第4話「シン(伸二):夜道の記憶——届かない声」
森の入口でマルタと別れた。採取場所の見当はついている。岩が多い斜面、日陰、湿気。洞察力が地形を読む。
森に踏み込んで少し歩くと、すぐに地面の傾斜が変わった。右手側に苔むした岩が連なり始める。木の密度が上がり、日差しが届きにくくなっている。空気がひんやりと湿っていた。
足を止めた。岩の根元を見る。
あった。
縁がわずかに赤みを帯びた三枚葉。マルタの説明と一致する。洞察力が自然と周囲に広がり、似たような地形の条件を持つ場所を次々と拾い上げていく。役員時代に数字の異常を探す時と同じ感覚だった。膨大な情報の中から、条件に合うものだけが浮かび上がってくる。
場所は分かった。問題は採取だった。
茎から折る、と言われていた。根を傷めないように。やってみると、これが思いの外難しかった。力を入れすぎると根ごと抜けてしまう。かといって加減が足りないと途中で折れない。剣道五段の手が、草一本を前にして妙に不器用になっていた。
「……」
指先に力を入れすぎない。折る角度を一定に保つ。単純な動作なのに、体が覚えるまでに時間がかかる。台所で遥が野菜の茎を折っていたのを、何度か見た記憶がある。あの手つきは迷いがなかった。同じことをやっているはずなのに、なぜあれほど自然に見えたのかが今になって分かる気がした。
三本目でようやく要領が掴めた。
岩沿いに少し移動すると、また群生している場所が見つかった。日当たりの具合と傾斜の向きが同じだ。条件が揃う場所には必ず生えている。十本を過ぎた頃には採取の要領が身についていた。二十本に達したところで手を止めた。依頼の倍だが、折れかけていたものも含めれば無駄にはならないはずだ。
布袋に収めた。依頼は果たした。
——
マルタのところへ戻ろうと踵を返しかけたところで、足が止まった。
洞察力が何かを引っかけた。
地面に小さな足跡があった。三つ指の、人間とは明らかに異なる痕跡。朝見たゴブリンと同じ形だ。
シンはゆっくりと周囲を探った。
緑色の影が五つ、茂みの向こうにあった。
シンは木の陰に身を潜めた。呼吸を殺す。
ゴブリンたちはこちらに気づいていない。朝の戦闘では、距離を詰めた時点で反応された。今は十メートルも離れていないのに、どちらもこちらを見ない。
——「隠蔽」。ステータスに表示されていたスキルだ。エミリアが見て、何も言わなかったあれだ。息を潜めた瞬間から、自分の気配が薄くなっている感覚があった。意識して消しているのではない。身を隠そうとする意思に、スキルが応えていた。
胸の奥が軋んだ。
——数字を隠し、痕跡を消し、嘘を重ねて身につけた技術だった。あれが今、命を守る力として機能している。皮肉だった。
だが、使える。使うしかない。後ろめたさで剣は振れない。
シンはもう一度ゴブリンを見た。
——五体か。朝の三体でも余裕はあった。しかし二体増えるだけで状況は変わる。囲まれたら背後を取られる。
洞察力が自然と働いた。五体の配置、武器の種類、体格差。一体だけ他より大きかった。リーダー格か。
——交渉と同じだ。反対派が束になっている時は、まずキーマンを落とす。頭を抑えれば残りは崩れる。
朝の戦闘を思い出す。三体目は仲間が倒されて逃げた。群れの統率はリーダー格に依存している。
ならば先にリーダーを潰す。
しかし正面から突っ込めば五体に囲まれる。さっきの感覚が再現できるなら、気配を消したまま接近して、一撃でリーダーを仕留める。残りが浮足立った隙に各個撃破。
……いけるか。
シンは、息を吐いた。
——いや。無理はできない。失敗すれば死ぬ。この世界に来て初日で死ぬわけにはいかない。まだ結華を探してもいない。
シンは息を整えた。
——二体だけ引き離せないか。
石を拾った。
