独立挿話③「滝下伸二:粉飾決算」
祖父の工場が傾いたのは、伸二が中学二年の冬だった。
原因は取引先の倒産だった。大口の発注がなくなり、設備投資の借金だけが残った。祖父は黙って働き続けたが、数字は嘘をつかなかった。受注は減り、従業員は一人また一人と辞めていき、最後には祖父と父だけが工場に残った。
伸二は毎日、学校から帰ると工場に行った。手伝えることなどほとんどなかったが、掃除をし、工具を並べ、切粉を集めた。祖父はそれを見ても何も言わなかった。ただ一度だけ、伸二の頭をぽんと叩いた。それが祖父なりの感謝だったのだと、ずっと後になって分かった。
工場は伸二が中学三年の夏に閉じた。
祖父は閉めた日も黙っていた。シャッターを下ろす手が震えていたかどうか、伸二は覚えていない。覚えているのは、その夜の食卓で祖父が茶碗を持つ手がいつもと同じだったことだけだ。何も変わらない顔をしていた。変わらない顔の奥で何が壊れていたのかは、伸二には見えなかった。
見えなかった……のではなく、見なかったのかもしれない。
その日から、伸二の中に一つの誓いが刻まれた。
俺は絶対に、家族にお金で苦労をかけない。
言葉にしたことはなかった。誰にも言わなかった。ただ胸の底に沈んだまま、石のように重く、確かに、そこにあった。
――――――――――
結華が生まれたのは、伸二が二十六歳の時だった。
分娩室の前で待っている間、伸二は廊下の壁にもたれて天井を見ていた。祖父の工場が閉じた日の食卓を思い出していた。茶碗を持つ祖父の手。変わらない顔の奥で壊れていた何か。
俺は絶対に、家族に貧乏をさせない。
あの日の誓いが、胸の底で脈を打っていた。
産声が聞こえた。
看護師に呼ばれて分娩室に入ると、遥が疲れ切った顔で笑っていた。腕の中に、小さな塊があった。赤くて、皺だらけで、目を閉じて、拳を握っていた。
伸二は遥の隣に立って、その塊を見下ろした。
何か言わなければならない気がした。おめでとう。よかった。ありがとう。何でもいい、何か。
「……小さいな」
出たのはそれだった。
遥が笑った。疲労の中で、けれど確かに笑って、言った。
「抱いてあげて」
伸二は腕を出した。看護師が赤ん坊を乗せてくれた。両腕の中に、三千グラムに満たない重さが収まった。
軽かった。
こんなに軽いものを守るために、これからの全てを使うのだと——伸二はその瞬間に思った。思ったのに、言葉にはならなかった。腕の中の結華を見つめて、遥の顔を見て、また結華を見て。
「……結華」
名前を呼んだ。
遥が決めた名前だった。伸二は反対しなかった。反対する理由がなかった。結華。結ぶ花。いい名前だと思った。
――――――――――
入社して十五年。伸二は大手企業の部長職に就いていた。
才能はない。続けることだけは一流。
顧問の言葉通りだった。伸二は入社以来、一日も休まず、一つの仕事も手を抜かず、積み上げてきた。出世は遅かった。同期の中で部長になったのは後ろから数えた方が早い。それでも辞めなかった。辞める理由がなかった。家族がいた。守るものがあった。祖父の工場のようには——させない。
部長になった日、遥に報告した。
「部長になった」
「おめでとう。すごいね、あなた」
「……そうか」
「すごいよ。ずっと頑張ってたもんね」
遥は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、伸二は思った。これでいい。これで、遥と結華を守れる。もう少し頑張れば、もっと楽をさせてやれる。
もう少し。もう少し。
「もう少し」は永遠に終わらないということを、伸二はまだ知らなかった。
――――――――――
最初の一言は、役員昇格の前の年の春だった。
「滝下君、この数字を少し整えてくれないか」
言ったのは、当時役員の上司だった。
戸惑いはあった。
「整える」という言葉の意味は分かっていた。
数字を合わせる。利益を水増しする。決算書を実態と乖離させる。会計の世界ではそれを粉飾と呼ぶ。犯罪だ。
伸二は最初、断ろうとした。
断ろうとした……が、断り切れなかった。
その時上司が標的にしたのは、伸二の直属の部下だった。木村。妻と幼い子どもがいる三十代の男。真面目で、実直で、仕事に手を抜かない人間だった。
「君がやらないのならば、直接木村に頼む」
上司がそう言い始めた時、伸二の中で何かが動いた。
「いえ、私がやります」
このときは行動よりも言葉が先に来た。
伸二は言った。言ってしまった。木村には妻と子どもがいる。伸二にも遥と結華がいる。でも伸二は部長だ。木村は平社員だ。家族も、社員も守れる立場にあるのは伸二の方だ。
守る……その言葉が、伸二の足を踏み外させた。
「そうか。じゃあ滝下君、この件は君に任せるよ」
