第2話「シン(伸二):間に合ってくれ——シンという名前」
伸二が木立を抜けた先に、女性が子どもを庇ってうずくまっていた。
女性の前に、小さな緑色の怪物が三体いた。
女性は見知らぬ女性だった。結華ではなかった。三十代前半くらいの、日焼けした肌をした女だった。亜麻色の髪を後ろで一つに結び、薬草を入れるポケットがいくつもついた前掛けをしていた。腕に小さな子どもを抱きかかえて、身体を丸めていた。背中で全てを受け止めようとする姿勢だった。子どもに覆いかぶさるようにして、自分の身体を盾にしていた。
——遥もああしただろうか。考えるな。今はいい。
伸二は、思考をかき消すように、小さく横に首を振った。
緑色の怪物の身長は伸二の腰ほどだった。濁った黄色い目。尖った耳。筋張った細い腕に、粗末な木の棍棒を握っていた。醜悪な笑みを浮かべて、女性に迫っていた。
伸二は剣を抜き、緑色の怪物を見た。
——ゴブリン。ゲームや漫画で見たことがある。だが、今の俺に倒せるのだろうか……
鞘から滑り出た刃は、竹刀とは全く違う重さを持っていた。金属の重量が手首にかかった。剣を握る手には自然と汗がにじんでいた。
伸二は、女性と子供を見た。女性と目が合った。目が潤み、体が震え、歯が鳴っていた。女性は力強く子供を抱きしめ直した。か細い声が聞こえた。
「助けて……ください……」
伸二は、目を見開いた。首を振った。
——こざかしいことを考えるな。今はただ、剣を振るだけだ。これは竹刀だと思え……
伸二は、三体の緑の化物を見た。
——あれは……背の小さな人間だ。自分より背の低い相手とは何度も戦ったことがある。
伸二は、大きく息を吸って、吐くと、剣を握りなおした。三十年かけて作った握りの形に、柄の太さがちょうど収まった。竹刀を剣に持ち替えただけだ。身体が剣の扱いを知っていた。
「こっちだ……」
伸二は低い声で言った。
三体が同時に振り返った。濁った黄色い目が伸二を捉えた。小さな身体が警戒の姿勢を取った。棍棒を構え直した。
——三体か。分が悪いが、やるしかない……一体を見るな。全体を見ろ……剣道と同じだ。起こりを読む……
伸二は中段に構えた。剣先を正面のゴブリンの喉元に据えた。剣道の基本。足は肩幅。左足の踵を僅かに浮かせた。重心を前の膝に載せた。いつでも踏み込めるように、いつでも引けるように。
三対の目が伸二を値踏みしていた。ゴブリンはじりじりと近づこうとしていた。
——見える。
ゴブリンの動きは、伸二の目には全て見えていた。目の動き。肩の傾き。膝の角度。棍棒を握る手の力の入り方。剣道の有段者が見切れないような動きではなかった。
三体が同時に動いた。正面の一体が棍棒を振りかぶり、左右の二体が回り込もうとしていた。挟撃。
——連携か……だが、遅い。
正面の棍棒が振り下ろされた。手首の返しだけで剣の腹で受け、流した。衝撃を殺した。弾くのではなく、逸らした。
——剣道の応じ技と同じだ。力で押し返す必要はない。相手の力を利用して軌道を変えるだけでいい。
伸二は崩れた正面のゴブリンには構わず、半歩右に動いた。足運びは剣道で身についたすり足に近い移動だ。女性と子どもを背中に置く位置を維持した。囲ませないように、背後を取らせないように、常に三体が視界に入る角度に立った。
左のゴブリンが飛びかかってきた。
——踏み込みが浅い。着地点が読める。
伸二は助走距離と脚の角度から到達点を読み、左半身の前方横薙ぎで弾いた。剣の腹が小さな身体を捉えた。地面に転がった。
右のゴブリンが棍棒を突き出してきた。突きの軌道は直線的で、剣道の突き技に比べれば予備動作が大きかった。伸二は半身でかわした。風が頬を撫でた。棍棒が空を切る音がした。
三体が距離を取った。散開し、警戒していた。無策に突っ込んでこなくなった。こちらの実力を測っていた。
——警戒しているようだな……それでも、遅い。落ち着いて対処すればやられることはない……
