第八話 角と尻尾の収まらない服
問題が発覚したのは、バイト四日目のことだった。
ガドが心底言いにくそうな顔で、リリスに言った。
「嬢ちゃんよ。その外套な」
「なんだ」
「油と水で、もう限界だ」
黒い外套は、確かに悲惨なことになっていた。裾は油染みで固まり、袖は水を吸ってよれ、全体がなんとも言えない色に変わっている。
「洗えばいい」
「洗っても落ちねえ段階に来てる」
「では、どうする」
ガドが俺を見た。俺は嫌な予感がした。
「旦那、買ってやんな」
「なんで俺なんだよ」
「じゃあ誰が連れて行くんだ」
反論できなかった。
「わかったよ。俺が出す」
「断る」
即答だった。
リリスは濡れた手を布巾で拭きながら、こちらを見もせずに言った。
「服は私が着るものだ。私が払う」
「いや、そこは遠慮しとけよ。困った時は――」
「困っていない」
「困ってるだろ、外套が死んでるんだから」
「金はある」
彼女は前掛けのポケットから革袋を取り出し、軽く振った。ちゃりちゃりと、頼りない音がした。
「四日分だ。二百八十八セロある」
「ちゃんと計算してるんだな」
「当然だ。労働の対価だからな」
やたら誇らしげだった。家が三軒建つ金貨を持ち歩いていた女が、二百八十八セロで胸を張っている。
なんとも言えない気持ちになった。
ガドが俺の肩を叩いて、小声で言った。
「旦那。財布は持っていきな」
「本人が払うって言ってるだろ」
「足りなかった時に、黙って出せる男になれって話だ」
◆
というわけで、翌日の昼。
俺とリリスは、城下町の目抜き通りを歩いていた。
◆
昼の街は、夜とはまるで違う。
露店が並び、荷車が行き交い、子供が走り回っている。パンの匂い、香辛料の匂い、家畜の匂い。売り声と値切り声が絶え間なく飛び交っている。
リリスは、明らかに戸惑っていた。
「……多いな」
「そりゃ昼だからな」
「こいつらは、全員、何をしている」
「買い物」
「全員がか」
「全員だ」
彼女は果物屋の前で足を止め、山積みの林檎をしばらく見つめていた。
「これは、誰が育てた」
「農民だな」
「これを運んだのは」
「荷馬車屋だ」
「並べたのは」
「店の人だろ」
リリスは黙って林檎を見ていた。
「……一つの林檎に、何人も関わっているのだな」
「まあ、そうなるな」
「魔王城には、そういう仕組みがない」
「ないの?」
「基本的に、獲ってきたものを食う」
「原始的すぎるだろ」
「言うな」
◆
目当ての店は、通りから一本入った路地にあった。
『マーサ衣裳店』。看板が斜めに傾いている。だが品揃えは城下町で一番だ。獣人用も、エルフ用も、なぜかドワーフ用の子供服まで置いてある。
扉を開けた瞬間、奥から声が飛んできた。
「いらっしゃい! ……あらまあ!」
店主のマーサは、五十がらみの恰幅のいい女だ。彼女は俺を見て、それからリリスを見て、それから満面の笑みになった。
「カイルちゃん、あんた、とうとう連れてきたのかい!」
「ちゃん付けやめてくれ」
「いい子じゃないのぉ!」
「そういう話じゃない」
マーサはずかずかと近寄ってきて、リリスの周りを一周した。
「腰、細いねぇ。肩は……あら、しっかりしてる。剣を持つ子だね? 背は……ちょっとかがんでもらえるかい」
「なぜだ」
「測るのさ」
「私は測られる予定はない」
「予定は今できたよ」
リリスが助けを求めるようにこちらを見た。
俺は目を逸らした。
「おい」
「無理だ。あの人には勝てない」
「お前は勇者だろう」
「勇者にも無理なものはある」
◆
採寸は五分で終わった。マーサは最後に、リリスの角を二本、無造作に掴んだ。
「で、この角ねぇ」
「――っ」
リリスの尻尾がぶわっと膨らんだ。
俺は初めて見た。この女、驚くと尻尾が膨らむのか。
「フードは無理だね。襟も立たない。開き襟にして、留め具は前で」
「あの」
「尻尾は根元の位置がここだから、スカートは切り替えを入れないと。ズボンなら穴あけだね」
「あの」
「なんだい?」
「……角を、掴むのは」
「あ、悪かったね。痛かったかい」
「痛くはない。ただ」
リリスは口ごもった。
「五千……いや、長く生きているが、角を掴まれたのは初めてだ」
「そうかい。じゃあ今日は記念日だね」
