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独立挿話④「滝下結華:たった一言」

 結華は中学三年生。十五歳の七月。空手道選手権大会当日の朝は、いつもより早く目が覚めた。


 午前五時十二分。カーテンの隙間から差し込む光はまだ薄く、部屋の中は青白い影に包まれていた。結華は布団の中で天井を見つめたまま、心臓の音を聞いていた。


 ――鼓動が早い。緊張しているのか。高揚(こうよう)しているのか。どっちだろうか。


 県予選を勝ち抜いた時、道場の師範が「お前は本物だ」と言った。嬉しかった。その時最初に頭に浮かんだのは報告する相手、あいつが家にいないということだった。


 結華は布団を跳ね上げて起き上がった。


 ――考えるな。今日は試合だ。


 着替えを済ませてリビングに降りると、キッチンから音がしていた。まな板の上で包丁が規則正しく何かを刻む音。出汁の匂い。遥はもう起きていた。いや、もしかしたら寝ていないのかもしれない。


「おはよう、結華」遥が料理を作りながら、結華に顔を向けた。


「おはよう」


「お弁当、もうすぐできるからね。唐揚げ多めにしたから」


「……別に普通でいいのに」


「試合の日は特別でしょう。あ、卵焼きの端っこもちゃんと入れたから」


 結華は何も言わずにテーブルについた。朝食はご飯と味噌汁と焼き鮭、あとはほうれん草のおひたしだ。


 食べながら、ちらりとテーブルの向かい側の席を見た。いつも通り空だった。


「お父さんは?」


 聞くつもりはなかった。口が勝手に動いていた。聞いてから後悔した。答えは分かっていた。


 遥の手が一瞬止まった。味噌汁をよそうお玉が、鍋の縁で小さく音を立てた。


「昨日の夜、遅くに帰ってきて……今、寝てる」


「ふうん」


「起こす?」


「いい。寝かしといて」


 それだけ言って、結華は味噌汁に口をつけた。


 味噌汁を飲み干した時、廊下から足音がした。


 重い。低い。不規則な寝起きの人間の足音だった。


 リビングの扉が開く。


 滝下伸二が立っていた。


 スウェット姿、髪は乱れたまま、目の下の隈が目立ち、四十一歳の男が三時間の睡眠で無理やり起き上がった、そんな姿だった。


 結華は箸を止めなかった。視線も上げなかった。ただ焼き鮭の最後の一切れを口に運んで、咀嚼(そしゃく)した。


 伸二はリビングに入ってきて、結華の斜め前、視界に入るか入らないかの位置に立った。


 沈黙が続いた。


 遥がキッチンからちらりと二人を見た。助け舟を出そうか迷っている顔だった。でも出さなかった。


 伸二が息を吸った。


「……勝って来い」


 一言。


 たった一言だった。声は低く、(かす)れていて、抑揚(よくよう)がなかった。朝の空気を揺らすほどの力もない、小さな声だった。


 それだけ言って、伸二は黙った。


 何かを付け加えようとしたのかもしれなかった。頑張れとか、応援してるとか、見に行けなくてすまないとか。言いたいことはあったのかもしれなかった。でも伸二の口からは一言しか出なかった。それがこの時の彼の全てだった。


