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独立挿話②「滝下結華:銀のヘアピン」

 全国大会の帰り道、遥が箱を取り出した。


 帰りの電車の中だった。一本勝ちで全部倒して、金メダルを首にかけて、表彰台から客席を見渡して、父親の姿を探して、いなかった。いないのは分かっていた。最初から分かっていた。それでも探した。隅から隅まで。見つからなくて当然の父親の顔を、全部の席に向けて探した。


「はい、これ」


 遥がバッグの中から小さな箱を取り出した。


「お父さんが昨日の夜、帰りに買ってきてたの。大会が終わったら渡してくれって」


「なに」


「開けてみて」


 箱を開けた。


 ヘアピンだった。銀色の、小さなヘアピン。飾り気のない、シンプルなデザイン。女の子が好きそうなキラキラも、可愛らしい意匠も何もない。ただ丁寧に作られていることだけが伝わってくる品だった。


「お父さん、こういうの選ぶの下手でしょう」


 遥が笑った。いつものあの笑い方。目元が少し緩んで、少しだけ寂しそうで、でも嬉しそうな笑い方。


「お店の人に聞いたらしいよ、中学生の女の子に似合うやつって。普段アクセサリーなんか買ったことないくせにね……店員にどんな子ですかって聞かれたみたいよ?」


「なんて答えたの」


「強い子ですって答えたんだって。それだけ」


 電車が揺れた。


 結華は箱の蓋を閉めた。ポケットにしまった。ありがとうとは言わなかった。言えなかったのか、言いたくなかったのか、今でも分からない。


 ただ、帰りの電車が家の最寄り駅に着くまで、ずっとポケットの中で箱の角を指先でなぞっていた。


 撫でていた。


 認めたくなかったが、撫でていた。


 ――――――――――


 その夜、部屋に帰ってから鏡の前に立って、前髪にヘアピンを留めてみた。誰にも見せるつもりがなかった。つけてみたくて、でもつけたとしても父親の前には絶対に出ないと決めていた。


 ——悪くない。


 悪くないけど、絶対に本人の前ではつけない。それは決めた。


 鏡の中の自分が、少しだけ笑っていることに気づいて、慌てて外した。


 箱に戻す。引き出しにしまう。ちゃんとしまった。


 次の日学校にから帰ってくると引き出しの中のヘアピンを確認した。


 まだある。当たり前だ。誰も触っていない。


 結華は引き出しを閉めて、もう一度開けて、また閉めた。


 三度目に開けた時、ヘアピンを取り出して、制服のポーチの中にしまい直した。毎日持ち歩くカバンの中に。


 使うつもりはない。ただ、引き出しの奥よりは——近くにあった方がいいと思っただけだ。


 それだけだ


 ――――――――――


「結華ね、お父さんのヘアピン、毎日持ち歩いてるのよ」


 ある夜、遥がこっそり教えてくれた。


「……使ってるのか」


「ううん、使ってない。一度も。でもポーチに入れて、毎日カバンの中にあるの」


「……そうか」


「お守りみたいなものなのかもね。死んでも認めないだろうけど」


 台所から聞こえてくる声だった。遥はフライパンを動かしながら笑っていた。伸二は何も答えなかった。それを廊下から聞いていた結華は、足音を立てずに自分の部屋に戻った。


 認めない。お守りじゃない。ただ入れているだけだ。


 帰りの電車で箱の角を撫でた指の感触は、もう忘れた。


 忘れたことにした。


 ――――――――――


 ある年の六月、全てが変わった。


 ニュースが流れた。学校で、廊下で、教室で、名前が呼ばれた。自分の名前ではなく、父親の名前が。滝下伸二という名前が、結華の日常のあちこちに降ってきた。


 学校の机の上に紙切れが置かれていた。


 犯罪者の家族。お前の大会の成績もインチキじゃないの。


 折り畳んで、ポケットにしまった。捨てなかった。捨てたら負けた気がした。何に負けるのかは分からなかったが、捨てなかった。


 道場のサンドバッグの前に立った。


 拳を握る。構える。踏み込む。


 ——止まった。


 今まで止まったことがなかった。迷ったことがなかった。拳を振ることを怖いと思ったことがなかった。それなのに、止まった。紙切れの文字が拳の先に張りついている気がした。踏み込みが浅くなった。腰が入らなかった。


