね。マリ子ちゃん、食事を始めるわ。食前酒の用意をお願いね」
「かしこまりました」
マリ子が返事をして一旦奥に下がる。すぐにシャンパンのグラスを持って戻り、銘々にグラスを配膳していった。
グラスが行き渡ったのを見て、栗林が音頭を取り、開会の宣言をした。
「皆さん、今夜も黄水仙の会の夜となりました。会員も全員そろい、ゲストも加わってにぎやかです。今宵は一段と華やかな食事と、楽しい会話に花を咲かせましょう。乾杯!」
「「「乾杯!」」」
そうして会食が始まった。
2種類の前菜には、ズワイガニと蝦夷鹿、一皿目のメインはクエの白ワインソース、二皿目のメインは仔鴨のポワレの黒トリュフソースが出された。
ゲストの渡辺が、
「本当に素晴らしいお料理ですね。家族にも食べさせてあげたいけど、こんな高級なもの、ちょっと無理かもしれないわ」
と感想を漏らした。
食事が一段落し、マリ子が皿を下げ、デザートのリンゴのキャラメリゼのタルトが紅茶とともに運ばれた。
ここからは、ゲストへの質問タイムである。
栗林が石山に声をかけ、質問タイムを始めることを促す。
石山は頷き、テーブルの上のベルを鳴らして、注目を集めると言った。
「渡辺さん、これからあなたには、今日の食事の対価として、自己紹介と身の上話をしていただきます。もし言いづらいことがあっても、ここで話されたことは口外無用。一切外へは漏れませんから心配はいりません。会員全員と給仕のマリ子さんも含めて固く保証します。ですから、どんなことでも気兼ねなく話していただいてかまいません。それでは、お願いします」
「渡辺小百合と申します。IT関連の企業で、プロジェクト管理の仕事についています。栗林様の事務所のシステム管理も私が担当しているので、そのご縁で今日のお食事にも招いていただきました」
「いくつかのプロジェクトの管理が仕事なので、自分でプログラムを作成したりということはほとんどないのですが、システムの管理ということをしていると、不正アクセスなどのトラブルに関わることは避けられなくて、特にここ数年は、そういったトラブルに関わる情報流出問題や、ランサムウェアなどによる被害が急激に増加していて、私どもとしても頭を悩ませているんです」
「そんな感じで、残業も増えますし、帰宅時間も遅くなって、家族ともすれ違い気味なのが大きな悩みですね」
「それは大変ですね。ご主人はご家庭のことには協力してくださるの?お子さんは何か問題はないですか?」
石山が気づかうように尋ねた。
「主人もとても協力的で家事の分担をしてくれて、とても助かっています。子どもたちは小学4年生の男の子と、2年生の女の子がいるんですが、ここのところ会話が減ってしまっているのは良くないなと、自分でも気がかりなんです。ふたりとも、教材のタブレットばかり見るようになってしまって」
「家族の触れ合いが減ってしまうのは問題よね」
美樹本も気になるようだ。
「それこそ、スマホのSNSの家族グループで必要な連絡を取り合うのはどうかしら」
「家族グループに限定できればいいですけど、なかなかそうするのも難しいでしょうし、そうなったときに要らぬトラブルや、最悪犯罪被害に巻き込まれたりしたら怖いですから、子どもたちにはスマホは与えていないんですよ」
「そうよ、美樹本さん。中学生でもSNSから犯罪に巻き込まれることは少なくないわ。小学生にはちょっと早すぎるわよ」
石山がまじめな顔で言った。
「そうね、ネットの闇は底知れないかもね。それなら、毎日簡単な手紙かメモで、近況を教え合うのはどうかしら。温かみがあっていいかもしれないわよ」
「わたしも賛成。絵日記みたいにしてくれたらかわいくていいと思うな。それに記録として手元に残るしね」
氷山が明るい顔で言った。
それを受けて、ゲストの渡辺が、
「メモと言えば、ここに長男から渡されたメモが1通あるんですが、ちょっと困ったことがあって」
「困ったことというのは?」
美樹本が聞いた。
「はい、メモの内容が、ごく簡単な一文なんですけど、意味が正確に読み取れないんです」
「それはご主人にもお見せになったんですか?」
栗林が聞いた
「はい。でも二人とも正しい答えが分からなかったんですよ」
「じゃあ、一度そのメモを見せてもらいましょうよ」
