第73話 世界と交渉しました
「……よし!」
俺はスマホの画面を確認した。
配信タイトルは、
『【雑談】世界各国と仕事の話をしてきました!』
公開設定も問題なし。通信状態も良好だ。
「久しぶりだなあ」
顔を上げると、目の前には山並みが広がっていた。いつもの山。以前、旅行の締めくくりに雑談配信をした場所だ。
今日は天気もよく、風も穏やかだった。周囲に人がいないことを確認してから、三脚にスマホを固定する。撮影場所につながるものが映り込んでいないかも確認した。画面の中には山並みと、その手前に立つ俺。
水泳帽にゴーグル、そしてマスク。
「……相変わらず変な格好だな」
自分で笑ってしまった。まあ、いいか。空中スイマーなんだから。
今回の配信については、白石さんに事前確認をお願いしてある。外国政府から協力の問い合わせがあったことや、複数の国の担当者と面談したことは話しても問題ないらしい。ただし、具体的な契約条件や相手国の名前、報酬などは公開しない。
「……まあ、会議が大変だった話だけでも十分だよな」
それでは、始めよう。
配信開始。
「どうもー! 空中スイマーです!」
少し待つと、コメントが流れ始めた。
『きた』
『久しぶり!』
『生きてた』
『お、いつもの山』
『また水泳帽か』
「生きてますよ! 普通に仕事してました!」
『仕事?』
『タイトルどういうこと?』
『世界各国って何?』
『海外進出?』
「そうなんですよ! 今日は最近あった外国との仕事の話をしようと思いまして!」
『おお』
『とうとう海外デビューか』
『世界規模になってる』
「いや、海外で働くことが決まったわけじゃないですよ!」
『え?』
『じゃあ何したの?』
「会議です!」
『会議?』
「外国政府の人たちと、仕事の相談をしてました!」
コメントが一気に増えた。
『は?』
『政府!?』
『規模でかすぎだろ』
『空中スイマー外交官説』
『世界の会議室を制覇する男』
「いやいや、俺は普通の会社員ですよ!」
『普通とは』
『政府と会議する普通の会社員』
『普通の定義が壊れた』
「そこは気にしないでください!」
俺は笑った。改めて考えると、確かに変な話だ。
普通に会社へ出勤して、仕事を終えたあとに外国政府と会議する。休日にも会議が入る。しかも、その内容がワープによる輸送の話だ。
「いやー、でも本当に大変だったんですよ!」
『何が?』
「会議が多くて!」
『草』
『そこ?』
『もっとすごい話かと思った』
「いや、すごい話ですよ! 外国政府の人と話すんですから!」
通訳を通して話すだけでも、普段の会議とは勝手が違う。相手の説明を聞いて、資料を確認して、自分の希望を伝える。一つ一つの話は難しくないつもりでも、何度も続くと疲れてくる。
「しかも、俺には本業があるんですよ!」
『知ってる』
『まだ辞めてないの?』
『もう仕事辞められるだろ』
「いや、まだFIREできてないんですよ!」
『FIRE』
『出た』
『いつもの』
「そうなんですよ!」
俺は少し身を乗り出した。
「仕事を辞めるためにお金を貯めてるのに、外国から仕事の依頼が増えるんですよ!」
『いいことじゃん』
『稼ぎ放題では?』
『世界から求められる男』
「いや、聞いてくださいよ!」
思わず笑ってしまった。
「仕事を減らすためにFIRE目指してるのに、仕事を増やしてどうするんですか!」
『正論なのか?』
『間違ってはいない』
『金持ちの悩み』
『会議にも時給つけてもらえ』
「それ、ちょっと思いました!」
『思うなw』
『会議嫌いすぎ』
「いや、必要な会議なら出ますよ! でも、何時間も会議して契約しなかったら、何も稼いでないんですよ!」
『労働時間だけ増えてる』
『FIRE失敗』
『会議に参加するためにワープ能力を手に入れた男』
「やめてくださいよ!」
コメント欄が笑いで埋まった。
「まあ、実際には日本政府の人たちが調整してくれてるので、俺が全部対応するわけじゃないんですけどね」
『政府がマネージャー』
『すごい体制だな』
『専属チームあるんだっけ』
