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第1話「滝下伸二:歩道橋から落ちた夜――仲間思い」

 伸二は結華の、娘の背中を見ていた。


 伸二は走っていた。追いかけていた。身体が限界を訴えていた。膝が軋んだ。約二年、毎晩のように夜道を歩き続けた脚は歩くことには耐えられるが、走るようにはできていなかった。


 八月の空気が伸二の肺に貼りついた。汗が目に入った。結華の背中が遠ざかった。あの子は十九歳だ。空手で全国大会を制した足をもっていた。四十五歳の元役員の脚が追いつけるはずがなかった。


 追いつけるはずがなくても、伸二は走った。


 結華が歩道橋の階段を上がっていた。


 伸二の足が止まった。


 結華は歩道橋の真ん中で、手すりに手をかけた。下を見ていた。


 伸二の全身の血が凍った。


「結華ッ!」


 伸二は叫んだ。階段を駆け上がった。膝が悲鳴を上げた。数段飛ばし。錆びた手すりを掴んで身体を引き上げた。肩が外れそうになった。構わなかった。


 結華の身体が手すりの向こう側に傾いていった。


 ——間に合ってくれ。


 その一語が頭の中で弾けた。白い廊下を走った記憶が一瞬だけ重なった。病院の蛍光灯。看護師の背中。「滝下さん」と呼び止められて、「間に合いませんでした」と言われた日を思い出した。


 ——あの日は間に合わなかった。


 身体が考えるより先に動いた。


 ——いつもそうだった。最初から最後まで、俺はそうだった。言葉より先に身体が動いた。言葉の代わりに身体を差し出した。それしかできない不器用な人間だった。それしかできないまま四十五年を過ごした。


 伸二は結華の背後から腕を回した。結華を抱きしめた。


 ——娘を、抱きしめたのはいつ以来だろうか。小さい。こんなに小さかったのか。こんなに軽かったのか。骨張って痩せている。二年前に家を出た時よりも、ずっと。二年間でこの子は……考えるな。今は離すな。


 結華が暴れた。


「離して……ッ!」


 伸二の腕の中で結華の体がねじれた。空手三段の肘が伸二の脇腹に入った。息が詰まった。視界が白くなりかけた。それでも腕を解かなかった。


 二人分の体重が手すりの外側にかかった。


 伸二の足が浮いた。


 二人の体は地面を離れていった。手すりの縁が指の間を滑り抜けていった。踏みとどまる力はもう残っていなかった。結華を抱きしめた両腕を解けば片手で手すりを掴めたかもしれない。


 伸二にその選択肢は存在しなかった。


 伸二は落ちながら、結華の頭を胸に押しつけた。背中を下にした。衝撃が結華にいかないように。それだけが、この身体にできる最後のことだった。


 風が伸二の耳元で唸った。夏の夜の生ぬるい風が、下から上に吹き上げてきた。


 伸二は思った。


 ——何を。何を言えばいい。


 すまなかった。愛していた。お前が生まれた日から、ずっと。一言しか出せなくてすまなかった。会場に行けなくてすまなかった。お前の空手を汚してすまなかった。遥を守れなくてすまなかった。お前を守れなくて……。


 伸二の口からは全部、出てこなかった。


 最後の瞬間にすら、言葉が出なかった。


 削って削って、最後に何も残らなかった。


 腕の中の温度だけが確かだった。結華の体温。十九歳の、生きている温度。骨張った肩。震えている背中。


 その温度を手放さないまま、伸二の意識が途切れた。


 ——


 伸二は目を開けた。


 辺りは一面真っ白だった。


 ——ここはどこだ……何だ……


 伸二は周囲を見渡した。壁も天井も床も区別がつかなかった。無機質な光が均一に空間を満たしていた。影がなかった。影を作るものが何もなかった。足元に立っている感覚はあるが、床があるのかどうかも分からなかった。白い光の上に立っているような、あるいは、白い光の中に浮いているような場所だった。


