第三話 魔王の娘、エールを飲む
街道を歩きながら、俺は必死に候補を絞っていた。
王都の高級宿。却下。値段の前に、入口で身分証を出させられる。
冒険者ギルドの食堂。却下。俺の顔が知られすぎている。
教会の慈善食堂。論外。魔族を連れ込んだ瞬間、鐘が鳴る。
残ったのは一つだった。
城下町のはずれ、看板の文字が半分剥げている酒場『鉄床亭』。獣人も、エルフも、身元の怪しい傭兵も、全部まとめて受け入れる店。というより、誰も他人に興味がない店。
完璧だ。
「ここだ」
「……ずいぶん、みすぼらしいな」
「初対面の店にいきなり喧嘩売るな」
◆
木の扉を開けた瞬間、音の塊が押し寄せてきた。
笑い声。ジョッキがぶつかる音。誰かが下手くそな歌を歌っていて、別の誰かがそれを本気で怒鳴っている。油の匂いと、香辛料の匂いと、こぼれた酒の匂い。
リリスが足を止めた。
「……なんだ、これは」
「酒場だ」
「うるさい」
「そういう店なんだよ」
彼女は眉をひそめたまま、店内をゆっくり見回した。壁にかかった錆びた斧に一瞬視線が止まり、興味を失ったように前を向く。
俺は横目でその様子を観察していた。
――作戦は順調だ。
まず場所に慣れさせる。次に食事で警戒を解く。それから、少しずつ距離を詰める。三段階だ。焦るな。俺は勇者である前に、そこそこモテてきた男だぞ。
「カイルの旦那ァ! 久しぶりじゃねえか!」
カウンターの奥から、店主のガドが太い声を上げた。丸い腹に、丸い顔。いつも笑っているが、この男、元Aランク冒険者だ。酔っ払いを片手で持ち上げて外に放り出すところを、俺は三回見ている。
「今日は連れがいるんだな? おっ、かわいい嬢ちゃんじゃねえか!」
リリスの動きが止まった。
完全に、止まった。
「……かわいい?」
小声だった。ガドには聞こえていない。俺にだけ聞こえる声で、彼女は同じ言葉をもう一度確認していた。
「かわいい、と、今、言ったか」
「言ったな」
「五千年生きてきたが」
「うん」
「初めて言われた」
「そうか」
どう反応していいかわからなかったので、俺はとりあえずカウンターの席を指さした。
◆
問題が起きたのは、座った瞬間だった。
リリスが椅子に腰を下ろそうとして、途中で止まる。もう一度試みる。また止まる。
「どうした」
「……この椅子は欠陥品だ」
「三十年使われてる椅子に文句つけるな。何が問題なんだよ」
「尻尾が入らん」
「あ」
言われて初めて気づいた。青い鎧の下から、細い尻尾が一本出ている。背もたれのある椅子だと、根元が当たるらしい。
「魔王城の椅子は、全て背もたれに穴が空いている」
「そんな仕様だったのか、あの城」
「当然だ。文化の差だな」
「文化の差で片付けるには、あまりに具体的な話だな」
結局、隣の丸椅子を引っ張ってきて解決した。魔王軍の侵攻を止めるより、魔王の娘の着席を成立させる方が難しかった。
◆
「飲み物はエールでいいか」
「なんだそれは」
「飲めばわかる」
「答えになっていない」
「飲めばわかる、が答えなんだよ、こういうものは」
ガドが泡の溢れそうなジョッキを二つ置いていった。ついでに、リリスの角をちらっと見て、こう言った。
「珍しい種族の嬢ちゃんだな。北の方かい?」
「そうそう、北のほう」
俺は即答した。北。北でいい。北は広い。
周りの客も一瞬こちらを見たが、三秒で興味を失って自分の酒に戻っていった。この店には、耳が四つある男も、緑色の肌の女もいる。角が二本あるくらいでは誰も驚かない。
――作戦は順調だ。
「乾杯でもするか」
「なぜだ」
「なぜって、そういうもんだからだよ」
「理由のない儀式か」
「理由がない儀式を、人間は伝統って呼ぶんだ」