「そうですね。いろいろ助けてもらってます!」
契約の確認。外国との調整。通訳や安全面の相談。俺一人だったら、あんなに何度も外国政府と会議することはできなかっただろう。
「というわけで、今のところ新しい海外の仕事は決まってないんですよ!」
『もったいない』
『どんな依頼があったの?』
『今まで飛行機を運んでたじゃん』
『飛行機の次は船とか?』
『大型船をワープさせたら面白そう』
「船ですか!」
確かに、船を運ぶというのも面白そうだ。飛行機を運ぶ仕事は、すでに実際にやったことがある。それなら、もっと大きな物を運んでほしいと考える人がいても不思議じゃない。
「いやー、船はどうなんでしょうね! 大きさとか、安全確認とか、いろいろ考えないといけないですから!」
『巨大客船いける?』
『タンカー丸ごと運んでほしい』
『船会社が泣いて喜びそう』
「いや、そこまで大きい物を運べるかどうかも、まだ分かりませんよ!」
『飛行機よりでかいもんな』
『港の設備も必要だし』
「そうなんですよ! 何でも運べるって決まったわけじゃないですからね!」
そもそも、俺のワープには条件がある。移動先の安全確認も必要だし、運ぶ物の状態だって考えなければならない。飛行機を運べたからといって、どんな船でも運べるとは限らない。
「まあ、詳しい仕事の内容はまだ話せないんですけど、ワープのいろいろな使い道に興味を持ってもらってるみたいです!」
『なるほど』
『世界中の物流変わりそう』
『空中スイマー運送』
『会社作ろうぜ』
「いや、会社を大きくするのは嫌です!」
『即答w』
『社長になれば働かなくていいじゃん』
「いやいや! 社長って普通に忙しいじゃないですか!」
『人を雇えば?』
「その人たちの管理は誰がするんですか!」
『雇った人に管理してもらう』
「その人の管理は!?」
『無限ループw』
『経営向いてなさそう』
「だからFIREしたいんですよ!」
俺は笑った。外国政府と仕事するのも、会社を経営するのも、面白そうだとは思う。でも、自分の時間を減らしてまでやりたいかと言われると、話は別だ。
『海外に住む予定は?』
「ないですね!」
『即答w』
『ワープなら行き来は楽そう』
「移動は楽ですけど、現地で仕事する時間は別ですからね!」
移動時間が短いからといって、仕事の準備や打ち合わせまで消えるわけじゃない。まして、何年間も続く契約となれば、自分の都合だけでは休めなくなるかもしれない。
「俺は今の生活が気に入ってますし、できれば自由な時間を増やしたいんですよ!」
『仕事辞めたいのは一貫してるな』
『ワープあっても社畜回避』
『世界に必要とされても働きたくない男』
「働きたくないわけじゃないですよ! 好きな時に働きたいんです!」
『わがままw』
「そこが大事なんです!」
コメントを読みながら、しばらく海外との面談の話を続けた。具体的な契約内容は話せないけど、単発で終わる仕事なら興味がある。大型設備を一度だけ運んで、終わったら自由に過ごす。それなら俺の生活にも合っている気がする。
『でもすごいよな』
『世界中から頼られてる』
『飛行機も助けられるし』
『災害にも対応できる』
『もはや世界のヒーロー』
「いやいや、ヒーローは大げさですよ!」
『実際助けてるじゃん』
『最初ヒーロー活動やりたがってなかった?』
『懐かしい』
『パトロール配信とかやってたよな』
「ああ、やってましたね!」
そういえば、最初の頃はヒーローっぽいことをしてみたくて、パトロール配信を始めたんだった。ワープが使えるんだから、人助けにも使えるんじゃないか。そんな単純な発想だったと思う。
「最近は仕事の話ばっかりですけどね!」
『金の話ばっかりw』
『FIRE系ヒーロー』
『有料ヒーロー』
「いや、ちゃんと人助けもしてますよ!」
『知ってる』
『災害の動画よかった』
『あれはすごかった』
「ありがとうございます!」
素直にうれしい。ただ、流れてくるコメントの中に、少し違う話題が混ざり始めていた。
『そういえば昔の救助動画、また回ってきた』
『道路で助けたやつ?』