「記念日か? これが?」
◆
リリスは試着室に押し込まれた。
俺は店の隅の椅子に座らされた。カーテン越しに、マーサの指示とリリスの困惑した声が漏れてくる。
「腕を上げて」
「なぜだ」
「上げなきゃ着られないからさ」
「合理的だな」
「そりゃそうさ」
……この店主、リリスとの相性がいい。
「カイルちゃん」
「なんだ」
「あの子、いいね」
「何が」
「素直だよ」
俺は返事に困った。
六度俺を叩きのめした女を「素直」と評した人間は、たぶん大陸でマーサだけだ。
「あんた、ちゃんと大事にしなよ」
「……いや、そういうんじゃない」
「そういうんじゃない男が、女の服買いに付き合うかい?」
「今日は成り行きで」
「成り行きで来る店じゃないよ、うちは。路地の奥だからね」
言い返せなかった。
◆
カーテンが開いた。
俺は顔を上げて――そのまま、しばらく言葉が出なかった。
深い青の、簡素なワンピースだった。装飾は襟元に少しだけ。開き襟で、角を避ける形になっている。腰から下は切り替えが入っていて、尻尾がすんなり収まっている。
鎧はない。外套もない。剣もない。
ただの、若い女が、そこに立っていた。
「…………」
「どうだ」
「…………」
「おい」
「…………あ、ああ」
「感想を言え。連れてきたのはお前だ」
俺は口を開いた。
そして、いつものように、するりと出てきかけた言葉を、飲み込んだ。
――こういう時に出てくる言葉は、たいてい、前にも使った言葉だ。
だから俺は、みっともない方を選んだ。
「……なんか、変な感じだ」
「褒めていないな、それは」
「褒めてる。褒めてるんだけど、うまく言えない」
「言え」
「言えないから困ってるんだよ」
俺は頭をかいた。
「なんていうか……お前が、その、普通に、そこにいるのが、変で。今まで見たことない絵で。悪い意味じゃなくて。むしろ逆で。だから、うまく言えないんだって」
我ながらひどい感想だった。
三年間、大陸中で女を口説いてきた男の言葉とは思えない。
リリスはしばらく黙っていた。
それから、そっぽを向いた。
「……そうか」
耳が、少し赤かった。
◆
会計は、二百八十セロだった。
俺は思わずマーサの顔を見た。この店で、この仕立てで、その値段はありえない。
マーサは俺と目を合わせて、ぱちりと片目をつぶった。
「まいどあり!」
リリスは硬貨を一枚ずつ、丁寧にカウンターに並べていた。八セロ余ったことに、少しだけ満足そうな顔をしていた。
俺は財布に手をかけたまま、結局、何もしなかった。
マーサは釣り銭を受け取らせてから、リリスに小さな包みを押しつけた。
「はい、これはおまけ」
「なんだ、これは」
「手袋。皿洗いするんだろ? 水仕事で手が荒れるからね」
「……なぜ知っている」
「あんたの手を見りゃわかるよ」
リリスは自分の手を見て、それから包みを見て、それからマーサを見た。
「……感謝する」
「またおいで」
◆
店を出ると、日が傾き始めていた。
リリスは新しい服のまま歩いていた。古い外套は畳んで抱えている。捨てていけばいいのに、と俺は思ったが、言わなかった。
「カイル」
「なんだ」
「服というのは、こんなに軽いものなのか」
「鎧と比べたらな」
「歩きやすい」
「そりゃよかった」
「……だが、落ち着かん」
「なんでだ」
「守られていない感じがする」
俺は少し考えてから言った。
「街の中じゃ、守る必要ないだろ」
リリスは足を止めた。
それから、小さく息を吐いた。
「……そうか。そうだな」
彼女は自分の手のひらを開いて、閉じた。剣を握るための手だ。今日は一度も、そうしていない手だ。
◆
――と、その時だった。
「カイルさーん!」
通りの向こうから、明るい声が飛んできた。
聞き覚えのある声だった。
聞き覚えが、ありすぎる声だった。
俺の背中を、猛烈な速度で冷や汗が伝った。
「カイルさん、やっぱりカイルさんだ! 探したんですよぉ!」
リリスが、ゆっくりとそちらを向いた。
そして、俺の方を向いた。
「知り合いか」
「……えーと」
「答えろ」
答えたくなかった。
人生で一番、答えたくなかった。
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