伸二は洞察力を働かせるように三体を見た。位置関係。呼吸の間隔。棍棒を握り直す仕草の頻度。正面の一体が他の二体より半歩前に出ていた。
——こいつがリーダー。残りの二体は正面の動きを見てから動く。つまり正面を崩せば残りも崩れるだろう。
正面のゴブリンの肩が沈んだ。
——来る……
棍棒を振り上げる動作の起点。肩が落ちて、膝が曲がる。剣道で何千回と見てきた「打つ前の予備動作」と同じだ。種族が違っても、振りかぶるという動作の構造は変わらないようだ。肩甲骨が動き、上腕が引かれ、握った武器に遠心力が載った。全ての動作には起こりがある。
ゴブリンの腕が上がるより先に、伸二の剣が突き出ていた。
後の先。相手の起こりを読んで、動作が完成する前に刺した。切先がゴブリンの胸を貫いた。
竹刀とは違う感触が手に伝わった。肉を裂き、骨に当たり、貫通した。刃が生き物の中を通る感覚。伸二が三十年間、一度も経験したことのない感触だった。
胃が持ち上がった。喉の奥に酸っぱいものが込み上げた。
手は止めなかった。剣を引き抜き、構え直した。正面のゴブリンが崩れ落ちた。
残り二体。
左のゴブリンが目を泳がせていた。棍棒を握る手が震えていた。
右のゴブリンは違った。逆に目が据わっていた。棍棒を握り直して、低い姿勢から突進してきた。
それと同時に、左のゴブリンが女性の方に向き直った。
怯えて逃げるのではなく、弱い方を狙った。
シンは焦った。体をひるがえした。
——間に合わない……右のゴブリンを迎え撃てば、左が女性に届く。左を止めに行けば、右の突進を背中に受ける。距離が足りない。二体同時は……間に合わない……
伸二は唇を噛んだ。その瞬間、身体が弾けた。
伸二は一歩を踏み出した。その距離は大きく、速かった。右のゴブリンの棍棒が振り下ろされる軌道の内側に滑り込み、剣の腹で弾き上げた。
手首が痺れた。
弾き上げると同時に左に走った。
左のゴブリンが女性に棍棒を振り下ろそうとした。
その棍棒と女性の間に、剣が、体が割り込んでいた。
木と金属がぶつかる音が周囲に響いた。
——なぜ間に合った……?
剣を押し返した。左のゴブリンが体勢を崩して後退した。すかさず横薙ぎ。首を捉えた。
右のゴブリンは棍棒を捨てて森に逃げた。
伸二は追わなかった。
伸二は息を吐いた。長く、深く、深呼吸をした。
剣の先が震えていた。手の震えではなかった。腕全体が、初めて生き物を斬った反動で微かに揺れていた。竹刀で人を打つのとは違う、命を断つ感触が、手から肩を通って胸の奥まで残っていた。
-——動揺するな……今はその時じゃない……
再度大きく呼吸をすると、シンは女性の方を向き、ゆっくりと、落ち着いて声をかけた。
「大丈夫か」
女性は子どもを抱きしめたまま、目を丸くして伸二を見上げていた。恐怖と安堵が混じった顔だった。頬に涙の筋が光っていた。
「あ……ありがとうございます……助かり……ました」
声が震えていた。しかし言葉は明瞭だった。パニックから立ち直ろうとしていた。
言葉が通じた。当たり前のことではないはずだった。異世界だ。言語が違って当然だ。しかし今、この女性の言葉が日本語として——いや、日本語ではない。日本語ではないのに、意味が分かった。音は聞いたことのない響きなのに、頭の中で意味に変換されていた。
「怪我はないか……」
「私は大丈夫です。この子も……」
腕の中の子どもが、母親の服を握りしめて小さく泣いていた。五歳くらいの子どもだ。亜麻色の髪に少し癖があり、頬がまるかった。膝に草の染みがついた簡素な服を着ていた。
伸二は子どもと目線を合わせる高さに膝をついた。
「もう大丈夫だ。怖かったな」
子どもが母親の腕の中から、少しだけ顔を覗かせた。大きな目が、涙で濡れたまま伸二を見た。泣いた直後なのに、好奇心が恐怖を押し返し始めている目だった。