『あれの後日談って結局どうなったの?』
俺は画面を見た。
……ああ。
まだ、話題になっているのか。最近は、あの動画について自分から調べることを控えていた。
必要な対応は白石さんたちと相談している。俺が毎日検索したところで、騒ぎが早く収まるわけでもない。それでも、覚えている人はいるらしい。
『ニュースの件と同じ人って本当?』
『ソースあるの?』
『切り抜きで見た』
『切り抜きがソースは草』
『でも時期とか一致してるって話じゃん』
『勝手に決めつけるなよ』
画面の流れが速くなった。俺はコメントを読み上げず、次に話す内容を考えた。その間にも、別の意見が現れる。
『あの人を助けたのって正しかったの?』
『助けた時点で未来なんか分からんだろ』
『被害者のことも考えろよ』
『救助した人に言うのは違う』
『じゃあ誰の責任なんだよ』
『なんで配信者に責任押し付けるの?』
……ずいぶん、話が広がっている。
新しいコメントが増えるたびに、誰かが反論する。何の話か分からない人まで加わり始めた。
『何の話?』
『昔の動画』
『知らないなら調べて』
『掘り返すなって』
俺はスマホの画面を見つめた。ここで一つコメントを拾ったら、どうなるだろう。たぶん、そこから話が広がる。
何か答えても、答えなくても、誰かが別の意味に受け取るかもしれない。俺が知っていることの中には、勝手に話してはいけない情報もある。
……いや。
そもそも、全部知っているわけじゃないんだ。
配信画面を操作し、個人を特定しようとする書き込みや攻撃的な言葉を非表示にした。それでも、意見の対立そのものは残っている。
『正義のヒーローって言うなら責任持てよ』
『勝手にヒーロー認定したのお前らだろ』
『じゃあ正義って何だよ』
……正義、か。
俺は一度、画面から目を離した。山並みが見える。風の音が、少しだけ聞こえた。
今日は外国との仕事の話をするつもりだった。でも、こういう話になることもある。配信って、本当に何が起きるか分からない。
……さて。
このままコメント欄の言い争いを眺めていても仕方ない。せっかくの雑談配信だ。俺は少し考えてから、自分で別の話を始めることにした。
「……そういえば、皆さん!」
『ん?』
『どうした』
「ちょっと漫画の話してもいいですか?」
『急にw』
『いいぞ』
『何の漫画?』
「DEATH NOTEって知ってます?」
『知ってる』
『デスノート!』
『夜神月』
『新世界の神』
『懐かしいな』
「俺、ああいう話って結構好きなんですよ!」
漫画もアニメも好きだ。昔からいろいろ見ているし、今でも暇があれば見たいと思っている。そのためにFIREを目指している部分もある。
「で、夜神月っているじゃないですか」
『キラ』
『主人公』
『ライト派? L派?』
「夜神月って、最初は犯罪者を減らそうとしてるじゃないですか」
『そうそう』
『悪人がいなくなれば平和』
『言いたいことは分かる』
「犯罪がなくなって、被害に遭う人もいなくなるなら、それはいいことだと思うんですよ」
『うん』
『そりゃそう』
「でも、誰を殺すかまで一人で決めるのって、怖くないですか?」
『そこが問題』
『キラは間違えないだろ』
『いや普通に間違えるだろ』
『冤罪もあるし』
『しかも反対するやつも消す』
「そうなんですよね!」
俺はうなずいた。
「例えば、ニュースで犯罪者だって言われている人がいたとして、本当にそうなのかって、俺には分からないじゃないですか」
『逮捕と有罪は違う』
『裁判あるからな』
『でも明らかに悪いやつもいる』
「もちろん、明らかな犯罪だと思うこともあるでしょうけど」
俺は少し言葉を選んだ。
「それでも、俺が誰かを犯罪者だって決めつけて、勝手に罰を与えていいのかっていうと、違うと思うんですよ」
『法律があるからな』
『でも法律で裁けない悪人もいる』
『だからキラが必要なんだよ』
『それを個人に任せるのは怖い』
意見は割れている。DEATH NOTEだって、そういうことを考えさせる作品なんだから。
「それに、デスノートって名前を書いたら人が死ぬじゃないですか」