 道場の隅で一人で泣いた。声を殺して、肩を震わせて。


 泣きながら思った。


 あいつのせいだ。


 それ以上の言葉が出なかった。 出せば全部崩れる気がした。


 家に帰ると机の引き出しを開けた。去年もらったヘアピンが入っている。ポーチに入れて毎日持ち歩いていたそれを、粉飾決算のわかった翌日から引き出しに戻していた。


 結華はヘアピンを手に取った。


 銀色の、小さなヘアピン。強い子ですと父親が店員に言った、あの日のヘアピン。


 じっと見つめて、頭につけることもなく、また机の奥に戻した。


 ――――――――――


 七月の全国大会で負けた。


 二回戦。去年なら一本勝ちで倒していた相手に、判定で。


 帰りの電車で遥が隣にいた。去年と同じ。一昨年と同じ。


 父親からのメッセージはなかった。一言もなかった。


 二人とも黙ったまま、電車は家の最寄り駅に滑り込んだ。


 その夜も、結華は引き出しを開けた。


 ヘアピンを取り出して、握りしめようとした。握りしめるのはやめた。力を入れたら壊れてしまいそうだったから。丁寧に作られた品は、力を入れれば形が歪む。


 奥の奥にしまった。教科書の裏側。簡単には目に入らない場所。


 ――――――――――


 八月になった。伸二が家にいるようになった。懲戒解任。行く場所がなくなったのだと、遥が一言だけ教えてくれた。


 同じ屋根の下にいる。廊下ですれ違う。壁に背中をつけて道を譲る父親の背中を見る。細くなっていた。知らない背中だった。本当は知っている背中だった。


 遥が亡くなった。


 八月十九日。自分の誕生日。


 白い廊下を走った。伸二の背中が前にあった。病室の扉が開いた。白い布の下に遥がいた。


 結華は遥の手を握った。まだ温かかった。


 伸二は反対側に立っていた。立っていた。黙っていた。声は出なかった。嗚咽もなかった。ただ肩が震えて、白い布の上に何かが落ちた。一滴。また一滴。


 遥が橋を架けてくれていた。二人の間に。その架け橋が消えた。翻訳者がいなくなった。


 ——遥は、ずっと待っていたのだろうか。あの人の言葉を。 最後まで、出なかった言葉を。


 しばらくの間、結華は遥の手を握ったままでいた。 温かさは、少しずつ冷めていった。


 ――――――――――


 十七歳の冬の終わり。


 伸二が寝静まった夜に、カバンひとつで玄関を出た。


 荷物を選んだ。最低限の衣服。充電器。現金。必要なものだけ。


 ヘアピンは必要なものじゃない。


 でもポーチに入れた。出ていく前に引き出しを開けた時に、気づかないうちに入れていた。


 父親がくれたものとしてではなく、母親から渡されたものとして。


 そう決めた。


 遥が電車の中で渡してくれた。それは事実だ。だからこれは遥のものだ。そう言い聞かせれば、持っていられる。父親からのプレゼントとして持つには、何かが癪で、でも捨てるには何かが惜しくて、だから母親から渡されたもの、形見として持つことにした。


 ただ——中身を選んだのはあの人だという事実は、どこに置いても変わらなかった。


 強い子です、って。それだけ店員に伝えて、最後に残ったのがこれだったのだ。


 ――――――――――


 夜の街に出た。


 路地裏では拳が動いた。止まらなかった。  道場で打てなくなったものが、ここでは打てた。  理由は分からなかった。ただ打てた。それだけで、その日をやり過ごせた。


 拳が生きていることを確かめるためだけの日々が続いた。


 道場では相手を傷つけないために止める拳を学んだ。  その止め方が、いつの間にかできなくなっていた。


 ポーチの中に、ヘアピンがあった。


 毎日、あった。


 一度もつけなかった。


 手放すことも、できなかった。

 ========== 【作者より】


 読んでいただきありがとうございます。


 ルカが転生後に持ち込んだ銀のヘアピンの詳細の物語いかがでしたか?


 本編と合わせて読んでいただけると嬉しいです。次回更新もお楽しみに。感想いただけると励みになります。

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