——茂みの右側に投げれば、何体かは反応するはずだ。
右に一つ、左に一つ石を投げた。
小石が茂みを揺らした。乾いた音が二方向から同時に響く。
ゴブリンたちが反応した。耳を立て、互いに顔を見合わせる。甲高い声で何かを叫び合っている。
二体が右へ。一体が左へ。
残ったのはリーダー格と、もう一体。
——今だ。
シンは木の陰から滑り出た。隠蔽スキルが気配を薄くしている。足音を殺して、低い姿勢で距離を詰める。
リーダー格がこちらに気づいた。
——遅い。もう間合いだ。
剣道の突き。朝と同じ後の先ではなく、こちらから仕掛ける先の先。切先がリーダー格の胸を貫いた。
悲鳴が上がった。隣の一体が棍棒を振り上げる。引き抜きざまに横薙ぎ。小さな体が吹き飛んだ。
二体。二秒。
残り三体が音に反応して戻ってくる。しかしリーダーが倒れた光景を見た瞬間、足が止まった。朝と同じだ。統率を失った群れは脆い。
一体が逃げた。二体目も続いた。三体目が棍棒を投げ捨てて森に消えた。
シンは息を吐いた。
「……読み通りだ」
足元のゴブリンを見下ろして、麻袋を開けた。顔をしかめた。
——討伐証跡は……鼻か……
鼻に剣を添えると薙いだ。麻袋に鼻を二つ詰めた。
——二回やっても慣れなかった。三回目も慣れないだろう。
リーダー格が持っていた剣を拾い上げた。ゴブリンが持つには不釣り合いな品だった。刃に曇りがなく、柄の革巻きも丁寧だ。どこかの冒険者から奪ったものだろう。
腰に差した。予備の武器があるに越したことはない。
逃げた三体の足跡を確認する。三方向にばらけていた。洞察力が足跡の深さを読み取った。二体は大股で全力疾走していた。一体だけ歩幅が小さい。足跡も浅い。最も小柄な個体だ。
そいつを追った。
足跡は分かりやすかった。パニックで逃げた個体は道を選ばない。折れた枝、踏み荒らされた下草。追跡は難しくなかった。
五分ほど走ると、木の根元にうずくまる緑色の背中が見えた。
震えていた。
シンは足を止めた。一瞬だけ躊躇いが生じた。戦意を失った相手の背中を斬ることへの抵抗。しかしこいつは明日には別の誰かを襲う。マルタやリオのような人間を。
剣を抜いた。
一息で終わらせた。
麻袋に三つ目の鼻を詰めて、残り二体の追跡を始めた。
——
足跡が途切れた。
地面の痕跡が突然消えている。最後の足跡から先、下草に乱れがない。
シンは足を止めた。
息を殺し、耳を澄ました。風が木々を揺らす音。虫の声。鳥の羽ばたき。それ以外に……
——上だ。
洞察力が警告を発した。理屈ではない。長年の会議で培った、場の空気が変わる瞬間を読む感覚。殺気というほど鋭くはないが、何かがこちらを見ている気配を感じていた。
シンは動かなかった。
視線だけを上げた。
三メートルほど上の枝に、ゴブリンがしがみついていた。両手に石を握っている。シンが真下を通過する瞬間を待っていたのだ。
目が合った。
ゴブリンが甲高い叫び声を上げて石を投げた。シンは半歩横にずれた。石が地面に当たって砕けた。
「……木に登る知恵はあるのか」
——感心ではなく、警戒だった。追い詰められた個体は予測できない動きをする。会社で追い詰められた人間と同じだ。
ゴブリンが枝から飛び降りてきた。
落下の勢いごと、迎え撃った。
——飛び降りてくる軌道は直線だ。空中では方向を変えられない。剣道の出小手と同じ要領で、落下点に切先を置く。
ゴブリンの体重が、そのまま刃に乗った。
重い手応えが腕に伝わって、すぐに軽くなった。小さな体が地面に転がり、動かなくなった。
四体目。
麻袋を開けた。もう顔をしかめるだけで手は止まらなかった。慣れたくはなかったが、慣れた。
残り一体。
シンは最後の足跡が向かった方角を見た。日が傾いている。森の中の光が橙色に変わり始めていた。
深追いはするな、と頭の中で声がした。自分の声だった。しかしすぐに打ち消した。