『そりゃそう』
『デスノートだからなw』
「いや、そうなんですけど!」
俺は笑った。
「もし間違えたら、取り返しつかないですよね」
『確かに』
『生き返らないし』
「俺のワープも、使い方によっては危ないことができると思うんですよ」
『できそう』
『むしろ怖い』
『海の真ん中に飛ばせる?』
『宇宙に飛ばしたら終わりでは』
「いやいや! そんなことしませんよ!」
コメント欄が少し騒がしくなった。
「そもそも、安全か分からない場所に適当にワープできるわけでもないですし!」
『そうだった』
『移動先は見える場所じゃないと駄目なんだっけ』
「そうです! ちゃんと確認しないと危ないですから!」
それに、俺ができるからといって、何でもしていいわけじゃない。
「例えばですよ。俺が誰かを怪しいと思ったとして、その人を勝手にどこかへ連れていったら問題になるじゃないですか」
『誘拐だろそれ』
『能力悪用で草』
『空中スイマー逮捕』
「そう! それは嫌です!」
『逮捕が嫌なのかw』
「当たり前ですよ!」
俺は笑った。でも、笑いながらも、少し本気で考えていた。
今の俺は、普通の人にはできない移動ができる。遠くの場所へ一瞬で行けるし、物を運ぶこともできる。でも、その能力があるからといって、誰が正しくて誰が間違っているかを判断できるわけじゃない。
「俺、ヒーローっぽいことはしてみたいんですよ」
『知ってる』
『昔から言ってる』
『今も十分やってるだろ』
「ありがとうございます!」
俺は少し笑った。
「でも、悪い人を懲らしめることだけがヒーロー活動なのかなって、最近考えるんですよね」
『おっ』
『どういうこと?』
「例えば、犯罪が起きる前に防げたら、一番いいじゃないですか」
『それはそう』
『被害者出ないし』
『でも難しくね?』
「そうなんですよ!」
犯罪が起きてから犯人を捕まえる。それも必要なことだと思う。でも、その前に被害を防げるなら、そっちの方がいい。
「目の前で誰かが危ない目に遭ってたら、できるだけ助けたいですし!」
『まあ普通はそう』
『ワープならすぐ助けられる』
「ただ、俺が全部判断するのは違うと思うんですよね」
『警察の仕事もあるし』
『それはそう』
『でもワープ使えば犯罪減らせそう』
「……そうなんですよねえ」
それが、ずっと気になっている。ワープで移動できるなら、防犯活動にも役立つ場面があるんじゃないか。
でも、どんな方法なら安全なのか。何をしてよくて、何をしてはいけないのか。まだ分からない。
『松さん、最近パトロールやってないよな』
『またやれば?』
『犯罪防止ならパトロールじゃん』
「ああ、そうなんですよ!」
俺はうなずいた。
「最近、またパトロールしてみようかなって考えてるんです!」
『おお』
『復活?』
『空中スイマー巡回編』
『夜道をワープして回るの?』
「いや、そこはまだ何も決まってないですよ!」
『なんだ』
『企画倒れか』
「企画倒れじゃないです!」
……いや、まだ企画にもなっていない気がする。
「普通に考えたら、パトロールするだけなら歩けばいいじゃないですか」
『それはそう』
『ワープ使わないの?』
「もちろん、ワープだからできることがあるなら試したいですけど!」
例えば、広い範囲を移動すること。危険な場所から離れること。離れた場所へ必要なものを運ぶこと。
いろいろ考えられる。でも、実際に防犯活動として役立つのかは別だ。
『夜道なら危なくない?』
『松さんなら逃げられるでしょ』
「まあ、逃げるのは得意ですけど!」
『最強の逃げ足』
『卑怯なヒーロー』
「卑怯じゃないです! 危なくなったら逃げるのは大事ですよ!」
ワープできるとはいえ、周囲を確認する必要はある。突然何かが起きた時に、必ず安全に動ける保証もない。相手が一人とも限らないし、ほかの人を巻き込む可能性だってある。
「あと、俺が勝手にやっていいことなのかも、ちゃんと確認したいんですよね」
『警察に相談したら?』
『政府の人いるじゃん』
『専属チーム使おう』
「ああ、それは考えてます!」