上司はそう言って笑った。笑顔の裏に何があったのか、伸二には分かっていた。分かっていて、その先に踏み込んだ。
木村を守るために。家族を守るために。
それが、伸二が粉飾決算に深く加担することになった最初の一歩だった。
一歩目は、まだ引き返せる距離だった。
二歩目も、おそらくは。
三歩目で、足元の地面が崩れた。
「少し」が積み重なった。四半期ごとの決算のたびに、数字を「整える」作業が増えた。最初は一箇所だったのが二箇所になり、三箇所になり、やがて決算書全体が虚構の上に成り立つようになっていた。
伸二は気づいていた。全て分かっていた。洞察力とはそういうことだ。数字の裏にある嘘を読む力がある。自分が作った嘘の構造も、完璧に把握していた。
把握していて……止められなかった。
断ればよかった。最初の一歩で断ればよかった。
断れる立場ではなかった……という言い訳が、頭の中に常に存在していた。その言い訳を持っている自分への嫌悪が、伸二の自己評価の根底を蝕んでいった。
――――――――――
伸二が役員になったのは、四十二歳の冬だった。
部長から役員へ。入社から二十年。
辞令を受けた廊下で、伸二は窓の外を見た。冬の夕暮れが都心のビル群を橙色に染めていた。
これで遥と結華を、本当に楽にしてやれる。
そう思った。
年収が上がる。社会的な地位が上がる。家のローンも楽になる。結華の大学の学費も心配いらなくなる。祖父の工場のようにはさせない、という二十年来の誓いが、ようやく完成形に近づいた気がした。
帰宅して遥に報告した。夜の十一時。遥はいつも通りお茶を用意して待っていた。
「役員になった」
遥の手が一瞬だけ止まった。お茶をよそうポットの傾きが微かに変わった。
「おめでとう」
笑った。笑っていた。
少しだけ寂しそうだった。
伸二はそれに……気づいた。
気づいたのに、何も言わなかった。
遥が寂しそうなのは、伸二が今以上に家にいなくなることを分かっているからだ。部長の時ですら月に一度しか休めなかった。役員になれば、もっとだ。
――でも……これは家族を守るためだ。遥も結華も楽にしてやるためだ。今はもう少しだけ我慢してくれ。もう少し。
「もう少し」を何度繰り返してきたか、伸二はもう数えていなかった。
――――――――――
そして、運命の日が来た。六月十二日。火曜日。
その日は普通の朝だった。
伸二はオフィスにいた。前夜も泊まり込みだった。朝の七時、コーヒーを飲みながらメールを確認していた。
一通のメールが目に入った。社内全体宛の緊急通知。
件名:第三者委員会の設置について
伸二は画面を見つめた。
文面を読む前に、全てが分かった。洞察力がそう告げていた。第三者委員会。調査。粉飾決算。全部、表に出る。
自分の名前が出る。
結華の父親の名前が……滝下伸二という名前がニュースに出る。
伸二はスマートフォンを手に取った。遥に連絡しなければ。結華に……。
――何を伝える。何と言う。
「すまない」か。「これからニュースに出るかもしれない」か。「結華を守ってくれ」か。
どれも足りなかった。どれも遅すぎた。
伸二はスマートフォンを机に置いた。指が震えていた。
遥には電話をした。夜、帰れない日が続いている時だけ使う、深夜の通話。今は朝だったが、遥は二コール目で出た。
「もしもし、あなた? 珍しいね、朝から……」
「遥」
声が自分のものではないように掠れていた。
「会社のことで……ニュースに出るかもしれない。俺の名前が。よくない形で」
長い沈黙があった。
「……分かった」
遥の声は静かだった。
「結華には、私から話す。あなたは……」
「俺は……」
――何を言えばいいのか分からなかった。すまないと言うべきなのか。全部話すべきなのか。木村のことを。最初の一歩を。全部。
「今は仕事に集中して。あなたがやるべきことをやって。結華のことは私が守るから」
遥の声は変わらなかった。穏やかで、静かで、芯がある声だった。怒っていないわけではないだろう。でも今この瞬間に伸二が必要としているのは糾弾ではなく支えだと、遥は分かっていた。
「……すまない」
「帰ってきた時に話して。全部」
「ああ」
電話を切った。
伸二はスマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
――結華。
学校に行っているはずだ。もうすぐ教室に入る。教室の中で、クラスメイトがスマートフォンでニュースを見る。
伸二は娘が何を感じるか、正確には想像できなかった。怒るだろうか。悲しむだろうか。恥ずかしいと思うだろうか。
一つだけ分かることがあった。
結華が積み上げてきたもの……全国制覇。二連覇。朝も夜も道場で拳を振り、指の皮が剥けてテーピングで巻いて、それでも突きを繰り返して勝ち取ったもの。
それが汚れる。
俺のせいで。
その認識が、鉄の塊のように胸の中に落ちた。
