第二話 戦闘中に食事に誘う奴がいるか
「腹、減ってないか?」
俺がそう言ってから、リリスが口を開くまで、たっぷり十秒はあった。
その十秒の間、彼女は一度も瞬きをしなかった。剣を構えたまま、俺の顔を、まるで壊れた魔道具の内部でも覗き込むような目で見ていた。
「……は?」
「腹だよ、腹。減ってないかって聞いてる」
「減っていないと言ったら、どうする」
「そうか、じゃあ仕方ないな、で終わりだ」
リリスの眉間に、この日初めての皺が寄った。六度戦って一度も見なかった表情だ。少なくとも、俺の剣ではこの顔は引き出せなかった。
◆
「毒か」
彼女は剣を下ろさないまま言った。
「毒じゃない」
「では罠だな。私を城の外へ誘い出し、人間の軍勢で包囲する。あるいは酒を飲ませて意識を鈍らせ、寝首を掻く」
「…………」
俺は黙った。正直に言えば、後半はだいたい合っている。
「なぜ黙る」
「いや、お前がすごく真面目に考えてるから、口を挟むのが悪いと思って」
「答えろ」
「そんな面倒なことするか。人間の軍勢を動かすのにどれだけ書類がいると思ってるんだ。お前一人を囲むのに、三ヶ月はかかる」
リリスの目が、わずかに泳いだ。どうやら人間の官僚制度は彼女の想定外だったらしい。
「……新種の呪術か」
「まだ疑うのかよ」
「疑う。当然だ」彼女は剣先をこちらに向け直した。「六度、私に敗れた男が、七度目に武器を下ろして食事の話をする。これを疑わない者がいたら、そいつは千年生きられん」
正論すぎて言い返せなかった。
◆
こういう時、下手に取り繕うと終わる。町娘相手でもそうだ。焦った瞬間に全部見透かされる。
だから俺は、剣を鞘に納めた。両手を軽く広げてみせる。
「じゃあ聞くけどな、リリス。俺が今ここでお前に勝てると思うか?」
「思わん」
「即答かよ」
「事実だ」
「だろ。俺もそう思う」俺は肩をすくめた。「勝てない。あと三回来ても勝てない。たぶん十回来ても勝てない。だったら今日くらい、剣を振らない日があってもいいだろ」
リリスは答えなかった。
回廊の天窓から差す光が、彼女の銀髪の上を、ゆっくり動いていく。ずいぶん長い時間が経った気がしたが、実際は十数秒だったのかもしれない。
「……理解できん」
彼女はそう言って、剣を鞘に納めた。
金属が擦れる、短い音。それが妙に大きく回廊に響いた。
「お前の目的がわからん。目的がわからん相手を、私は五千年ぶりに見た」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
「褒めていない」
◆
「条件がある」
リリスは歩き出しながら言った。俺の横をすり抜けて、玉座とは逆の方向へ。つまり、出口へ。
――待て。今、こいつ、歩き出したか?
「一つ。変な動きをしたら、その場で斬る。弁明は聞かん」
「妥当だな」
「二つ。私の正体を明かすな。面倒になる」
「そりゃそうだ」
「三つ」
彼女は立ち止まり、振り返った。
「まずいものを出したら、斬る」
「……三つ目だけ重くないか?」
「重い」
真顔だった。冗談を言っている顔ではなかった。というより、俺はこの女が冗談を言えることをまだ知らなかった。
◆
城門を出たところで、俺はようやく我に返った。
隣を歩いているのは、魔王の娘だ。二本の角があって、深い青の鎧を着ていて、腰には俺を六回沈めた剣を提げている。
これから、この女と、飯を食いに行く。
……どこへ?
「おい」
「なんだ」
「行き先は考えてあるのだろうな」
「もちろんだ」
嘘だった。何も考えていなかった。作戦は「誘う」で終わっていて、「誘えた後」が一行も書かれていない。
俺の頭の中では、猛烈な速度で候補が並べられ、片っ端から消されていった。王都の宿屋は論外。冒険者ギルドの食堂も論外。教会が経営している店なんてもってのほかだ。
角。この角をどうする。
「歩きながら決める」
「行き当たりばったりだな」
「柔軟と言え」
リリスは小さく息を吐いた。呆れたのだと思う。だが、そのあとに続いた言葉は、少しだけ違った。
「五千年ぶりだ」
「何がだ」
「次に何が起きるかわからん、という状況がな」
彼女は前を向いたまま、それきり何も言わなかった。
俺はその横顔を見て――ほんの一瞬だけ、自分が今から何をしようとしているのかを、忘れそうになった。
いや、忘れるな。
油断させて、隙をつく。それだけだ。
俺は自分にそう言い聞かせて、日暮れの街道を歩き出した。
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