今なら白石さんにも相談できる。俺が勝手に動くより、専門家に聞いた方がいいだろう。
「せっかく人を助けようとして、俺が問題を起こしたら意味ないですからね!」
『それはそう』
『空中スイマーが指名手配されたら笑う』
「笑い事じゃないですよ!」
『ワープで逃げそう』
「逃げませんって!」
コメント欄に、また笑いが増えた。一方で、さっきから続いていた話題も完全には消えていない。
『結局どう思ってるんだろ』
『今の話が答えじゃない?』
『いや一般論しか話してない』
『本人にしか分からんこともあるだろ』
『何でも配信で答える必要ない』
俺は流れていく文字を見ながら、少し考えた。全部のコメントに答える必要はない。それは、今まで配信を続けてきて分かったことの一つだ。
質問に答えれば喜んでもらえることもある。でも、俺が答えたことで、誰かが困ることもある。何より、俺に分からないことは、分からないままだ。
「……まあ、そんな感じで!」
俺は話を続けた。
「パトロールについては、もう少し調べてからですね!」
『了解』
『楽しみにしてる』
『またヒーロー活動か』
「いや、普通のパトロールですよ!」
『普通のパトロール(ワープ能力あり)』
『全然普通じゃない』
「そこは普通でいいじゃないですか!」
俺は笑った。さっきまで随分難しい話をしていた気がする。でも、いつもの配信に戻ってきた。世界中から仕事が来た話をして、FIREの話をして、漫画の話をして、最後にはパトロールの話になる。
「今日の雑談、話題飛びすぎじゃないですか?」
『いつもだろ』
『今日は特に』
『世界政府からデスノートへ』
『次はパトロール』
「いや、俺もこんな話になるとは思ってませんでしたよ!」
『タイトル詐欺』
「ちゃんと最初に世界の話したじゃないですか!」
『したね』
『会議が嫌だった話』
『結局それしか覚えてない』
「そこが一番大事なんですよ!」
俺は笑った。本当に。
世界中の政府と仕事ができるようになっても、俺の目標は変わらない。お金を貯めて、仕事を辞めて、自由な時間を作ること。その時間で、旅行したり、ゲームしたり、動画を作ったり。
そして、余裕がある時には、誰かの役に立つこともしてみたい。できれば、無理のない範囲で。
「まあ、これからもいろいろやっていきたいですね!」
『期待』
『FIREも頑張れ』
『仕事増やしすぎるなよ』
「それは本当に気をつけます!」
気がつけば、配信を始めてから随分時間が経っていた。山の向こうへ、少しずつ日が傾いている。
「……おお」
俺は後ろを振り返った。空の色が、少し変わってきている。
「ちょっと見てくださいよ!」
スマホの角度を調整し、山並みを映す。
『おお』
『きれい』
『いい景色』
『なんだかんだこの山好き』
「俺も結構気に入ってるんですよ!」
『いつもの山』
『またここでやって』
「また機会があれば!」
コメント欄では、まだ何人かが議論を続けていた。でも、景色を楽しんでいる人もいる。FIREの話をしている人もいる。ただ挨拶をしている人もいる。同じ配信を見ていても、考えていることは人それぞれらしい。
「じゃあ、今日はこの辺で終わりましょうか!」
『おつ』
『お疲れ』
『また配信して』
『パトロール楽しみ』
『ちゃんと休めよ』
「ありがとうございます!」
俺は笑った。
「皆さんも、仕事の増やしすぎには気をつけてくださいね!」
『お前が言うな』
『説得力ゼロ』
「いや、俺が言うから説得力あるんですよ!」
『反面教師w』
「そういうことです!」
最後に、もう一度山並みを見る。穏やかな空。遠くの景色。仕事も会議もない、ただの雑談の時間。やっぱり、こういう時間が好きだ。
「それじゃあ、また!」
配信終了。
スマホの画面に、終了したことが表示された。
「……ふう」
俺は少し息を吐いた。思ったより、いろいろな話をしてしまった。特に、DEATH NOTEの話。あの話題を出したのは、俺自身だ。
コメント欄の流れを変えたかった。ただ、それだけじゃない。自分が今、どう考えているのか。それを、直接誰かの話に結びつけずに伝えたかった。