リリスは納得したのかしていないのか、とにかくジョッキを持ち上げて、俺のジョッキに軽くぶつけた。
そして、一口飲んだ。
彼女の目が、見開かれた。
「……口の中が」
「うん」
「しゅわしゅわする」
「うん」
「なんだこれは。面白いな。苦いが……悪くない」
六度俺を沈めた女が、エールの炭酸に感動している。
これを勇者の報告書にどう書けばいいのか、俺にはまったくわからなかった。
◆
料理も適当に頼んでおいた。この店は量が正義だ。
カリッと揚がった唐揚げ。厚切りのベーコン。香辛料をふりかけた芋。皿がカウンターに並んだ瞬間、リリスの視線が唐揚げに固定された。
一口。
沈黙。
「……うまいな、これ」
「だろ」
「お前は、こんなものをいつも食っているのか」
「いつもじゃないけどな。ここは飯がいいんだ」
リリスは二個目に手を伸ばし、三個目を口に運び、それから真顔で言った。
「この料理人、魔王城へ連れて帰っていいか」
「待て待て待て」
「なぜだ。厚遇する。専用の厨房と、部下を三十人つける」
「待遇が良すぎて逆に怖いんだよ! それに連れて行かれたら俺が困る」
「お前が困るのは、私の問題ではない」
「正論をそんな真顔で言うな」
◆
そこへ、ガドが戻ってきた。よりによって、最悪のタイミングで。
「ところで旦那、今日はいつもの仲間はどうしたんだい? この嬢ちゃんと二人きりかい? ひゅう、やるねえ!」
リリスが、唐揚げを飲み込んでから、口を開いた。
「あいつらなら、全員私が斬り伏せ――」
「実家! 実家に帰ってる!」
俺は椅子から半分立ち上がって叫んでいた。
「三人とも! 同時に! 実家に!」
「……三人同時に実家か。そりゃ珍しいな」
「珍しいだろ! 俺も驚いてる!」
ガドは首をひねりながらも、笑って厨房へ引っ込んでいった。
俺は椅子に沈み込み、リリスを睨んだ。
「おい」
「なんだ」
「殺してないだろ、あいつら」
「殺していない」
「じゃあ言い方を選べ」
「事実を述べただけだ」
「事実の述べ方に人生がかかる場面ってのがあるんだよ」
リリスは少し考えてから、真面目な顔で頷いた。
「覚えておこう」
覚えられても困る。
◆
その後、隣の席にいた酔った傭兵が「そこの角の姉ちゃん、腕相撲しようぜ」と絡んできた。
俺が止める間もなく、リリスは応じた。
勝負は〇・二秒で終わった。傭兵の腕はテーブルに叩きつけられ、テーブルが割れ、傭兵は泣きながら仲間に運ばれていった。
店内が一瞬静まり返り、それから拍手が起きた。
「北の女は強えなァ!」
「北はすごいな!」俺も拍手した。北は本当にすごい。
リリスは自分の手のひらを見つめていた。
「……手加減した」
「してあの威力かよ」
「テーブルは弁償する」
「そこはちゃんとしてるんだな、お前」
◆
「ところでお前、普段は何を食ってるんだ」
二杯目のエールを傾けながら、俺は何気なく聞いた。何気なく、聞いてしまった。
「……命知らずに挑んでくる奴ら、かな」
俺はジョッキを置いた。
「聞かなきゃよかった」
「冗談だ」
「今の冗談か!?」
「半分な」
「半分がいちばん怖いんだよ!」
リリスの口の端が、ほんのわずかに上がった。
……笑った。今、こいつ、笑ったか?
俺は自分の胸のあたりが、少しだけ落ち着かなくなったのに気づいた。
いや、待て。落ち着け。
これは作戦だ。油断させて、隙をつく。そのための時間だ。順調なんだ。順調に――
順調に、進んでいるはずだった。
なのになぜ、俺は三杯目を頼もうとしているんだろうな。
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