第七話 魔王の娘、時給十二セロ
翌日、俺は開店前の鉄床亭に来ていた。
止めに来たわけではない。止められるわけがないことは、昨日の時点でわかっていた。俺はただ、何が起きるのかを見届けに来たのだ。心配で眠れなかったとは、口が裂けても言わない。
厨房を覗くと、リリスがいた。
エプロンをしていた。
◆
「……なんだ、その格好」
「制服だそうだ」
白い前掛けが、黒い外套の上に無理やり結ばれている。頭の角がエプロンの肩紐に引っかかって、少し傾いていた。尻尾は行き場を失って、腰のあたりで所在なげに揺れている。
「肩紐、角に引っかかってるぞ」
「知っている」
「直さないのか」
「直し方がわからん」
俺は無言で近づき、紐を角の後ろから外してやった。リリスは黙って立っていた。
……近い。
いや、待て。落ち着け。これは作業だ。紐を外しているだけだ。
「終わったぞ」
「感謝する」
俺は三歩下がった。心臓が余計な仕事をしていた。
◆
ガドが桶を運んできた。中には汚れた皿が山になっている。
「よし嬢ちゃん、こいつを全部洗ってくれ。丁寧にな」
「承知した」
リリスが桶に手を伸ばした。
瞬間、水しぶきが天井まで上がった。
ばしゃん、がしゃん、ばきん。
三秒後、桶は空になっていた。
そして、床には皿の破片が散乱していた。
「…………」
「…………」
「……全部割れてるぞ」
「洗いはした」
「洗った後に割れてたら意味ねえだろ!」
「速度を優先した」
「優先しすぎだ!」
ガドが割れた皿を一枚つまみ上げ、しみじみと言った。
「三秒で四十枚。速さは文句なしだ」
「褒めるところそこか!?」
◆
リリスは真剣な顔で自分の手を見つめていた。
「……手加減だな」
「腕相撲の時も同じこと言ってたな」
「あの時は加減した」
「したうえでテーブル割ってたけどな」
「陶器は、あれよりもろい」
「そりゃそうだよ」
彼女は新しい皿を一枚手に取った。ゆっくり、水に沈める。指先が震えている。力を込めないための震えだ。
洗い上げるのに、一枚で三十秒かかった。
「……遅い」
「最初はそんなもんだ」
「三秒で四十枚洗えるのに、三十秒で一枚だ。効率が悪い」
「四十枚割ってるからな、その三秒」
リリスは黙って二枚目に取りかかった。
二枚目は二十秒。三枚目は十五秒。
十枚目には、割らずに五秒で洗えるようになっていた。
「……こいつ、化け物か」
俺の呟きに、ガドが真顔で頷いた。
「北はすげえな」
「北はすごいんだよ」
◆
昼が過ぎ、客が入り始めた。
俺はカウンターの端に陣取って、エールを一杯だけ頼み、あとはずっと厨房の方を見ていた。我ながら怪しい客だ。
問題が起きたのは、三時間目だった。
「おい嬢ちゃん、この皿、まだ油が残ってるぞ」
絡んできたのは、見覚えのある傭兵だった。三日前、腕相撲でテーブルごと吹き飛ばされた男だ。名前はゴズといったか。
リリスがゆっくりと振り向いた。
ゴズの顔が、一瞬で青くなった。
「……あ」
「もう一度、言ってみろ」
「い、いえ、なんでもないです。ピカピカです。人生で一番きれいな皿です」
「そうか」
「はい」
ゴズは全力で頷いてから、そそくさと席に戻っていった。
俺は頭を抱えた。
「おい、職場で威圧するな」
「威圧していない。聞き返しただけだ」
「聞き返し方に人生がかかる場面ってのがあるんだよ」
「……前にも聞いたな、それ」
「学習してくれ」
ちなみにゴズは、その後リリスの熱心な支持者になった。人間の心は複雑である。
◆
夕方になって、店は混んできた。
俺は相変わらずカウンターの端にいた。ガドに「旦那、そろそろ家賃を払ってもらおうか」と言われたが、無視した。
リリスは皿を洗いながら、時折、手を止めて客席の方を見ていた。