 ——体が痛くない。背中から落ちたはずだ。


 伸二は自分の腕の中を見た。


 結華はいなかった。


「結華!」


 伸二は叫んだ。声が白い空間に吸い込まれた。反響しなかった。声がどこまでも拡散して、薄れて、消えていった。


「結華ッ!」


 伸二はもう一度叫んだ。走り出そうとした。どこに向かえばいいか分からなかったが、立ち止まっている場合ではなかった。


 ——結華はこの空間のどこかにいるかもしれない。あの子の声が聞こえるかもしれない。


「落ち着きなさい」


 声がした。どこからともなく。温度のない声だった。温かくも冷たくもない。事務的ですらない。ただそこにある声。空間そのものが喋っているような声だった。


「あなたの娘は無事です。別の場所で、同じように目を覚ましている」


「……誰だ」


「神、で構いません。他に適切な呼び方がないので」


 人影のようなものが白い空間の中に浮かんでいた。輪郭が曖昧だった。形を持っているのか持っていないのかが判然としない。顔のようなものはあった。表情は一切読み取れなかった。


 伸二は目を細めた。役員室で何度となくやったように、相手の表情を読もうとした。瞬きの間隔。口角の角度。目線の動きを。何も読めなかった。見るべきものがなかったのだ。


「結華は本当に無事か」


「無事です。あなたと同じように」


 伸二の肩からは、少しだけ力が抜けた。


「ここは死後の世界か」


「いいえ。通過点です」


 ——通過点。どういう意味だ。


「あなたと、あなたの娘には、転生の機会が与えられます。別の世界で、新しい生を始めることができる。容姿もすべてを変えて」


 伸二は黙った。


 ——言葉の意味は理解できる。受け入れるには唐突だが、一つだけ確認しなければならない。他の何よりも大切なことだ。


「結華も……同じ世界に行くのか」


「同じ世界です。ただし、同じ場所に降り立つとは限りません」


「結華も容姿を変えられるのか」


「変えられます。しかし、それは娘の選択です。あなたが関与することはできません」


 伸二は拳を握った。


 ——同じ世界のどこかに結華がいる。容姿が変わっているかもしれない。名前が変わっているかもしれない。手がかりがないまま、広さも分からない世界で娘を探す。この二年間と同じだ。二年間夜道を探しても見つからなかった。だが、結華は同じ世界にいる。それだけで十分だ。


「転生に際して、あなたの過去の経験に基づくスキルが付与されます」


 神は説明を続けた。文字が白い空間の中に浮かんだ。宙に書かれた文字が、伸二の目の前に静かに並んでいく。


【中級剣術 LV1】【洞察力 LV3】【隠蔽 LV2】【仲間思い LV1】


 伸二は文字を一つずつ見た。


 ——中級剣術。剣道五段。三十年近く竹刀を振り続けた手が、この世界ではスキルになるのか。初級ではなく中級か。才能はないが続けることだけは一流だと顧問に言われたのは大学二年の秋だった。続けた時間の分だけ、少し先から。


 ——洞察力。LV3。人を見る力。嘘を読む力。数字の裏を探る力。管理者の、役員の経験から得たもの。


 ——隠蔽。LV2。


 伸二の胸が痛んだ。


 ——数字を整えてくれ。上司にそう言われたのが始まりだった。少しだけ。少しが積み重なって、気づいた時には引き返せなかった。気配を消す技術。痕跡を隠す技術。嘘を本物に見せる技術。あの仕事で身につけたものが……こんなものがスキルになるのか。


