第39話「軌跡の模倣――繋がりの明光」
ルカはエレナリアに覆いかぶさっていた。必死に耐えていた。
ボルゾイは血まみれのまま倒れていた。ピクリとも動かなかった。
エレナリアは、体が崩れ始め一歩も動けなかった。
ビアは、氷漬けになり、動けずにいた。
「ロクディモフ様、体が凍って動けないですかね……これどうすればいいですかね?」
「……」
シンはボロボロだった。体をわずかに動かすことができただけだった。その時シンの体がわずかに緑色に光った。
——助けて……誰か助けて……エレナが……エレナが死んじゃう……
——誰か……ルカを、エレナを回復するぞい……死んでしまうぞい……
——誰か……ルカを守って……
——シンさん……助けて……お願い助けて……
「……」
——なんだ……この声は……頭が痛い……腕の感覚がない……体が動かない……今どうなってる……
「ひぇひぇ! 五号! いつまでそうしているつもりだ! お前まで死んでしまったら遊べないじゃないか、さっさとどけ!」
ロクディモフは目を見開いてルカの背中を杖で叩き続けた。
「ヤダよ……誰が……誰がどくもんですか!」
ルカはエレナリアを強く抱きしめた。
——痛い……痛い……誰か助けて……お母さん……お……おとう……さ……
「ひぇひぇ! いい加減にしろ! ボクの手を煩わせやがって」
ロクディモフはルカの肩甲骨付近を強く殴った。鈍い音がした。
「ぐっ……」
——……肩が……腕に力が入らない……負けるもんか……
——……ルカを……エレナを……シン……どこぞい……
——……ルカ……ルカ……? 大丈夫ですか……?
——シンさん……立って……みんなを守って……
「シンさん……立って……みんなを守って……私を助けて……助けて……シンさん」
ビアが泣いていた。
——ビ……ビア……? 泣いているのか? 意識が戻ったのか?
「シンさん、聞こえるの……? お願い……助けて……」
ビアは息も絶え絶えにつぶやいていた。
ビアの体とシンの体が緑色の光で包まれた。
次の瞬間、シンは暗い部屋の中にいた。
目の前にはロクディモフがいた。何度も杖を打ち下ろしてきた。シンに痛みはなかった。だが、恐怖、苦しみ、怯え、混乱、そして、あきらめの感情で渦巻いていた。
やめてと叫ぶ声が聞こえた。だが、ロクディモフが手を止めることはなかった。
場所が変わった。
知らない男がいた。眼鏡をかけた顔立ちの整った男だ。優しい光が体を包んだ。恐怖の感情はゆらぎ、安堵に変わった。感情が途切れた。
今度は白い部屋に来た。女性の声がした。恐怖、焦燥、怯え、平穏……そして無だった。
最後は寝室のような場所にいた。ロクディモフがいた。感情は平坦だった。
だが、その時のロクディモフの行為は平穏ではなかった。
シンの怒りを呼び覚ますには十分だった。
——ビア……お前はこんな目にあっていたのか……ロクディモフ……ロクディモフ!
その行為は日をまたぎ続いた。別の日にも続いた。
シンの怒りを燃え上がらせるには十分だった。
——ロクディモフ……こいつは何としても倒さなければならない……
——いや……
——こんな奴は……生かしては置けない……ビアをこんな目に合わせたやつは……放っておけばエレナが……ルカが……結華が……
――ここでこいつは殺さなければならない……
シンは身体に力を入れた。立ち上がろうとした。体はピクリとも動かなかった。脳だけが冴えていた。体を駆け巡る血液が沸騰するようだった。
怒り……怒り……ただ、その感情だけがシンの体に、心に渦巻いていた。静かに、静かに、激しく渦巻いていた。
——誰か! 誰か力を貸してくれ……ロクディモフを倒す力を……
——シン……聞こえるぞい……? 力が貸せるなら貸したいぞい……
——シン……ルカを守って……そのための力ならいくらでも貸します……
——シンさん……皆を守って……助けて……
——……私の代わりにこいつをぶん殴って……
シンの心の中に、ボルゾイの、エレナリアの、ビアの、ルカの、皆の声が聞こえた。
確かに聞こえた。
幻聴ではなく心にはっきりと聞こえた。
——ああ……力を貸してくれ……
シンが心に願ったその時、全員の体が薄く青く光った。
シンの体が
強く青に光った。
シンは、ゆっくりと体を起こした。
猛々しい濃青色の光の内側で、優しい薄緑色の光がシンの体を包んでいた。
折れた腕が、体の打撲が治っていった。
——これは、ボルゾイの……?