 結華の箸が止まった。


 ほんの一瞬。味噌汁の椀を持つ左手に、わずかに力が入った。


「……別に、言われなくても勝つし」


 声が震えなかったことだけが、結華の小さな誇りだった。


 椀をテーブルに置いて、立ち上がった。食器をキッチンに運ぶ際に、伸二の横を通り過ぎた。目は合わせなかった。


 遥から弁当を受け取ると、スポーツバッグに詰め込んだ。ずしりと重い。


 玄関で靴を履いた。スポーツバッグを手に持ち振り返ると、廊下の奥にまだ伸二が立っていた。


 さっきと同じ場所。ただ立って、娘の背中を見ていた。まだ、言いたいことがあるような顔をしていた。


 結華は靴紐を結ぶふりをして、少しだけ時間を作った。自分でも何を待っているのか分からなかった。何かもう一言あるかもしれないと思ったのか。


 言葉はそれ以上、何も来なかった。


「行ってきます」


 ドアを閉めた。


 朝の空気が頬に当たった。空は高く、雲ひとつなかった。大会日和だった。


 結華は歩き出した。ポケットの中で拳を握っていることに気づいた。空手の拳ではない。ただ握っているだけの、子どもの拳だった。


 勝って来い。


 一言が頭の中で何度も反響した。声のトーン。掠れ具合。間の取り方。言い終わった後の沈黙。全部覚えていた。覚えたくなかったのに、勝手に刻まれていた。


「……うるさいな」


 誰もいない朝の道で、結華は呟いた。


 目の奥が少しだけ熱くなったのは、朝日のせいだと決めた。


 ――――――――――


 全国大会、中学女子個人組手の部。


 滝下結華は、全試合を一本勝ちで制した。


 表彰台の上から会場を見渡した。客席の隅から隅まで。端から端まで。一人残らず。


 父の姿はなかった。


 分かっていた。最初から分かっていた。だから別に、がっかりなんかしていない。期待していなかったのだから、裏切られたことにはならない。理屈は合っている。完璧に合っている。


 金メダルを首にかけられた瞬間、会場が拍手で満たされた。師範が泣いていた。チームメイトが叫んでいた。どこかで遥が手を振っているのが見えた。


 それなのに……結華の目は、もう一度だけ、空席を探した。


 いるわけがない。分かっている。


 分かっているのに探してしまう自分が、一番腹が立った。


 ――――――――――


 家に帰ると、伸二はいなかった。


 また会社に戻ったのだと遥が言った。結華は「ふうん」とだけ言って、自分の部屋に上がった。


 布団に入ってから、天井を見つめた。今朝の一言が、まだ頭の中にあった。


 勝って来い。


 ――勝った。勝ったよ。


 その報告をするのかは決められないまま、結華は目を閉じた。


 ――――――――――


 翌朝、結華が朝食のテーブルについた時、伸二はまだ帰っていなかった。昨夜も泊まり込みだったらしい。


 遥が味噌汁を注ぎながら、何でもないことのように言った。


「お父さん、今朝メールくれたよ。一言だけ」


「……なんて」


 遥が携帯の画面を見せた。


 よくやった


 一言。また一言だった。


 結華は味噌汁を啜って、何も言わなかった。


 その日の夕方、空手道場で稽古をしている時、師範に呼ばれた。


「滝下。お前、今日やけに気合が入ってるな」


「そうですか」


「全国獲った翌日にその目をしてる選手は初めて見たぞ。何があった」


 結華は拳を握って、正拳突きの構えに戻った。


「……別に。勝って来いって言われたから、次も勝つだけです」


 師範が少し目を細めた。何か察したような顔をして、それ以上は聞かなかった。


 結華は突きを繰り返した。一本、また一本。正確に、鋭く、迷いなく。


 勝って来い。


 よくやった。


 二言。父親がくれた言葉は、全部合わせても十文字程度しかなかった。他の家の父親なら、もっと長い言葉をくれるのだろう。おめでとう、すごいな、誇りに思う、よく頑張ったね。そういう温かくて、分かりやすくて、受け取りやすい言葉を。


 でも結華の父親は二言しかくれなかった。


 ――それが、この上なく腹立たしくて。


  それが、確かに胸の真ん中に届いていることが、もっと腹立たしかった。


 結華は拳を振り続けた。道場に打撃音だけが響いていた。


 これが、滝下結華が十五歳の頃の話。


「勝って来い」と、「よくやった」。


 たった二言が父から娘へ届いた、最後の穏やかな記憶だった。


 ――――――――――


 高校一年の夏——。


 二度目の全国大会の朝、結華の携帯が震えた。


 画面を見る前に、誰からか分かった。父親は相変わらず家にいない。昨夜も帰ってこなかった。部長から役員に昇進してから、伸二が家にいた夜は片手で数えられるほどになっていた。


 メッセージを開く。


 二連覇だ


 一言。


 結華は画面を見つめた。空手をやっている娘に向けて、この男なりに言葉を変えてきた

 ――その不器用さが、可笑しくもあり、腹立たしかった。


「お父さんから?」


 遥がキッチンから顔を覗かせた。唐揚げの匂いが朝の空気に混じっている。去年と同じ匂い。弁当の中身も去年とほぼ同じだろう。唐揚げ六個、卵焼き、おにぎり三つ。遥の中では大会の朝の弁当はもう完成されたメニューになっていた。