——今日逃がせば、明日には別の誰かを襲う。マルタやリオのような人間を。
足跡を追った。
——
最後の足跡を追って走った。足跡の間隔は広い。全力で逃げていた。
追いつけない。
朝の戦闘を思い出した。二体が同時に襲いかかった瞬間、自分でも説明できない速度で身体が動いた。あの感覚があれば、この程度の距離は一瞬で詰められる。
しかし今、身体は十八歳の脚力そのままだった。速くはある。しかしあの時のような、内側から弾けるような加速がない。
——何が違う。
考える余裕はなかった。木々の隙間に緑色の背中が見える。距離は二十メートルほど。じわじわと離されている。この先に川があるなら足止めになるかもしれないが、森を抜けられたら見失う。
視線が足元を走った。手頃な石が目に入った。拳より一回り大きい、角のある石。
シンは走りながら拾い上げた。
剣道に投擲の技術はない。しかし手首の使い方は知っている。面打ちの要領……最後の一瞬で加速する、あの感覚。
石がゴブリンの脚に当たった。甲高い悲鳴とともに転がった。すぐに起き上がろうとしたが、脚を引きずっていた。
シンは距離を詰めた。これも一息で終わらせた。
五体。
麻袋に最後の鼻を詰めた。もう手は止まらなかった。慣れたくはなかったが、慣れた。
シンは剣を鞘に収めた。
辺りは暗くなり始めていた。街に向かって歩き出した。
森の中は暗かった。二つの月が木々の隙間から光を落としているが、足元はほとんど見えない。木の根を踏まないよう、一歩ずつ確かめながら歩いた。
——
自分の足音だけが聞こえた。
——同じだ。前の世界でもそうだった。結華がいなくなってから、毎晩歩いた。道場の前。学校の前。商店街。隣の駅。その次の駅。歩く範囲だけが広がって、何も見つからなかった。
七百日。
七百日歩いて、一度も見つけられなかった。
今また歩いている。世界が変わっても、やっていることは同じだった。暗い道を一人で歩いて、いない娘の影を探している。
違うのは、あの頃は手に何も持っていなかったことだ。今は腰に剣がある。前の世界では何の力もなかった。ただ歩くことしかできなかった。
……今度は、歩くだけじゃない。
木々が途切れた。街の灯りが見えた。門の松明が夜風に揺れていた。
シンは足を止めて、振り返った。暗い森が静かに広がっていた。
——結華は森の向こうにいるのか。この街にいるのか。それとも、自分の足では届かないほど遠くにいるのか。
分からない。何も分からない。あの頃と同じだ。
だが、今度こそ必ず。自分を変えてでも間に合わせる。
——
シンがギルドに戻ると、カウンターにいたのは別の女性だった。
「すまない。薬草採取とゴブリン討伐の報告だ」
「はい、お預かりしますね。私、夜番のバーバラです。よろしく」
黒髪を肩に流した女性が立ち上がった。エミリアより年上で、二十代半ばといったところか。切れ長の目が知的な印象を与えていたが……
シンは視線の置き場に困った。
胸元が大きく開いた服装だった。ギルドの制服なのかバーバラの趣味なのか判断がつかない。四十五歳の中身が十八歳の目を必死に制御していた。
「薬草が二十と、ゴブリン五体だ」
麻袋をカウンターに置いた。目線はバーバラの顔に固定した。
バーバラが麻袋を開け、中を確認した。眉一つ動かさなかった。慣れていた。
「ゴブリン五体。薬草が二十。確認したわ。遅くまでお疲れ様」
淡々とした口調だった。ただ若干艶めかしさがあった。エミリアとは対照的だ。
「報酬は鉄貨二枚と銅貨一枚です」
バーバラは報酬を並べた。
「それと、シンさん」
バーバラは続けた。
「なんだ」
「今日登録して初日で薬草を倍量にゴブリン討伐……悪くないです。ただ……」
バーバラが静かにシンの目を見た。
「無理をする人ほど、長く続きません」
