26
今までの関係を根底から覆されるというのは、この事かもしれない。
圭介は父親と別れて帰途に就くと、タクシーの中でぼんやりと流れる風景を何とはなしに見ていた。
最初咲子に会った時、彼女は屈託のない笑顔を翔太に向けてくれた。
それまで心を許すつもりのなかった他人を、初めて家に招き入れた。
自分じゃなく翔太が懐いたことに、咲子が本音から彼を好いてくれていると思ったからだ。
家族として、同境として。
それがまさか、全て嘘だったなんて……。
苦しすぎて、涙も何も出てこない。
けれど、これだけは分かる。
もう翔太に、咲子を近づけたくない。
確かに親戚筋のように翔太を見下すでも馬鹿にするでもないけれど、利用しようとするのは……いや、あの笑顔の下で利用してきた咲には、もう翔太にあって欲しくない。
けれど、ここにいれば当たり前だけれど会わなくすることは無理だ。
なら外に出ればいい? 中学生の翔太を連れて、どこか遠い町へといってしまえば父親からも咲からも離れられる?
果たして、自分一人の稼ぎでやっていけるか。
母親からの遺産、いつか出て行こうと思って貯めていた貯金。
全て持っていけば、翔太が大学を出るまで苦労せずに暮らしていけるはず。
けれど、咲子が追ってきたら? 幾度も場所を変えなくてはいけなくなったら?
「……」
ぞくりと、背筋が震えた。
初めて見た、咲の闇。
自分のしていることをすべて肯定する意思の強さ、笑顔で人をお荷物と言えてしまう捻じれた性格。
普通なら引っ越し先にまで追ってくるとは思えない、けれど咲子なら……今のあの咲子なら。
目的のために、なんでもするような気がする。
「それでも……」
ここを離れるのが最善の策だろう。
これからのことを想えば、今まで、反目していた父親にどれだけ甘えてきたのかを身をもって知る。
まるで井の中の蛙だ。井戸の中でただ文句を言ってエサを貰っていた自分に吐き気がする。
けれど今は、反省も後悔も全て後回しだ。
とにかく今は、翔太を何とか言いくるめてこの土地から出るしかない。
遠野も藤原も、確かにある程度の力を持った家かもしれないけれど、それはこの土地での事。
仕事の繋がりのある企業だけの事。
少なくとも県外に出てしまえば、その力は弱まる。
俺が井の中の蛙なら、遠野も藤原も蛙なのだから。
「……」
元々、自分達の確執を知っている人……圭介の母の親戚筋……から、この土地から遠く離れた県外の私立高校への赴任を打診されていた。
母の兄である叔父は、父親も藤原の事もよく思っておらず、ここを離れるなら手を貸すと内々に言われていて、それを承諾するつもりで今の職場を辞める方向で話を進めていた。
それ前倒しになるだけの話。担任を持っていなくてよかったと、それだけはホッとする。
咲子の事があるから、翔太がついてくるかどうかを確認しなければと思っていた矢先の今日。
咲子にそのことを伝えてなくてよかったと、心の底から安堵する。
それよりも、
「どうやって、翔太を説得するか……か」
そう頭を悩ませながら帰った圭介に知らされたのは、深夜に近い時間だというのにまだ翔太が帰宅していないという事実だった。
数時間前……。
「翔ちゃん」
見知らぬ家に呼び出されていた翔太は、自分の名前を呼ぶ声に伏せていた顔を上げた。
「咲子さん!」
迷子の子供が親を見つけたように笑みを零すその姿に、咲子はにっこりと笑った。
「どうしたの? そんな綺麗な着物着て……」
自分が近づくまでもなく駆け寄ってくる翔太の問いに答えるわけでもなく、咲子は大きなカバンを渡した。
「え……、何?」
差し出された勢いのまま受け取った翔太は、鞄と咲を交互に見遣る。
意味の分からない状況に、翔太は首を傾げた。
咲子の名前で呼び出されたのが、今から五時間ほど前。呼び出された先は、この夏休みの内に何度もあっていた、咲子の友達の家だった。
夏休みに入ったあたりに、咲子の友人たちに紹介されて一緒に遊ぶようになった。
単純に楽しかったし、嬉しかった。
圭介よりも、咲子に近くなれた気がして。
幼い頃、冷たい視線しか向けられていないことに気付いていた翔太は、初めて会った時に笑顔を向けてくれた咲子にほのかな恋心を抱いていた。
けれど咲子は、圭介しか見ていない。
傍にいれば、分かること。気付いていないのは、圭介くらいだ。
だから、咲子のプライベートに入れてもらえた気がして、本当に嬉しかった。
「あれ? 咲子さんは?」
ある日、気が付いたら咲子がいなくなっていたことがあった。
たまたま夏休みの課題を咲子の女友達と一緒に終わらせようと、躍起になった日。
集中し過ぎたのか、自分たち以外誰もいないことに気が付いて翔太は慌てた。
「ん? 帰っちゃったみたいだねぇ」
けれど友人は、まったく動じない。それにおかしいなと思いながらも、翔太は課題を鞄に入れて立ち上がった。
「長居をしてしまってすみません、俺、帰るんで……」
「なんで?」
疑問と共に引っ張られる腕。身構えることもできずに、後ろに尻餅をつく。
「いてっ」
短く叫んで思わず瞑った目を開けば、目の前に女の顔。
「ねぇ、翔太君」
「……なんすか」
驚きすぎて固まっている翔太を楽しそうに見ると、おもむろにその手を伸ばした。
するりと、腕に絡みつく生ぬるい手。
「咲子が好きなんでしょ」
「……」
目を見開いた翔太に、意地悪そうな女の笑みが映りこむ。
「でも、咲子は圭介さんしか見てないから、翔太君に勝ち目は無し……ね?」
そこまで言われて、思わず彼女の手を振りほどいた。
「あんたには関係ないだろ。俺、帰るんで。遅くまですみませんでした」
きつめに出てしまった口調を誤魔化すように声を押し殺して、翔太はその部屋から出た。
「うふふ、気にいっちゃった」
そんな事を言われてるとは知らずに。
もし知っていれば、のこのこと一人でこの家に来なかっただろう。
受け取った鞄は大きく、渡された意図もわからずただ咲子と鞄を交互に見つめる。
「翔ちゃん、私今から出かけて来るから……ここで待っていてくれる?」
「え? 出かけてって……そしたら、俺……家に……」
戸惑いながらもそう口にする翔太を、咲子は変わらない笑顔で頭を振った。
「ううん、ここで待ってて?」
「え、いや……でも」
「翔ちゃん、待っててくれる?」
なおもいつ乗ろうとした言葉は、咲子に遮られた。
頷くしかなかった翔太は、その場に取り残された。
――待ってろってことは、ここにまた来るってことだから……
どこか腑に落ちない感情を宥めるように、けれども膨れていく不安に何もできず、ただ翔太はソファに座っていた。
ただ、咲子が戻ってくるのを待っていた。
そうして数時間たった後、翔太に知らされたのは。
自身の婚約話であり、圭介と咲子の結婚話だった。
そして、戻らなかった、咲子の存在。