「……まあ、全部伝わったとは思わないけどな」
俺は三脚を片づけ、ゴーグルと水泳帽を外した。周囲を確認すると、山は静かだった。さっきまで画面の向こうで何人もの人が話していたのが、嘘みたいだ。
「さて、帰るか」
荷物を持ち、安全な移動先を確認してワープした。
自宅に戻ると、荷物を置いてパソコンを開いた。配信の管理画面には、今日の放送の記録が残っている。
「……結構話したなあ」
仕事とFIRE、DEATH NOTE、パトロール。我ながら話題の多い配信だった。
でも、視聴者とのやり取りは楽しかった。特に、FIREの話は盛り上がったな。
「まあ、仕事が増えてるのは事実なんだけど」
俺は少し笑った。それから、コメント欄を確認した。配信が終わったあとも、いくつかコメントが付いている。
『今日の話、よかった』
『デスノートの話、もっと聞きたい』
『パトロール復活楽しみにしてる』
「……おお」
ありがたい。
ただ、その下には、配信中に見かけた話題も残っていた。俺はスクロールする手を止めた。
……まだ続いているのか。
あの救助動画。ネット上で勝手に編集され、何度も広められた映像。そして、そのあとで知った出来事。
以前、亡くなった男性のご家族から依頼を受けたという弁護士と話したことを思い出す。ご家族は、これ以上騒ぎが大きくなることを望んでいなかった。静かに対応したい。そう言われた。俺も、できることは協力すると答えた。
だから、今日もあの事件の具体的なことは話さなかった。ただ、DEATH NOTEの話は一般論のつもりでも、事件への返事だと受け取る人はいるかもしれない。配信で個別の事情を説明すれば、それをきっかけにまた調べる人が出てくるかもしれないし、事実だけを話したつもりでも別の意味に受け取られることだってある。まして、俺が知っていることには、公開していいと確認されていない情報もある。
「……難しいなあ」
俺は椅子にもたれた。今日、視聴者が何を書いていたのかは分かる。でも、その人たちが何を知っているのかまでは分からない。
どこかの切り抜き動画を見ただけかもしれない。ニュースの記事を読んだのかもしれない。人から聞いた話を信じているだけかもしれない。それなのに、コメント欄では誰かの人生について、簡単に正解や不正解が決められていく。
「俺だって、全部知ってるわけじゃないんだけどな」
あの日、俺が助けた人。危険な場所にいて、車が近づいていた。だから助けた。それだけだった。
その人が、それまでどんな生活をしていたのか。何を考えていたのか。これから何をするのか。そんなことは分からなかった。今だって、分からないことは多い。
家族の話を聞いて、その人にも普通の生活があったことを知った。好きな動画があって、好きな音楽があった。つらいこともあった。そして、亡くなった。でも、それだけじゃない。
「……被害を受けた人もいるんだよな」
俺は小さくつぶやいた。報道された事件には、被害者がいた。
その人の生活だって、今も続いている。何があったのか、詳しいことは知らない。どんな気持ちでいるのかも分からない。俺が知っているのは、事件で傷つけられた人がいるということだけだ。
「……そっちのことも、忘れちゃいけないよな」
救助された人が苦しんでいたこと。事件で被害を受けた人がいること。どちらか一方だけを考えれば、もう一方がなくなるわけじゃない。
それに、亡くなった男性については、裁判で有罪が確定したわけでもない。報道された情報だけで、俺がすべてを判断できる話じゃなかった。
「……やっぱり、難しいな」
俺はパソコンの画面を切り替えた。そこには、以前調べていた防犯活動についての情報が残っていた。
パトロール。見守り活動。警察への通報。犯罪を未然に防ぐための取り組み。
「そういえば、こっちも途中だったな」
外国政府との会議に追われ、調べかけだった防犯活動はそのままになっていた。
配信で話したDEATH NOTEの夜神月を思い出す。犯罪をなくそうと自分で人を裁き始め、やがて自分の正義を邪魔する人まで排除しようとした。