——長く続ける。七百日の夜道が、まだ胸の底に残っていた。
「……探している人がいる」
言葉がシンの口から自然に出ていた。
——言うつもりはなかった。初対面の受付嬢に打ち明けるような話ではない。しかし言葉は勝手に漏れていた。
バーバラが少しだけ目を細めた。
「……人探し、ですか」
「ああ」
「その方は冒険者ですか? 冒険者であればギルドの登録名簿から照会できますが」
「分からない。冒険者かどうかも、今どこにいるかも」
「お名前は?」
「……滝下結華、あるいは、ユイカ・タキシタ」
バーバラがカウンターの機械のようなものを操作した。
「少なくとも、この支部の登録名簿にその名前はありません。ただ、登録していないだけかもしれませんし、別の街の支部にいる可能性もあります」
シンは頷いた。
——結華が同じ名前を使っている保証はない。俺が「シン」を名乗ったように、結華もこの世界で別の名前を選んでいるかもしれない。容姿すら変えている可能性がある。神はそう言った。
手がかりが、何もない。
「この街にいるのかしら?」
「分からない。この世界のどこかにいる。それだけしか分からない」
バーバラはしばらく黙っていた。詮索はしなかった。カウンターの向こうで何人もの冒険者を見てきた人間の間の取り方だった。
「なら、なおさら長く続けることね」
報酬の横に、一枚の紙を添えた。
「ギルドの情報網は広いの。ランクが上がれば他の街の支部にも照会ができるわ。Cランク以上なら、人探しの依頼を出すことも可能よ」
シンは紙を見た。ランク昇格の条件が書かれていた。
「焦る気持ちは分かるわ。でも死んだらおしまい。探したくても探せないわ」
エミリアとは違う種類の言葉だった。優しさではなく、事実。
シンは報酬を受け取って、頷いた。
「……肝に銘じる」
——死んだら探せない。分かっている。分かっていても……焦りは募る。
「宿は決まってるかしら? この先の角を曲がった風車亭が安くて清潔よ。その報酬で一泊と食事分くらいにはなるわ。ギルドからの紹介だと言えば、一食タダになるから。忘れず伝えるのよ」
バーバラが事務的に、しかし少しだけ口角を上げて言った。
「……助かる」
報酬をポケットにしまい、ギルドを後にした。
——
ギルドを出ると、夜の空気が肌に触れた。
見上げた空に、月が二つあった。
一つは白く、もう一つは青みがかっている。二つの月が並んで浮かぶ夜空は、この世界が元の場所とは決定的に違うことを静かに突きつけていた。
——
風車亭はすぐに見つかった。木造の小さな宿で、看板に風車の絵が描いてある。
中に入ると、太った女将が出迎えた。ギルドの紹介だと告げると、女将の顔がほころんだ。
「あら、バーバラちゃんの紹介? じゃあ今夜のシチューはサービスね」
通された部屋は狭かったが、バーバラの言う通り清潔だった。
ベッドに腰を下ろして、天井を見つめた。
初日が終わる。結華の手がかりは、まだない。
——
夢の中で、遥がお茶を淹れていた。
深夜のキッチン。いつもの湯呑み。何も言わずに差し出される一杯。向かいに座る遥の顔は穏やかで、何も聞かなかった。何も聞かないことが、遥の優しさだった。
目が覚めた。
天井が暗かった。二つの月の光が窓から細く差し込んでいた。
頬が濡れていた。
「……俺はどうして、もっと言葉をかけてやらなかったんだろうな」
誰もいない部屋で、声が広がった。広がって消えた。
——全部、一言で済ませた。一言で届くと思っていた。遥がいたから届いていただけだった。
シンは寝返りを打って、目を閉じた。眠れなかった。
読んでいただきありがとうございます。
伝えたいことを言葉にするのは難しいよなと思いながら書きました。
皆さんは伝えたいのに伝えられなかった言葉はありますか。