「分かりました。これなんです」
と言って、渡辺は1枚の紙をテーブルに広げた。小学生らしい、少したどたどしい字で1文だけこう書かれていた。
『しんちょうの本買って』
皆がメモを見て、首を傾げたり、目をしばたかせたりした。『しんちょう』が何のことなのか、すぐには分からなかったのだ。
「なんでしょうね、これ。本を買ってほしいのは分かるけど、慎重に行動するの『慎重』かしら」
最初に口を開いたのは石山だった。
それに対して、美樹本は、
「慎重に行動する本って、なんかビジネス書にはありそうだけど、小学生がそんな本を読みたがるとは思えないわ。私は背の高さの『身長』じゃないかと思うわ。その子は背を伸ばしたくて、身長を伸ばす本に興味があるのよ。氷山さん、そういう本ならあるでしょう?」
「あるけど、その子小学4年生でしょう?今多少背が低くても、中学生になって成長期になれば自然と背は伸びるものだし、今の歳で無理して背を伸ばそうとしても体に無理がかかっちゃうわよ」
氷山が答えた。
栗林がゲストに聞いた。
「渡辺さん、メモについて、いろいろ考えてみたんだろう。他にはどんな言葉を思いついたんだい?」
「そうですね。主人といっしょにあれこれ考えました。ものを新しくする『新調』や、業績を伸ばす『伸長』なんかも出てきましたけど、長男が欲しがりそうな本とは結び付きそうにないんですよね」
「これは、なかなか難しい謎かもしれないよ。”しんちょう”って読める漢字はずいぶんたくさんあるからね」
栗林の言葉を受けて、夏目が言った。
「でも、小学4年の男の子の興味の対象になるものとなると、限られそうなものですけどねえ」
「それはいいヒントよ。学校のことやマンガやゲームに関係することなら、答えに近づくんじゃないかしら」
石山が夏目の言葉を引きついで言った。
「それでもやっぱり”しんちょう”なんていうものが出てくる、学校の教科や、マンガやゲームなんて思いつかないけど」
美樹本が首をひねる。
芳賀が顔を輝かせた。
「こういうのはどうだい。中国の王朝、清の王朝『清朝』。ただこれは、より古い時代の”秦”もあるから、どちらかと決めかねるけどねえ」
「それはかなり有力な候補だと思えますね」
夏目も賛成する。
「そうね、その子が中国の歴史に興味を持っていれば、そういう本を読みたいと思っても不思議はないわね」
美樹本もうなづきながら言った。
「でも、小学4年生よ。中国の歴史を勉強するのにはまだ少し早いんじゃないかしら」
石山が疑問を投げかけたが、美樹本は答えた。
「学校の図書室で学習マンガやそういう類の本を読んだのかもしれないわよ。それでもっと詳しく知りたくなったのなら十分あり得るんじゃないかしら。渡辺さん、お子さんがタブレットをよく使っているということでしたけど、中国の歴史について調べたりということはないですか?」
「はっきりとは言い切れませんけど、中国ではなかったと思いますね。ただ、一度、日本の戦国時代のクイズをやっているのは見たことがありますが」
「そうですか。でも、中国の『清朝』は有力な候補ね」
美樹本はかなり納得していた。
そこへ芳賀が、
「まだ候補を増やすのかって言われそうだけど、こんなのもありかなと思ってね。落語家に『志ん朝』っているのよ。『古今亭志ん朝』。昭和、平成の名人でね、粋でね、切れが良くて品があって、若くして亡くなったのはほんとに惜しまれるよ」
「で、その小学生が落語を聞くんですか?」
石山が聞き返した。
「小学生にも十分伝わる面白さだと思うし、実際、落語好きな小学生は少なくないと思うけどねえ。まあ、候補の一つとして、おぼえといてもらえばいいよ」
氷山も少しあきれたように言った。
「それにしても、ずいぶんたくさん候補が出たのに、どれも今一つ決め手に欠けるわね」
「そうなんです。わたしも主人といっしょにかなりいろんな候補を考えたんですが、、、」
渡辺も少し疲れたように言った。
「案外簡単なことのような気もするんだけどねえ。一度ここらで休憩してリフレッシュしようじゃないか。マリ子ちゃん、紅茶のお代わりを持ってきとくれ」
「かしこまりました」
マリ子が元気よく返事をして、一旦奥へ下がった。
すぐに紅茶のポットを持ってマリ子が戻ると、皆のカップに紅茶を注いでいった。