「……まあ」


「なんて?」


「二連覇だ。だって」


 遥が笑った。去年と同じ笑い方。少しだけ目元が緩んで、少しだけ寂しそうで、でも嬉しそうな笑い方。


「去年と変えてきたのね。お父さんなりに考えたんだろうね」


「一言で何を考えるんだか」


「一言に収めるのが大変なのよ、あの人は。本当はもっと言いたいことがあるはずなのに、全部削って削って、最後に残ったのが一言なの」


 結華は携帯をポケットにしまった。返信はしない。去年もしなかった。


「ねえ結華」


「なに」


「お父さんのこと、嫌い?」


 唐突な質問だった。結華は箸を止めた。味噌汁の中で豆腐が揺れていた。


「……嫌いっていうか」


「うん」


「いないのに、いるみたいな顔してるのがムカつく」


 遥は何も言わなかった。黙って味噌汁をよそって、結華の隣に座った。


「お母さんは怒らないの」


「何に?」


「お父さんが全然帰ってこないこと。私の試合にも来ないこと。全部」


 遥はしばらく味噌汁の湯気を見つめていた。答えを探しているのではなく、答えをどう包むか考えているような沈黙だった。


「怒ってるよ」


「嘘。全然怒ってないじゃん」


「怒ってる。でもね、怒ってるのと、信じてるのは、別のことなのよ」


 結華には分からなかった。十六歳の結華には、その二つが同時に存在できることが理解できなかった。怒っているなら信じられないはずだし、信じているなら怒らないはずだ。


 でも十六歳の結華には、その答えはまだ分からなかった。


 ――――――――――


 高校一年、全国大会。


 結華は、去年と同じく全試合を一本勝ちで制した。


 中学三年から高校に上がり二年連続の優勝。二連覇。会場が沸いた。去年よりも大きな拍手。去年よりも多いカメラのフラッシュ。師範が今年も泣いていた。チームメイトが今年も叫んでいた。


 表彰台の上から会場を見渡す。去年と同じ動作。去年と同じ順路で、客席の隅から隅まで目を走らせる。


 いない。分かっている。去年も分かっていた。今年も分かっていた。


 分かっているのに探す自分が、去年よりも腹が立たなかった。諦めたわけではない。慣れたのだ。期待しないことに慣れた。探すだけ探して、いないことを確認して、それで終わりにする。そういう流れに慣れてしまった。


 それが寂しいことなのだと、結華はまだ気づいていなかった。


 帰りの電車で、遥が携帯の画面を見せた。去年と同じだ。


「お父さんから」


 既読は三分前。メッセージは一行。


 天(あっぱれ)


 一言。今年も一言だった。


 去年は「よくやった」。今年は「天晴だ」。やはり変えてきている。毎年一言と決めているわけではないのだろう。削って削って、最後に残るのがたった一言なのだ。遥が朝言ったことが、少しだけ分かるような気がした。


「……なにが天晴だよ。見てもないくせに」


「写真送ったら、すぐ返ってきたんだよ」


「写真で見るのと、会場にいるのは違うでしょ」


 遥は否定しなかった。その通りだと分かっているからだ。


「ねえお母さん」


「ん?」


「来年も出る。三連覇する」


「うん。知ってる」


「お父さんに言わなくていいから」


「言わないよ。でもお父さんは知ってると思うよ」


 結華は窓の外に目を戻した。


 ――――――――――


 高校二年の六月十二日、火曜日。


 その日は普通の朝だった。


 結華は普通に起きて、普通に顔を洗って、普通に朝食を食べた。遥は普通に弁当を作って、普通に「行ってらっしゃい」と言った。普通の朝。何の変哲もない六月の朝。


 学校に着いて、教室に入った瞬間……空気が変わった。


 変わったというより、刺さった。教室の中の視線が一斉に結華に集まり、集まった次の瞬間に一斉に逸れた。そのどちらも痛かった。


 何が起きたのか分からなかった。


「滝下さん」


 隣の席の女子が声をかけてきた。目が泳いでいた。


「あの、テレビ……見た?」


「テレビ?」


「お父さんの会社の……」


 教室の後ろで誰かがスマートフォンの画面を見せ合っていた。笑い声が聞こえた。笑い声の中に、聞き取れる単語があった。


 粉飾決算。役員。滝下伸二。


 結華の足が止まった。


 廊下に出た。スマートフォンを取り出した。検索窓に「滝下」と打ち込んだ。指が震えていた。震えていることに腹が立った。


 画面にニュースの見出しが並んだ。


【速報】大手IT会社、粉飾決算で役員ら処分——滝下伸二取締役らに懲戒解任・刑事告訴の可能性


 粉飾決算の実態 数年にわたる利益の水増しが明らかに


「組織ぐるみの隠蔽体質」第三者委員会が厳しく指摘


 結華はスマートフォンを握ったまま、廊下の壁に背中をつけた。そのまま座り込んだ。


 見出しの文字が頭に入ってこなかった。読んでいるのに意味が理解できなかった。粉飾決算という文字が、父親の名前と並んで画面の中にある。ただそれだけの事実が、飲み込めなかった。


