第九話 元カノ襲来
「カイルさん、やっぱりカイルさんだ! 探したんですよぉ!」
通りの向こうから駆けてきたのは、栗色の髪の娘だった。
ニナ。西の湖畔の町、レンドルの粉屋の娘。去年の秋、山から降りてきた魔物の群れが町に押し寄せた。俺たちは三日三晩、町の外周に立って食い止めた。その時に、握り飯を運んでくれた娘だ。
ニナは俺の前で急ブレーキをかけ――かけそこねて、そのまま抱きついてきた。
「うわっ」
「会いたかったです!」
俺は硬直した。
完全に、硬直した。
◆
背中に、視線を感じた。
振り返らなくてもわかる。むしろ振り返りたくなかった。
だが、人間は見たくないものほど見てしまう生き物だ。
俺はゆっくりと首を回した。
リリスが、立っていた。
新しい青のワンピースを着て、古い外套を抱えて、まっすぐこちらを見ていた。
無表情だった。
いや、それは正確ではない。彼女はいつも無表情だ。今のは違う。
――何もない顔だった。
怒っていない。呆れてもいない。感情が表に出ていないのではなく、そもそも今、感情の処理が止まっている。そういう顔だった。
尻尾が、ぴくりとも動いていなかった。
俺は、その方がずっと怖いということを、この瞬間に学んだ。
◆
「あの、ニナ、ちょっと離れて」
「えー、久しぶりなのに」
「いいから、な?」
ニナはようやく体を離した。それから、リリスに気づいた。
「あ、すみません! お連れの方でしたか」
「……ああ」
「はじめまして! ニナといいます。去年、魔物の群れが出た時に、カイルさんに町を救っていただいて」
ニナはぺこりと頭を下げた。素直で、明るくて、悪意が一片もない。
それがいちばん、まずい。
「私はリリスだ」
「リリスさん。きれいな方ですね! お仕事仲間ですか?」
「……仲間ではない」
「じゃあ、なんですか?」
いい質問だった。
できれば俺も知りたかった。
「知人だ」
「知人!」
ニナが目を輝かせた。何がそんなに嬉しいのか俺にはわからなかったが、たぶん深い意味はない。この娘は基本的にいつも嬉しそうだ。
◆
「それにしても、王都に来てたんですね! わたし、レンドルからずっと手紙出してたんですよ?」
「……手紙?」
「三十通くらい」
「三十!?」
「返事、一通も来なくて」
俺は記憶を必死に掘り返した。
思い当たる節が、大量にあった。旅の途中、宿に届いた手紙を、後で読もうと荷袋に突っ込んだまま忘れる。そういうことが、この三年、何度もあった。
「……悪い。旅先を転々としてたから」
「いいんです! こうして会えたので!」
許された。許されてしまった。
いっそ怒ってくれた方が楽なのに。
◆
そして、ニナは、言ってはいけないことを言った。
悪気は、まったくなかった。
「わたし、ずっと覚えてるんですよ。最後の一体を倒した夜、湖のほとりでカイルさんが言ってくれたこと」
背筋が凍った。
「あ、いや、その話は」
「『こんな夜が、ずっと続けばいいのにな』って」
時が、止まった。
◆
俺は、リリスの方を見なかった。
見られなかった。
だが、見なくてもわかった。空気が変わったのだ。夏の昼下がりの、人通りの多い目抜き通りの真ん中で、俺の周囲の温度だけが、明確に下がった。
ニナは何も気づいていない。にこにこしている。
「あの言葉、すごく嬉しくて。だからわたし、王都に出てきたんです」
「……出てきた」
「はい! 叔母のところに下宿して、仕事も見つけました。針子です」
人生を、動かしていた。
この娘は、俺の使い回しの一言で、生まれ育った町を出ていた。
俺は自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
◆
「ニナ」
声を出したのは、リリスだった。
俺はぎょっとして振り向いた。
「はい?」
「その言葉を、この男が言ったのは、いつだ」
「えっと、去年の秋です。九の月の、たしか二十日くらい」
「場所は」
「レンドルの、湖のほとりです」
「時刻は」
「夜です。星がすごくきれいで」
「そうか」
リリスは頷いた。
尋問ではなかった。声には棘も皮肉もなかった。ただ淡々と、事実を確認していた。
それが、猛烈に、怖かった。
「おい、リリス」
「なんだ」
「なんで、そんなこと聞くんだ」
彼女はこちらを見た。
「……わからん」
本当に、わからないという顔だった。
「聞かねばならんと思った。理由は、私にもわからん」
◆
ニナは叔母との約束があるとかで、間もなく帰っていった。
「今度、お店に来てくださいね! 三番通りの仕立屋です!」
「……ああ」
「リリスさんも、ぜひ!」
「……検討する」
娘の背中が人混みに消えるまで、俺たちは黙って立っていた。
◆
歩き出しても、リリスは何も言わなかった。
俺は五回くらい口を開いて、五回とも何も言えなかった。
言い訳は、いくらでも思いついた。「若気の至りだ」「あの時は本気だった」「もう終わった話だ」。全部、口の中で腐って消えた。どれも、前に使ったことのある言葉だったからだ。
結局、六回目に出てきたのは、これだった。
「……あー、その」
「なんだ」
「なんて言えばいいか、わからん」
「そうか」
リリスは前を向いたまま歩いている。
「一つ、確認したい」
「……どうぞ」
「何人だ」
俺は足を止めた。
「え?」
「前に、三回と言った。五回かもしれんとも言った」
「……言ったな」
「実際は、何人だ」
俺は、答えようとした。
答えようとして、正確な数がわからないことに気づいた。
それは、この日、俺が受けたどんな一撃よりも深く刺さった。剣で六度沈められた時より、はっきりと、俺は自分が何者かを理解した。
「……わからん」
「わからんのか」
「わからん」
「そうか」
◆
リリスは怒らなかった。
声を荒らげもしなかった。ただ、歩調を少しだけ速めた。
俺は追いかけた。
「リリス」
「なんだ」
「怒ってるか」
彼女は少し考えてから、正直に答えた。
「怒ってはいない」
「じゃあ」
「胸のあたりが、おかしい」
俺は聞き返した。
「おかしい?」
「熱い。だが痛い。心臓ではない。もっと上だ。喉に近い」
彼女は自分の胸に手を当てて、真剣な顔で言った。
「五千年生きたが、この症状は初めてだ。毒か?」
「毒じゃない」
「では何だ」
「…………」
俺は答えられなかった。
答えは、たぶん、俺の口から言うべきものじゃなかった。
◆
魔王城の門の前で、ザガンが書類から顔を上げた。
「お帰りなさいませ。……本日の面会、終了予定時刻より三時間早いですが」
「記録しておけ」
「かしこまりました」
ザガンは羽ペンを走らせた。
「理由の欄は、いかがいたしましょう」
リリスは門をくぐりながら、短く答えた。
「……体調不良だ」
「承知しました」
門が閉まった。
俺はしばらく、その前に突っ立っていた。
ザガンが、書類から顔を上げずに言った。
「勇者カイル」
「……なんだ」
「あの方が体調不良を申告されたのは、私が仕えて八百年で初めてです」
「そうか」
「何かなさいましたか」
「…………」
「業務日誌は、正確に書く決まりですので」
「……書くな」
「書きます」
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