その目を見たとき、伸二の心の奥で声が響いた。
「空手の方がかっこいい」
——結華が五歳か六歳の頃。伸二が剣道道場に連れて行った日、同じ建物の一階にあった空手道場の窓に張りついて、白い道着の子どもたちを見ていたな。怖がるでもなく、退くでもなく、ただ真っ直ぐに見ていた。その目と同じだな。
「強い目をしてるな」
伸二は目を見ながら子どもに伝えた。
子どもが少しだけ身体を起こした。母親の腕の中から、もう少しだけ伸二の顔を見た。
「あの……お名前をお伺いしても?」
女性が声をかけてきた。伸二は立ち上がった。
「……滝下伸二だ。遠くから来た。この辺りの地理には詳しくない。近くに街はあるか」
女性が眉を寄せた。口の中で繰り返している。異世界の舌には馴染まない音の並びなのだろう。
「タキシ……タ……シン……シンジ……」
明らかに発音に困っていた。
「……シンでいい。シン・タキシタだ」
伸二は短く言った。
「シンさん、ですね。私はマルタ・ホルンといいます。この子はリオ。町の近くで薬草を摘みに出たところを襲われてしまって……」
——マルタ。リオ。覚えた。
「では町まで送る。道中にまだ化物がいるかもしれない」
「ありがとうございます。シンさん」
——シン。伸二の「シン」だ。結華に気付いてもらうために。その可能性を残す必要がある。会社では「滝下」。遥には「あなた」。結華には……最後に何と呼ばれたか、思い出せなかった。「お父さん」と呼ばれていた頃がある。「あいつ」と呼ばれた頃がある。最後は「あいつ」とすらも呼ばれていなかった……かもしれない。
——
シンが前に立ち、マルタとリオが後ろに続いて森の道を歩いた。シンは剣の柄に手をかけたまま、周囲を警戒した。木漏れ日が足元を照らしていた。
道中、マルタが少しずつ話してくれた。この先にある町のこと。薬草採取の仕事のこと。夫を数年前に病で亡くしたこと。リオと二人で暮らしていること。
「ゴブリンに遭ったので冒険者ギルドに報告をしないといけません。一緒に来てくれますか?」
マルタがシンに尋ねた。
「ああ……」
——ギルドか。情報を集めるためにもいいかもしれないし、経緯を聞かれたら答えなければいけない。
「ありがとうございます」
マルタは微笑んだ。
三人がしばらく歩いていると森を抜け、平原に出た。平原をしばらく歩くと石造りの門があった。
城壁は高くはないが厚みがある。交易路に面した正門は馬車が二台並んで通れる幅があり、門の奥に見える通りには荷馬車が行き交い、商人の声が混じっていた。門番が二人立っていた。槍を持ち、革鎧の上に紋章入りの外套を羽織っていた。
マルタが会釈をすると門番は手を振った。三人は中に入った。門の向こうには、石畳の通りが伸びていた。
小さいが活気のある町だった。見たことのない建物の様式。木と石を組み合わせた低層の建築。知らない言葉の看板。人々の服装は素朴で、中世ヨーロッパの田舎町をどこか思わせる様子だった。
しばらく歩くと木と石で組まれた二階建ての建物が目に入った。町の中では一番大きい。入口の上に、剣と盾を組み合わせた紋章が掲げられている。
「あれが冒険者ギルドです」
マルタはリオを連れて建物の中に入っていった。
シンは一度足を止め、建物を見上げた。そして、リオを見た。
母親の手を握った小さな手。日焼けした肌。膝に草の染みがついた服。
——守れた。
この世界で最初に出会った人間を、守ることができた。
ゴブリン三体。大した脅威ではなかったのかもしれない。この世界の基準では、最弱の部類なのかもしれない。それでもあの場に駆けつけて、剣を抜いて、二人の前に立った。
——今度は、間に合った。
その事実だけが、シンの胸の中で静かに温かかった。
読んでいただきありがとうございます。
書きながら、言葉にできなかったことへの後悔について、少し考えていました。
皆さんはいかがでしょうか。