シンは立ち上がった。普段とは違う視界が見えた。音が聞こえた。空間全体を捉えるような感覚だった。周囲の生き物の声が聞こえ、その数が見渡さなくても手に取るようにわかった。
——ビアの力か……? ボルゾイは左後方か……。ロクディモフ、ルカとエレナは右前方……ビアはその近くにいるな……
ロクディモフはルカを殴るのに夢中で気付いていなかった。
シンは、踏み込んだ。
体が一気に前に出た。
普段とは異なる入りの速さに、
いつもの爆発的な加速が掛け合わさった。
瞬間、シンは姿を消した。
消えたように見えた。
シンが次に姿を現したとき、
ロクディモフの脇腹に、シンの前蹴りが突き刺さっていた。
「ひぇひぇっ!?」
ロクディモフが吹っ飛んだ。
ビアが縫い留められている氷の柱にぶつかった。
氷の柱にひびが入った。
ロクディモフは腹を押さえて転げまわっていた。
シンはルカに手をかざした。優しい薄緑色の光がルカを包んだ。傷がみるみるうちに治った。
シンはエレナリアにも手をかざしたが、
体の崩れは戻る気配がなかった。
——ロクディモフはまだ倒れているな。
シンは駆けた。ボルゾイの元に走るとボルゾイを治療した。
「エレナを頼む……俺はロクディモフを……す……」
シンはそう告げるとゆっくりと一歩ずつロクディモフに向かって歩き出した。
「い……今なんといったぞい……? それにその力は……?」
ボルゾイは目を見開いていた。シンの背中を見た。シンの背中は普段と異なる禍々しい気配を放っていた。
ルカはロクディモフの方に向かっていくシンの顔を見た。
「ひっ……」
ルカは息をのんだ。
——何……あいつのあんな顔見たことない……無表情で……それなのに……すごく怖い……
「ひぇひぇ……シン・タキシタぁ……あんなにボコボコにしたのにどこにそんな力が……」
ロクディモフが腹を押さえて、よろよろと立ち上がった。
シンの方をにらんだ。
「うるさい……もうしゃべるな、ロクディモフ」
シンは、ゆっくりとロクディモフに近づいた。
ゆっくりと一歩ずつ一歩ずつ……
「ひぇひぇ……なんだお前! ボクに何をする気だ!? 四号! ボクを助けろ!」
ロクディモフはビアの方を見た。
「いや……ですかね……お前の言うことなんか誰が聞くもんですかね……」
ビアは小さく舌を出した。
「ひぇひぇ! 聖女様の御力が! 浄化の力から解放されただと……!? クソ! 使えない! これだから不良品は! 二号や三号のように一度殺してから使えばよかった!」ロクディモフが唾を吐いた。
「……ロクディモフ……その汚い口を閉じろ……」
シンはボソボソとしゃべった。
「ひぇひぇ……ボクに近寄るな!」
ロクディモフは後ずさりをした。
シンは手をかざした。周囲に風が吹き、ロクディモフの体の自由を奪った。
氷の柱が地面から伸び始めた。
ロクディモフは氷の柱に縫い留められ、身動きが取れなくなった。
「ひぇひぇ……お前! 何でこんな力が使える!?」
「聞こえなかったか……しゃべるなロクディモフ」
シンが手を握ると氷がロクディモフの口をふさいだ。
「不思議なものだな……俺はこんなにも怒っているのに、激しい怒りがあるというのに、お前を、人を殴ることに抵抗がある。俺は心底自分をお人よしだと思うよ。お前もそう思わないか? ロクディモフ」
「昔話をしようか……俺の娘が十二の時にサンドバッグが欲しいといった。女の子なのにそんなものでいいのかと聞いたが、これがいいと笑っていた。サンドバッグが届いてからは毎日叩いていた。試合に負けた日は泣きながらいつもの倍叩いていた。そんな姿を見るのも愛おしいと思ったよ」
「だが、お前がビアにやったことはそんな娘の、年頃の娘たちの笑顔を消す。畜生にも劣る行為だ」
「ロクディモフ……俺はお前を許さない。大切な仲間を、ボルゾイを傷つけた。ルカを、エレナを侮辱し、傷つけた。ビアを、俺を好きだといってくれた女性を、体を傷つけ、心を操り、ほしいままにして壊した」
「ロクディモフ、俺はお前を絶対に許さない……」
「お前のような人間は生かしておけない。いや、人間ではない。お前はケダモノだ。お前を殴るのにすら良心の呵責を感じてしまう……だから、お前を娘にあげたサンドバッグだと思うことにしたよ。トレーニングのための道具だ。お前も人のことを道具だと思ってるからそれでいいだろう? ロクディモフ。お前はただの道具だ。拳を鍛えるための。ただ、叩くためにある道具だ」
