第一話 勝てないので、口説くことにした
俺の名前はカイル。この世界で「勇者」と呼ばれている男だ。
幼い頃から剣を握らされ、村中の期待を背負って鍛えられた。おかげで俺は確かに強くなった。魔物を斬り、名を上げ、仲間を集め、三年かけて大陸を横断し、ついに魔王城の門をくぐった。
そこまでは、すべて筋書き通りだった。
問題は、玉座へ続く回廊の真ん中に立っていた、たった一人の女だ。
◆
「六度目だな、勇者カイル」
銀髪が、割れた天窓から差す月明かりを跳ね返している。深い青の鎧。額から伸びた二本の角。魔王の娘、リリス。
俺は剣を構え直した。構え直した、と思った瞬間には、もう彼女は俺の懐にいた。
「――っ!」
見えなかったわけじゃない。見えていた。見えていて、間に合わなかった。剣で受けたはずの一撃が、剣ごと俺の体を回廊の壁まで運んでいく。背中で石壁が砕ける音を聞いた。
「ガロン! ミラ!」
叫んで、俺は自分の失言に気づいた。呼んだところで、返事はない。
戦士のガロンは十歩先で倒れている。魔術師のミラは詠唱を三小節も進められないまま床に転がり、僧侶のノエルは杖ごと弾き飛ばされて柱の根元で丸くなっていた。
全員、五秒だ。たった五秒で沈められた。
「安心しろ。生きている」
リリスが剣を軽く振って言った。刃ではなく、背の側。峰打ちだ。
「……なんで、殺さない」
「なぜ殺すと思った?」
彼女は不思議そうに首を傾げた。その仕草だけは、なぜか年頃の娘のように見えた。
「殺す価値もない、ってことか」
「好きに解釈しろ」
会話が終わると同時に、彼女の姿が消えた。次に俺が認識したのは、自分の膝が石畳を打つ感触だった。剣はいつの間にか手を離れ、五メートル先で回転しながら止まっている。
肺が言うことを聞かない。喉の奥が鉄の味でいっぱいだ。
六度目。
六度、この城に来て、六度、この女の前で膝をついた。傷はいつも致命傷の一歩手前で止まる。まるで、こちらの限界を正確に測られているみたいに。
「立て。まだやるのだろう」
「……当たり前だ」
俺は剣に手を伸ばした。伸ばして、届かなかった。指先が三十センチ手前で震えている。
「今日はここまでだな」
リリスは剣を鞘に納めた。それが何より屈辱だった。彼女は一度も、本気の顔をしていない。
「勇者カイル。お前は強い。人間の中では、という但し書きがつくがな」
「褒めてんのか、それ」
「事実を言った」
彼女は俺に背を向けた。銀の髪が揺れる。
「七度目も来るがいい。私は退屈している」
◆
城の外へ這い出して、俺は仲間三人を担いで丘まで下がった。ミラが薄目を開けて「ごめん」とだけ言って、また気を失った。
焚き火を起こしながら、俺は考えていた。
勝てない。
これは根性論でどうにかなる差じゃない。剣の速度が違う、判断が違う、そもそも積み上げてきた年月が違う。あと十年鍛えても届く気がしない。十年後には人間の国が二つ三つ消えている。
じゃあ、どうする。
正攻法で勝てない相手に、どう勝つ。
薪が爆ぜた。火の粉が舞い上がって、夜空に消えた。
――待てよ。
俺は自分の手のひらを見た。剣を握るための手だ。だが、俺が今まで手に入れてきたものは、剣だけで手に入れたわけじゃない。
自分で言うのもなんだが、俺はそこそこ顔がいい。おまけに「勇者」という肩書きがある。救った町では感謝され、宴に呼ばれ、いわゆる勇者補正も効いて、それなりにモテてきた。町ごとに恋人ができる程度には。
……使えるんじゃないか?
「いや、待て。落ち着け」
俺は声に出して自分を止めた。相手は魔王の娘だ。五度も六度も俺を叩きのめしてきた化け物だ。そんな女を口説く? 正気か?
だが、と、火を見つめたまま考える。
彼女は俺を殺さなかった。六度も、殺せる場面で殺さなかった。そして最後にこう言った。
――私は退屈している。
隙は、剣の届く距離にはない。もっと別のところにある。
惚れさせる。油断させる。無防備になった一瞬に、確実に仕留める。
卑怯か。ああ、卑怯だ。勇者のやることじゃない。
だが俺は、後ろで気絶している三人を、もう一度あの回廊に連れて行きたくない。
「……よし」
俺は立ち上がった。膝が笑ったが、無視した。
◆
七日後。俺は再び魔王城の回廊に立っていた。仲間は置いてきた。
「来たか。今日は一人か」
「ああ」
リリスが剣を抜く。俺も抜いた。抜いて――そのまま、下ろした。
彼女の眉が、わずかに動く。
「なんのつもりだ」
「なあ、リリス」
俺は、この三年で一番緊張していた。魔王城の門をくぐった時より、竜の口に突っ込んだ時より、緊張していた。
息を吸って、言った。
「腹、減ってないか?」
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