 教室のドアが開いて、誰かが廊下に出てきた。結華と目が合って、すぐに逸らされた。


 結華はスマートフォンをポケットにしまった。教室に戻った。自分の席に座った。鞄から教科書を出した。表紙を開いた。一行目の文字を目で追った。何も読めなかった。


 昼休み、屋上に出た。


 弁当を開けた。遥が作った弁当。唐揚げ、卵焼き、おにぎり。大会の日じゃないから唐揚げは三個だった。卵焼きの端っこはちゃんと入っていた。


 一口も食べられなかった。


 携帯が震えた。遥からだった。


 結華、学校大丈夫? 何かあったら早退していいからね


 遥はもう知っているのだ。昨夜のうちに、あるいはもっと前から。


 返信を打つ。


 大丈夫。


 ――大丈夫なわけがなかった。


 屋上のフェンスに指をかけて、空を見上げた。六月の空は曇っていた。灰色の雲が低く垂れ込めて、太陽がどこにあるのか分からなかった。


 伸二から連絡はなかった。一言もなかった。


 翌日。


 教室に入った瞬間、机の上に紙切れが置いてあった。


 折り畳まれたメモ用紙。開くと、太いマジックで一言だけ書いてあった。


 うそつきの娘


 結華はそれを丁寧に四つに折って、ポケットにしまった。表情は変えなかった。変えるものかと思った。


 一時間目が始まる前、後ろの席の男子が隣の男子に話しかけていた。声を潜めているつもりで、全く潜まっていなかった。


「滝下んちの父親、やばくね? ニュースで名前出てたぞ」


「粉飾でしょ? 金ごまかしてたんだろ」


「犯罪者じゃん」


「犯罪者の娘って、やっぱ遺伝すんのかな」


 笑い声。


 結華はシャープペンシルを握る手に力を入れた。芯が折れた。小さな音がして、折れた芯が机の上に転がった。


 何も言わなかった。


 何も言えなかったのではない。言わなかった。殴ることもできた。空手三段の拳で、黙らせることはできた。でもそれをしたら……「犯罪者の娘はやっぱり暴力的だ」と言われるだけだ。何をしても、何もしなくても、結果は同じだった。


 五時間目の体育の後、着替えている時に気づいた。体操着がなくなっていた。


 見つけたのは放課後だった。校舎裏のゴミ捨て場の隣。泥がついていた。結華はそれを拾い上げて、泥を手で払った。


 帰り道、遥にメッセージを送った。


 体操着汚れたから洗っておいて


 遥からの返信は早かった。


 分かった。お風呂沸かしておくね。


 遥は何があったかは聞かなかった。聞かない代わりに、その夜の夕食には結華の好物のコロッケが出た。聞かないけど、分かっている。遥のやり方はいつもそうだった。


 伸二はいなかった。もう何日も帰っていなかった。


 一週間が経った。


 紙切れは二日に一回か、三日に一回。ランダムに、机の上に現れた。


 犯罪者の家族


 インチキ野郎の娘


 お前の大会の成績もインチキじゃないの?


 最後の一枚だけ、結華の手が震えた。


 全国制覇。一年目から出場して二連覇した成績。朝も夜も道場で拳を振り、指の皮が剥けてテーピングで巻いて、それでも突きを繰り返して勝ち取ったもの。それを……インチキ。


 四つに折る手が震えた。折れなかった。紙が皺になった。


 空手部の練習に行った。道場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。変わったというより……変わらなかった。チームメイトは話しかけてくる。師範は普段通り厳しい。正拳突き百本、前蹴り百本、組手。何も変わっていない。


 でも。


「滝下、今日動き硬いぞ」


 師範に言われた。


 分かっている。分かっているけど、拳を振るたびに頭の中で声が反響する。


 ――犯罪者の娘。インチキ。うそつき。


 拳が鈍る。踏み込みが浅くなる。腰が入らない。空手を始めてから一度も感じたことのない、拳を振ることへの躊躇い(ためらい)が、指先に纏わりつい(まとわりつい)ていた。