 後ろめたい。使えるとしても。一度でも手を汚した事実は、世界が変わっても消えない。


 そして最後の一行。


【仲間思い LV1】


 伸二は黙って、その文字を見つめた。


「……仲間思い? どういうスキルだ」


「大切な者への想いが、力となる」


 神はそれだけ答えた。


「詳細は……」


 伸二は質問を重ねた。


「……」


 神は答えなかった。伸二の問いが白い空間に吸い込まれた。返事はなかった。まるで聞こえなかったかのように、あるいは、答える必要がないと判断したかのようだった。


「先ほど伝えた通り容姿と年齢の変更が可能です。どうしますか」


 神は話を変えた。仲間思いの詳細は、伏せられたままだった。


「容姿は変えない」


 伸二は即答した。


 ——この顔は遥が好きだと言った顔だ。結華が知っている父親の顔だ。変えてしまったら、娘が振り返ったときに分からなくなってしまう。結華を見つけなければならない。


「年齢だけ戻す。十八歳に」


 ——若い身体なら走れる。探せる。あの歩道橋で追いつけなかった脚が、今度は追いつける。


「では。行ってください」


 神がそう告げると、白い空間が揺れ始めた。足元の感覚が薄れていく。光が強くなっていく。


 伸二はポケットに手を入れた。何かが触れた。小さなケースがあった。手のひらに収まるサイズ。遥との結婚記念日に買った写真入れだった。


 伸二は中を開けた。家族三人の写真が一枚入っていた。


 結華がまだ笑っていた頃の写真だった。


 遥が真ん中にいて、結華が右側で笑っていて、伸二が左側にいた。笑えていなかった。


 なぜここにあるのかはわからなかった。神に聞く時間はもうなかった。


 写真入れをポケットに戻した。


 白い光が視界を覆った。


 伸二は最後にもう一度、スキルの文字列を見た。


【仲間思い LV1】 大切な者への想いが、力となる。


 ——自分がそんな人間だとは、到底思えない。守ろうとした人間を、守れなかった。何度も。守ろうとするたびに、相手をもっと悪い場所に追いやった。守りたいという意思だけは本物だった。守り方が、全て間違えていた。それでもこの世界は、それを力に変えるという。


 次の世界では、見つける。


 結華を見つけて、今度こそ言葉を届ける。


 何を言えばいいのかはまだ分からない。一言すら出てこないかもしれない。歩道橋の上で結華を抱きしめた瞬間にも、一言も出せなかった男だ。


 それでも。


 遥が一生かけて翻訳してくれた言葉を、今度は自分の口で伝えたい。


 まだ言えていない言葉を。


 一度も言えなかった言葉を。


 白い空間が消えた。意識が沈んでいった。沈んでいく底に、遥の声が聞こえた気がした。


「一言に収めるのが大変なのよ、あの人は。本当はもっと言いたいことがあるはずなのに、全部削って削って、最後に残ったのが一言なの」


 ——


 伸二は背中に湿った土の感触を感じて目を覚ました。


 視界に広がったのは、見たこともない木々の天蓋だった。幹の太さも葉の形も知らないものだった。影を作って、風に揺れていた。葉の隙間から光が差し込んでいた。白い空間の無機質な光とは違う、温度のある光だった。光の中に埃が舞っていた。


 伸二は身体を起こした。体を起こそうと腕に力を入れた瞬間、違和感があった。身体が軽い。


 伸二は立ち上がった。重心が低い。剣道で培った身体感覚がそのまま若い筋肉に残っていた。


 ——軽い。動ける。これなら動ける。


 伸二は手を見た。皺がなかった。手が若かった。ただし、剣道のタコだけが残っていた。右手の人差し指と中指の付け根。柄を握り続けた場所。竹刀を振った証が、十八歳の肌の上にそのまま刻まれている。


 伸二はポケットを探った。写真入れがあった。


 開けた。


 遥が笑っていた。結華が笑っていた。伸二がそこにいた。


 ——ある。よかった。


 伸二は写真入れを閉じて、ポケットに戻した。


 伸二の腰には剣があった。柄に手をかけた。抜くつもりはなかった。ただそこにあることを確かめたかった。


 ——変わったものと、変わらないものがある。剣道のタコは残っている。写真は残っている。この顔は残っている。剣は竹刀ではなくなった。


 伸二は、目をつぶり、深呼吸をした。


 ——結華を探す。


 伸二はこの先、何をすればいいかは分からないまま歩き出した。計画より先に体が動いた。以前に、遥に何度も言われた。「順番が逆よ、あなたは」遥はもういない。順番が逆のまま、異世界の森の中を歩いた。


 ——


 森は広くなかった。獣道のようなものがあった。道を辿った。空が見え始めた。青い空だった。日本の空と同じ色に見えた。いや、少し違うような気がした。気のせいかもしれなかった。


 伸二が森を抜けかけた時。


 悲鳴が聞こえた。


 右の方からだった。女性の声。高い、恐怖に引き裂かれた声だった。


 考えるより先に足が動いた。


 ——間に合ってくれ。


 その一語が頭の中で弾けた。白い廊下の蛍光灯。間に合いませんでした、と言われた日。歩道橋の手すりが指の間を滑り抜けていく感触。腕の中の温度。最後の瞬間に一言も出せなかった喉。


 ——今度こそ、間に合ってくれ……今度こそ……


 木々の間を縫い、枝を払い、土を蹴った。十八歳の身体が前に出る。地面を蹴って前へ、前へ。


「結華!」


 伸二は叫んだ。


 伸二は悲鳴を聞いて走り出した。反射的に娘の名前を呼んだ。白い空間から異世界に降り立って、この身体で誰かに発した言葉が。


 娘の名前だった。

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