もちろん、俺にデスノートなんてものはない。あるのはワープ能力だ。できることも、全然違う。
でも。
「……力があるからって、何でもしていいわけじゃないよな」
例えば、俺が誰かを怪しいと思ったとする。その人を尾行する。勝手に調べる。危険だと決めつけて、ワープでどこかへ移動させる。
そんなことを始めたら、普通に問題だ。そもそも、その人が本当に犯罪をするつもりなのか、俺には分からない。
ただ道を歩いていただけかもしれない。誰かを待っていただけかもしれない。
「……間違えたら最悪だな」
そして、仮に本当に犯罪が起きたとしても、俺が勝手に罰を与えていいわけじゃない。警察がいて、裁判所がある。それぞれの役割がある。俺がワープできるからといって、それを全部飛ばしていい理由にはならない。
「……でも、助けることはできるよな」
目の前で誰かが危険な状態になっている。それなら、できるだけ助けたい。助けを求めている人がいる。安全に協力できるなら、協力したい。
その気持ちは変わらない。できれば、危険なことが起きる前に防げたらもっといい。
「……そこなんだよなあ」
俺がやりたいのは、誰かを裁くことじゃない。被害に遭う人を少なくしたいんだ。少なくとも、今はそう思っている。
でも、本当にやろうとすると、考えることが多い。どこをパトロールするのか。どういう行動が防犯につながるのか。危険な人を見つけたと思ったら、どう対応するのか。ワープで逃げられるとしても、それだけで安全とは限らない。
「……ああ、そうだった」
以前、AIに質問したことを思い出した。自分が囮になる方法はあるのか。違法にならないか。安全面で問題はないか。
その時は、とりあえず調べるだけにしていた。
「……あれも、勝手にやったらまずいよな」
誰かを犯罪者だと決めつけることも問題だし、相手の行動を誘発するようなことをしていいのかも分からない。仮に危険な目に遭ったとして、ワープで自分だけ逃げれば済むとも限らない。
周囲に人がいたらどうする?警察が来るまで何をすればいい?そもそも、そんな活動に意味があるのか?考え始めると、分からないことだらけだった。
「……やっぱり、専門家に相談した方がいいな」
俺はスマホを手に取った。白石さんとのメッセージ画面を開く。最近は外国政府との仕事の話ばかりだったけど、こういう相談もできるだろうか。
……いや、何でもかんでも白石さんに聞くのも悪い気がする。
ただ、今の俺には政府との協力体制がある。最初から一人で全部判断する必要はない。
「……まずは、相談先を聞くだけでもいいか」
俺はメッセージを入力した。
『白石さん、お疲れさまです! 以前少し考えていた防犯パトロールについて、また相談したいことがあります。警察の方など、専門家に話を聞くことはできますか?』
内容を確認して、送信。
「……よし!」
これで、あとは返事を待つだけだ。もちろん、すぐ何かが始まるわけじゃない。そもそも、俺にできることがあるのかも分からない。
でも、それでいい。勝手に動いて問題を起こすより、ちゃんと調べてから考えたい。
「……よし。今日はここまでにするか」
パソコンを閉じた。今日は海外の仕事や漫画、防犯の話まで広がった。相変わらず、話があちこちに飛んでいる。
「……ほんと、何やってるんだろうな、俺」
思わず笑ってしまった。FIREを目指している普通の会社員。
……のはずなんだけど。
「まあ、暇になったら、こういうこともできるよな」
誰かを助けることも、犯罪を防ぐことも、自由に暮らすことも。
全部を一度に実現するのは難しいけど、できることから考えていけばいい。世界を一人で変える必要なんてないんだから。
「……まずはパトロールかな」
俺はスマホを置いた。もちろん、何をするかはまだ決まっていない。ただ、一つだけ決めたことがある。
誰かを助けたいからといって、自分が何でも決めていいと思わないこと。それくらいは、忘れずにいたい。
次回、第74話「女装してパトロール? 後ろ姿ならいける!」
次回更新:11月2日 12:10予定