常連たちが、いつもの話をしている。
東の畑が今年は不作だとか。税がまた上がるらしいとか。息子が王都の織物工房に奉公に出たとか。娘の縁談が流れたとか。誰それの女房が三人目を産んだとか。
どうということのない話だ。この二十年、この店で毎日繰り返されてきたであろう会話だ。
リリスは、それをずっと聞いていた。
◆
閉店後。
ガドが革袋から硬貨を数え、リリスの手のひらに置いた。
「今日は六時間だ。七十二セロ」
銅貨が数枚と、小さな銀貨が一枚。
リリスは、それをじっと見ていた。
長い時間、見ていた。
昨日、彼女がカウンターに置いた革袋には、家が三軒建つ金貨が詰まっていた。四百年前に滅んだ王朝の紋章が入った、博物館級の代物だ。
今、彼女の手の中にあるのは、七十二セロだ。唐揚げが一皿と、エールが一杯。それで終わりの金額だ。
「……軽いな」
彼女はそう言った。
「まあ、時給だからな」
「そうではない」
リリスは硬貨を握った。
「重さの話をしている。あの袋より、こちらの方が、ずっと重い」
俺は何も言えなかった。
「意味がわからん」
「……そうだな」
「不合理だ」
「ああ」
「だが」
彼女は硬貨を握ったまま、少し黙ってから言った。
「悪くない」
◆
「約束通り、私が奢る」
リリスはカウンターに七十二セロを置いた。
ガドが数えて、少し困った顔をした。
「嬢ちゃん、これだと唐揚げ一皿とエール一杯だな」
「二人分にならんのか」
「ならねえな」
「……そうか」
彼女があからさまに肩を落としたので、俺は笑ってしまった。
「なんだ」
「いや、初日の給料で人に奢ろうとして足りないって、めちゃくちゃ人間らしくて笑った」
「笑うな」
「悪い悪い。じゃあ、分けて食おう。それでいいだろ」
「……よくはない」
「よくしろ」
結局、唐揚げ一皿を二人でつついて、エール一杯を交互に飲んだ。
どう考えても、前回より貧しい食事だった。
なのに、なぜか、前回よりうまかった。
◆
帰り道。
リリスが不意に足を止めた。
「カイル」
「なんだ」
「一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
彼女は月を見上げていた。
「お前たちの国は、魔王軍と戦争をしているのだろう」
「……してるな」
「では、なぜ誰も、その話をしない」
俺は足を止めた。
「今日、私は六時間、あの店にいた。人間の話を、ずっと聞いていた。畑の話。税の話。息子の話。縁談の話」
リリスはこちらを見た。
「一人も、魔王の話をしなかった」
喉の奥が、詰まった。
言われてみれば、そうだ。
俺は三年間、この大陸を歩いてきた。北から南まで、村から王都まで。そのどこでも、人々は畑の話をしていた。税の話をしていた。魔王の話をしていたのは、王城と、教会と、俺たち勇者パーティだけだった。
「……戦場が遠いからだろ。実感がないんだ」
「そうか」
「そうだよ」
「そうか」
リリスはそれ以上、追及しなかった。
だが、俺の方が、追及されているような気分だった。
◆
城の門の前で、彼女は振り返った。
「明日も、店に出る」
「働きすぎだろ」
「四十枚割った分を返さねばならん」
「弁償するのか」
「当然だ」
律儀すぎる。
俺は門の閉まる音を聞きながら、しばらくその場に立っていた。
――油断させて、隙をつく。
その作戦は、今日、一ミリも進んでいない。
進んでいないどころか、俺は今日一日、カウンターの端でエール一杯だけ頼んで、六時間ずっとあいつが皿を洗うところを見ていた。
……何をやってるんだ、俺は。
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