銘々が紅茶を飲み、しばしゆっくりとくつろいだ。
皆がくつろぐ後ろで控えていたマリ子が、控えめに口を開いた。
「皆様、おくつろぎのところ申し訳ありません。ひと言申し上げたいことがあるのですが」
「おや、マリ子ちゃん、また何かに気づいたんだね。遠慮せずに言っておくれよ」
栗林が応じた。
「はい、手掛かりとなるか分かりませんが、”しんちょう”という字は漢字ではどう書くのでしょうか?」
「それはつまり、その小学生が漢字ではどんな字を書こうとしたかってことだね」
「そうです。漢字は音読み、訓読みがありますから、そこを取り違えたこともあるかと思いまして」
芳賀も思い当たったようで、
「なるほどね、”しんちょう”はたいてい音読みに当たる読み方だよ。もしそれが、訓読みだった字を間違えて音読みで書いたんだとしたら、、、マリ子ちゃん、紙とペンを持って来てくれないかい」
「はい、ただいま」
マリ子がすぐに、メモ用紙とボールペンを用意してきた。
芳賀がそれを受け取ると、
「それじゃここに”しんちょう”って言葉をいくつか書いてみるよ」
と言って、紙の上に”しんちょう”と読める言葉をいくつか書き出した。
『身長』
『慎重』
『新調』
『清朝』
『志ん朝』
「これはどれも、小学生の男の子が興味を示すものとしては根拠が薄いものばかりだ。でももうひとつ、私がこれだと思う候補を書かせてもらうよ」
そして芳賀が書いたのは、
『信長』
「それって!」
「そういうこと!」
「それなら納得ね」
「”のぶなが”だなんて!」
皆が口々に言葉を発する中で、ゲストの渡辺は、
「あの子ったら!『のぶなが』を『しんちょう』なんて書くなんて、なんて間違いをするのよ、もう!」
と半分あきれながら情けなくもあり、そして家族との時間も取れず、息子が何に興味を持っているのか分からなかったという恥ずかしさもあって、顔を赤らめて俯いた。
「あの子とももっと触れ合う時間を作って、勉強も見てあげないといけないですね。なんだか、皆さんをお騒がせしてすみせんでした」
「いや、何も謝ることなんてないよ。とても楽しい謎解きをさせてもらって、私たちは満足さ」
栗林がとりなした。そして芳賀が何か言いたそうな顔をしているのを見て、
「芳賀さん、まだなにかあるの?」
と問いかけた。聞かれた芳賀は、
「いやね、織田信長はふつう”のぶなが”と読みますけど、江戸時代の初期に書かれた信長の一代記で『信長公記』という書物があって、これは”しんちょう”と読むんですよ。このことをもっと早く思い出していれば、”信長”がすぐに出てきたんですけどね」
「あはは、今回は芳賀さんの歴史オタクぶりも、迷路に迷い込んじゃったわけだ」
「それにしてもいつものことながら、マリ子ちゃんのひと言は鋭いところを突いていたね。私らは”しんちょう”って読みにこだわっちゃったけど、漢字になった時に読み方が変わることには気が回りませんでしたからね」
「ほんとにあのひらめきがどこから出るのか教えてほしいもんだよ」
そう言われてマリ子は、
「恐れ入ります。ひらめきというよりも、私は、実際にどんな漢字で書かれるのかが気になっただけですので」
と答えた。
「そろそろ締めくくりの頃合いかね」
栗林が言った。
「渡辺さん、あなたのお子さんのメモの話題で、今夜は一段と楽しめましたよ」
「お恥ずかしい限りですよ。家族とももっとゆっくり話し合える時間をとれるように、勤務時間を会社とも交渉してみます。それから、今度の休みには息子と一緒に信長の本を探しに出かけてみます。息子と過ごす良いきっけけをいただけましたわ」
「そういわれると、私もうれしいよ」
栗林もうなずいた。そして、締めくくりの乾杯をマリ子にお願いする。
「マリ子ちゃん、締めくくりの乾杯をするわ。シャンパンを用意してちょうだい」
「すぐに用意いたします」
とマリ子が返事をし、銘々にグラスを配っていく。
栗林が乾杯の音頭を取った。
「今夜も楽しい例会でした。そして渡辺さんの家族の絆が深まることを願ってやみません。幸せな家族の絆に。乾杯!」
「「「乾杯!」」」
小さな謎の余韻とともに、夜は穏やかに更けていった。
いつもお読みいただきありがとうございます。