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その後、結華が学校でいじめを受けていたことを、伸二は知らなかった。
「犯罪者の娘、インチキ」と書かれた紙切れのことも。教室の中の空気が変わったことも。拳が止まったことも。
全部、後から知った。
遥は伸二に報告しなかった。しなかったのか、できなかったのか。おそらく、伸二に余計な負担をかけまいとしたのだろう。伸二は会社の処分対応に追われていた。弁護士との打ち合わせ。第三者委員会への証言。マスコミへの対応。家に帰る余裕がなかった。
余裕がなかった……という言い方は正確ではない。帰ろうと思えば帰れた。帰らなかったのだ。帰って結華と向き合う勇気がなかった。
木村をかばった結果、家族を守ろうとした結果、事態は悪化した。深みにはまった。自分の名前がニュースに出た。結華の積み上げたものが汚れた。
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七月。結華の三度目の全国大会。
結華が二回戦で負けたことは、遥からのメッセージで知った。
写真はなかった。文面だけ。
結華、二回戦で負けちゃった。でも頑張ったよ
伸二はその文面を読んで、スマートフォンを机に伏せた。
――二回戦。去年なら一本勝ちで倒していた相手に。判定で。
俺のせいだ。
確証はない。結華が負けた理由は技術的なものかもしれない。相手が強かったのかもしれない。コンディションが悪かったのかもしれない。
でも伸二には分かっていた。分かっている自分が嫌だった。洞察力が、こういう時にだけ正確に働く。
――結華の拳が止まったのは、俺のせいだ。俺が不正をしたから。俺がニュースに名前を出したから。結華が積み上げたものを、俺が汚したから。
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八月。懲戒解任。
幸い役員時代に行ったことではなかったので刑事罰は免れた。
その責任は当時の上司が負った。
伸二は家にいるようになった。
行く場所がなくなったからだ。
スーツを脱いだ。ネクタイを外した。くたびれた綿のTシャツを着た。スーツ以外の自分が何を着ればいいのか分からなかった。二十年以上、スーツが皮膚のようなものだった。それを脱いだ自分は……裸の四十三歳の男だった。
家の中での居場所が分からなかった。
リビングのテーブルに座った。座ったまま、何をすればいいのか分からなかった。テレビはつけなかった。ニュースが流れるからだ。自分の名前がまだ出ているかもしれない。
文庫本を手に取った。遥が棚に置いていた本。ページを開いたが、文字が頭に入ってこなかった。目は活字を追っているのに、脳が処理を拒否していた。
窓の外を見た。八月の陽射しが庭に降り注いでいた。蝉が鳴いていた。
伸二はただ座っていた。何もせずに。何もできずに。
結華が階下に降りてくる気配がすることがあった。冷蔵庫を開ける音。水を注ぐ音。足音がキッチンからリビングの方に近づいて——止まる。近づいて、止まって、遠ざかる。
結華は伸二を避けていた。
伸二はそれに気づいていた。気づいていて、何もできなかった。話しかけたかった。結華、と名前を呼びたかった。大丈夫か、と聞きたかった。
声が出なかった。
結華の前に立つと、喉が塞がった。あの子の目を見ると……自分が何をしたかが全部返ってきた。粉飾決算。ニュース。いじめ。止まった拳。負けた大会。全部、自分の顔に映っていた。
結華と廊下で鉢合わせた日があった。
二人とも立ち止まった。廊下の幅は二人がすれ違える程度しかない。
伸二は先に動いた。黙って壁に背中をつけて、結華が通れるだけの幅を作った。
結華は目を伏せたまま通り過ぎた。
伸二はそうするしかなかった。娘の前を堂々と歩く資格が、自分にはないと思った。道を譲ることしかできなかった。道を譲ることが……せめてもの、今の自分にできることだった。
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守るために、数字を隠した。
感情も、良心も、疲弊も殺してきた。
やり方は知っていた。ずっと前から知っていた。
それが本当は何を隠していたのかを
伸二はまだ知らなかった。
========== 【作者より】
読んでいただきありがとうございます。
守るために踏み込んだ一歩が、守るべきものを壊してしまう——そんな皮肉を書きながら、伸二という人間の全てを描きました。
本編と合わせて読んでいただけると嬉しいです。23話までは毎日7時10分、18時10分更新です。
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