「娘は毎日、必ず五十回叩いていた。負けた日には百回だった」
「そうだな……俺は今日お前に散々負けたからな……百回にしよう」
「さあ、心の中で数を数えろロクディモフ……」
「お前の人生の最後のカウントだ……」
シンは腰を落とし、
右腕を引き、 握りこむと、
まっすぐに突いた。
続けることだけは一人前だと言われた男が
七百日間、娘を探して歩き続けた男が、
その娘であるルカが、結華が、
十九年間積み上げた力を借りて、
疾風怒濤の百連打。
続けることだけは一人前の男は拳を止めなかった。
手が裂けても、 骨がきしんでも、 止めなかった。
一言しか伝えられない男が、
異世界で出会った仲間たちのために怒り、
言葉を吐き出しながら、
その怒りを拳に乗せて、
矮小で、ろくでもない男を殴り続けた。
命を刈り取ってもいいという覚悟を持って殴り続けた。
六十を数えたところで、 氷の柱が砕け、
ロクディモフが吹っ飛び崩れ落ちた。
その衝撃で、 ビアを拘束していた氷の柱も砕け散った。
「ひぇひぇ……もう……やめてくれ……助けてくれ……何でもする……お願いだ……」
ロクディモフは息も絶え絶えだった。地面に頭をこすりつけていた。
だが、その行為がシンの最後の心の堤防を決壊させた。
「ビアがやめてくれといった時にお前はやめたのか! お前が……お前が! それを言うのか……このクズがぁああ!」
「もうしゃべるなロクディモフ……もう何も……」
「不快な言葉を一言たりとも……」
シンはロクディモフを右手で持ち上げると左手に力を込めた。
赤い光がシンの左胸から左腕の先に伸びていく。
禍々しい稲光と轟音を立てながら赤い光が迸っていた。
——ダメ……シンさん……そんな怖い顔してちゃダメ……! そんなつらい思いをしながら人を殴っては……殺しては……ダメ……私の大好きな……シンさん! 優しいシンさんじゃなくなっちゃう……
ビアが走った。
シンに抱き着いた。
「やめて……シンさん……もう私のために自分の心を殺すのはやめて……自分を傷つけるのはやめて……もう……もう十分だから……」
「……ビア」
シンはビアを見てロクディモフを地面に降ろした。
ロクディモフは後ずさりしながら杖を掴んだ。血を吐いた。
「ぐっ……げほ……ひぇひぇ……シン・タキシタぁ……お前は……ボクが必ず殺す……覚えてろ……必ずだ」
ロクディモフは忽然と姿を消した。
静寂が訪れた。周囲に渦巻いていた風が、氷が消えた。シンや仲間たちを包んでいた、青い光も消えた。
「ビア……大丈夫か……」
シンはビアを見下ろしていた。
「大丈夫じゃない……大丈夫じゃないです……私……汚れちゃいました……」
ビアは目を伏せた。震えていた。
「シンさんを愛する資格も……愛される資格も……いっぱいアプローチするって言ったのに……もう無理……」
ビアはシンの服を握りしめ、大粒の涙をこぼした。
「……そんなことない……」
シンは唇を噛んだ。
「……」
ビアは口に手を当て体を丸めた。
「ビアはキレイだ……それに……」
シンはビアの背中に手を添えた。少し考えながら背中をさすった。
「お前はいつも俺を楽しくさせてくれる、支えてくれる『すばしっこくて健気なキツネですかね』……だ……」
シンはビアの顔を覗き込んでいた。
「シンさん……ほんとに土石流のような優しい亀ですかね……」
ビアは少しだけ口角を上げた。
シンを抱きしめた。
そして、「大好き……」とつぶやくと、
ゆっくりとシンの口に自身の唇を近づけた。
シンはビアを見つめた。
——結華と同じ年頃だが……
シンはビアの頭に手を置いた。
頭を優しくなでた。
そのまま、目を閉じた。
二人の体は緑色の光に包み込まれていた。
——シンさん、大好き……ありがとう……
——ビア……すまない……
ビアは一滴の涙を流した……
ルカはエレナリアを抱きしめたまま、その様子をじっと見ていた。
「お父……さん……どうして……」ルカは消え入るような声でつぶやいた。
ボルゾイだけがその声をきいていた。
静かにルカの肩を抱いた。
=============【作者より】
読んでいただきありがとうございます。
ビアは救われたのでしょうか……本当につらいお話です。




