第3話 アプローチ
ヴェネツィアの運河の下には、非魔法使いが立ち入ることのできない摩訶不思議な空間がある。重機を使って深々と掘削しても辿り着くことのできない。ヴェネツィアの水をすべて抜いたとして痕跡ひとつも見つけられない。
通行許可が下りた魔法使いのみが黒電話を通じて踏み入ることができるその場所には、魔法使いが魔法を学ぶための学院が存在する。
そんな童心をこそばゆくする要素ばかり揃っているのに、現実は平凡な大学となんら変わらないキャンパスがあるだけだった。電車の広告やコマーシャルで放映するような緑豊かなキャンパス。外観の話をすれば魔法使いの要素は皆無である。
カリキュラムも平凡な大学と変わりない。入学当初に受講したい講義を選択して、1年間で一定の単位を取得する。魔法は知識から入るため大半が座学の講義である。どちらかというと様々な国籍の魔法使いが集まるから国際大学のようなものだ。
「つまり、君達にはこの学院で身についた魔法の知識をーー」
私が受講していた講義は「魔法学院の歴史と軌跡」といった内容で、魔法学院の講師である魔導員が愛する学院を熱く語っている。そんな熱気とは真逆に、受講生の大半は興味なさそうにあくびをしている。そんな私も瞼が重たくなっていた。
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「ずいぶんと遅いお目覚めね」
優しい声色の方向へ顔を向けると、栗色の髪を束ねてポニーテールにしている女性が座っていた。凛として大人びた顔立ちの彼女は静かに読書をしている。彼女の名前はセルビア・マグダシア。入学当初に古民家で遭遇した女性である。
彼女は私と同じ講義を受講していた。誰も居ないと思っていたから心臓と目玉が飛び出すところだった。
「そんな驚いた顔しなくても何もしていないわよ。それと一応伝えておくけれど既に講義は終わってるわよ」
どうやら私は眠っていたようだった。記憶にないあたり講義中に寝落ちしていたらしい。外はすでに夕陽に燃えていた。講義室は消灯し、少し肌寒いと思ったら空調も止められている。
私の肩にはベージュ色のカーディガンが掛けられているが、それは私の物ではなかった。肌触りが優しく質の良い品物である。肌寒い日にセルビアがよく羽織っているような気がした。そんな彼女にまずは挨拶をしてみるとする。おはようセルビア。
「おはようじゃない」
この返答は若干機嫌を損ねさせてしまったようだ。パタンッ、と本を閉じて深いため息を漏らす。
「あなた、講義中は白目を剥きながら眠気と葛藤していたみたいだけど、講義が終わった途端、電池が切れたみたいに眠り始めたのよ。それに魔導員は寝ているあなたに気が付かないで講義室を施錠しようとしていたのよ。そこを私が止めてあげたのだから感謝しなさい。私が居なかったら今頃あなたは講義室に閉じ込められていたのだから」
どうやら眠気と葛藤している間、私は周囲に醜態を晒していたみたいだった。よりにもよってセルビアに見られていたとは思いもよらなかった。
「時差で生活バランスが掴めないのは理解できるけど、もう少し真面目に講義を受けたらどうなの?」
セルビアは呆れた顔で私の頬をつねる。痛くはない。むしろその細く冷たい指は寝起きの肌には心地よかった。机には講師から借りたであろう講義室の鍵が置かれている。
「まあアナタが進級できなかったとして私には関係のないことだけども。言っておくけど私は好きでここに居たわけじゃないから。帰ろうとしたら魔導員に半ば強制的に鍵を預けられて、あなたの世話を任されたわけで、仕方がなくあなたが起きるまで待っていたの」
だったら起こしてくれれば良いのに、と言うのは野暮だろう。セルビアは周りに対しても冷たい言動や態度で接することから、周囲からも近寄りがたい存在となっている。
ただそれは不器用なだけ。好きな子に対して悪口を言ってしまうみたいに、セルビアは他人のために行動して感謝されると冷たい態度をとってしまうのだ。性根は他人のために行動する優しい一面がある。まさに今この瞬間がそれを体現している。その不器用な優しさに愛らしさも感じる。
「なによ、文句でも言いたいわけ?」
私はセルビアにありがとうを告げた。
「くっ、そんな素直に感謝を述べないで。私が悪い奴みたいじゃない」と照れくさそうにしているセルビアは、小さな声で「どういたしまして」と呟いた。「ありがとう」に対して素直に「どういたしまして」と返せるあたり誠実な女性なのだろう。そんな彼女を私はジッと見つめて堪能するのであった。
縁というのは魔法よりもつくづく不思議なものである。セルビアとは入学当初、学院に通じる古民家で最悪な出会い方をした。セルビアにとっては巻き込まれ事故で、学院内で顔を合わせるたびに気まずくなるのかと思っていた。
案の定、セルビアと選択科目の講義が被ることが多く、嫌でも顔を合わせることが多くなった。セルビアには当初、貧乏神でも遭遇したかのような心底嫌そうな顔をさせたことは鮮明に覚えている。
だけど顔を合わせていくうちに気まずさも過去の思い出となり、むしろ悪い印象だったからこそお互い意識し、顔見知りだからこそ少しずつ会話をするようになっていった。
「こうして私と話しているのを『縁』と言ってるけど、実際はアナタがストーカーのように付きまとっていたから意識せざる負えなかったのよ。講義中も移動中も昼食も、いつだって私の背後にあなたがいるし気が散っていたから話しかけたのよ。そんな犯罪じみた行為を美化して語らないでちょうだい」
何はともあれこうしてセルビアと仲良くなれたのは嬉しい限りだ。この1ヶ月間の私のアプローチの賜物である。
「アプローチだなんてロマンチックな表現をしないで。それにあなたは防御魔法や魔法形態の性質変化の分野において私以上の知識があるから、私にメリットがあると判断して一緒に行動しているだけ。こうして居眠りばかりしているなら関係を切ることも検討しなければならないわね。私はキャンパスライフを楽しむために学院へ入学したわけじゃないもの。そんな浅瀬の思い出話は置いといて、早く講義室を出ましょう」
今後は居眠りしないように気をつけなければ。その反面、セルビアが私を心配して叱ってくれたことに、ふわふわとした嬉しい気持ちが癖になりそうだった。
「なに嬉しそうな顔をしてるのよ■■■。私を数時間も待たせてるって自覚してるわけ?」
塩対応のセルビアは荷物をまとめて講義室のドアに向かう。私はその後ろ姿を雛鳥のように追いかけるのであった。肩に羽織ったカーディガンを抱えながら。
そんな彼女と出会って約一ヶ月が経過する。
彼女はまだ、私の名前を知らない。