 その日の練習後、一人で居残って道場の隅でサンドバッグを叩いた。


 一発。二発。三発。


 ――駄目だ。音が違う。いつもの音じゃない。乾いた、いい音が出ない。拳の先に、何かが詰まっている。


 四発目を打った時、目の奥が熱くなった。


 五発目を打った時、涙が頬を伝った。


 六発目は打てなかった。サンドバッグにもたれかかるようにして、結華は泣いた。声を殺して、肩を震わせて、道場の隅で一人きりで泣いた。


 泣きながら、思った。


 ――あいつのせいだ。


 ――あいつが嘘をついたから。あいつが不正をしたから。あいつがニュースに名前を出したから。私が積み上げたものが全部汚れた。勝って来いと言ったくせに。二連覇だと言ったくせに。よくやったと、天晴だと言ったくせに。


 ――あいつは、嘘をついていた。


 一言の言葉が胸に刻まれていたことが、今は何よりも悔しかった。あんな言葉で嬉しくなった自分が、信じられないほど馬鹿に見えた。


 結華は涙を拭いて、立ち上がって、もう一度サンドバッグに向き合った。


 拳を握る。構える。踏み込む。


 ……打てなかった。


 拳が、止まった。


 家に帰ると、遥がリビングにいた。テレビは消えていた。ここ数日、遥はテレビをつけなくなった。ニュースが流れるからだ。


「おかえり」


「……ただいま」


「ご飯、先に食べる? お風呂にする?」


「お風呂」


 浴室で湯船に浸かりながら、携帯を見た。


 伸二からの連絡はなかった。一週間、一度も。一言すらなかった。勝って来いも、二連覇だも、よくやったも天晴だも……全部、もうこの手には届かない場所に行ってしまったような気がした。


 湯船の中で、学校で貼られたメモ用紙のことを思い出した。四つに折った紙切れ。その中に書かれた一言。全部取ってある。捨てられなかった。捨てたら負けた気がした。何に負けるのかは分からないけれど。


 ――――――――――


 六月が終わる頃、結華は空手部の練習を休みがちになった。


 七月の全国大会が近づいていた。三連覇がかかっていた。去年までの結華なら、この時期は誰よりも道場にいたはずだった。拳を振り続けることだけが結華の全てだった。


 それが止まった。


 師範が電話をかけてきた。遥が出た。結華は出なかった。


「結華、師範が心配してたよ」


「……ちょっと体調悪いだけ」


「大会、どうする?」


「……出るよ」


 出ると言った。言ったけれど、身体が動かなかった。道着に袖を通すたびに、道場に向かう足が重くなった。


 ――お前の大会の成績もインチキじゃないの?


 紙切れの一言が、拳の先に張りついていた。


 七月。全国大会。


 結華は出場した。


 二回戦で負けた。


 判定。僅差。相手は去年なら一本勝ちで倒していた選手だった。踏み込みが半歩遅れた。拳が半寸ずれた。腰が入りきらなかった。師範は何も言わなかった。何も言わないことが、全てを語っていた。


 帰宅して、結華は自分の部屋に直行した。


 道着をカバンから出して、床に投げた。金メダルの代わりに持ち帰った敗北が、部屋の空気を重くしていた。


 携帯を開いた。父親の連絡先を表示した。父親からの最後のメッセージは、六月十二日よりもずっと前。高校一年の大会の朝の「二連覇だ」のまま止まっていた。


 あれからもう一年以上。


 一言は、もう届かない。


 結華は携帯の画面を閉じて、布団に潜り込んだ。


 暗闇の中で、天井を見つめた。紙切れのことを考えた。伸二の一言のことを考えた。


 全部がぐちゃぐちゃに混ざって、何が怒りで何が悲しみで何が寂しさなのか、区別がつかなくなった。


 一つだけ確かなことがあった。


 もう、あの頃には戻れない。


 勝って来い。よくやった。二連覇だ。天晴だ。


 父親がくれた全部の言葉。合わせてたった十七文字。


 それが自分の全てだった時代は、もう終わった。


 十七文字は胸の中で砕けて、破片になった。


 破片は鋭くて、触れるたびに痛かった。


 捨てればいいのに、捨てられなかった。それが結華の、どうしようもない弱さだった。

 ========== 【作者より】


 読んでいただきありがとうございます。


 結華の前世のお話です。伸二が与えた一言は彼女のかけがえのないものでした。クラスメイトの与えた一言は彼女を縛るものでした。沈黙によって失われた言葉は残酷なものでした。

 エレナリアが言っていましたが、言葉は祈りであり、呪いでもある——その言葉をかみしめながら書いたお話です。


 本日はこのあと21時10分に、23話公開して終了です。

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