第二十一話 応答せよ
四人が入ってきたのは、店が一番混む時間だった。
卓は全部埋まっていた。ゴズが仲間三人と腕相撲をしていて、隅では応援する会が会報の校正をしていた。会長のニナ、会計のマレナ、書記のエルザ、会報担当のソフィ。卓の上に紙が広げてある。
鉄床亭の中に、二十人はいた。
それが、狙いだった。
◆
四人は武器を抜かなかった。
旅装で、腰に短い剣を吊っている。よくいる冒険者の格好だ。だが、店に入って席を探さなかった。真っ直ぐ、厨房のほうを見た。
先頭の男が、大きな声で言った。
「この店に、魔王の娘がいる」
店の音が止まった。
厨房の暖簾の向こうで、皿を洗う音も止まった。
「証拠がある」
男は紙を一枚、頭の上に掲げた。
「王城の報告書だ。先月、三番通りが破壊された。石畳四十七枚、噴水一基、天幕十一張り、屋根瓦二十三枚。魔族による攻撃と分類されている」
誰も動かなかった。
「その魔族は、この店で働いている」
◆
俺は入口の脇にいた。
剣は腰にある。門で返してもらった、三年間持ち歩いてきた剣だ。
手をかけて、そこで止まった。
この男たちは、リリスを殺しに来たのではない。
殺すつもりなら、こんな時間に、こんな人数の前で名乗らない。夜道で背中を狙う。刺客とはそういうものだ。
こいつらは、証人を集めに来ている。
四人がかりで魔王の娘に襲いかかり、一人でも彼女に殺されれば、それで足りる。二十人が見ている。書記官のいる国だ。証言は帳面に載る。四つの様式で載る。
二百四十年が、本物になる。
◆
暖簾が上がった。
リリスが出てきた。前掛けをつけたまま、手はまだ濡れていた。
男たちが一歩下がった。角を見たからだ。
「私だ」
リリスは言った。
「話があるなら聞く」
「話などない」
先頭の男が剣を抜いた。あとの三人も抜いた。
俺は動こうとした。
その前に、ガドが動いた。
◆
カウンターの内側から、丸い体が跳んだ。
跳んだ、というのが一番近い。あの体で、卓を二つ飛び越えた。
先頭の男の手首を掴んで、ひねって、剣を落とさせて、襟を掴んで、床に伏せさせるまでが、たぶん三秒だった。
店の誰もが、ガドが元Aランクの冒険者だったことを、今日まで話でしか知らなかった。
「うちの店で、抜くんじゃねえ」
ガドは男の背中に膝を乗せたまま、残りの三人を見た。
「それとな」
彼は顎で厨房を示した。
「うちの従業員に手ェ出したら、俺が相手だ」
リリスが、ガドを見た。
「……従業員」
「そうだ」
「私は、」
「知ってる」
ガドは男を押さえたまま、顔も上げずに言った。
「初日からだ」
「初日」
「角が生えてる客なんざ、五十年やってて初めてだったからな」
◆
三人が同時に動いた。
一人がガドへ。二人が厨房へ。
俺は剣を抜いた。
抜いてから、自分が何をしたのかを理解した。
刃が向いている先にいるのは、人間だった。
三年間、俺はこれを一度もやっていない。魔物を斬った。盗賊は峰で打って縄をかけた。崖を掘り、川を堰き止めた。人間に刃を向けたことは、一度もない。
「勇者様」
男が止まった。俺の顔を見て、本当に驚いた顔をしていた。
「あんた、勇者カイルだろう」
「そうだ」
「なんで、そっちに立ってる」
俺は答えなかった。
答えれば、それも証言になる。勇者が魔族の側についた。二十人が見ている。それもまた、向こうの勝ち筋だ。
斬っても駄目だ。斬らなくても駄目だ。
俺は、詰んでいた。
◆
「カイル」
リリスの声だった。
「剣を下ろせ」
「下ろしたら、お前が」
「私は死なん」
彼女は前掛けの紐に手をかけていた。
「だが、下ろさねば、お前が終わる」
「終わっていい」
「よくない」
リリスは俺の前に出た。
二本の剣が、彼女に向いていた。
俺は五千年生きた魔王の娘の背中を見ていた。彼女はこの三ヶ月、皿を四十枚割り、時給十二セロで働き、十二万セロを四年半かけて返すと言い、南の谷の果実の話で尻尾を膨らませた。
その背中が、二人の人間の前で、何もしないと決めていた。
殺せば、二百四十年が本物になるからだ。
◆
「エルザ」
店の隅から、低い声がした。
「外の三人、動いた。合わせて七人」
エルザは紙に何か書いていた。会報の校正をしていた紙の裏だ。
「ニナ、名簿」
「はい!」
「会員十四名、客が六名、店の者が二人。全部で二十二。裏口から順に出す。マレナ、数えて」
「わかった」
「ソフィ、書いて。人数、時刻、風体。四人は短剣、外の三人は不明。あとで王城に出すから、様式は問わない」
応援する会は、三ヶ月前に、カイル様語録を日付と場所つきで二十二件突合した集団だった。
彼女たちは、記録を取るのが本当に速かった。
◆
二人が踏み込んだ。
リリスは動かない。
俺は剣を握り直した。人間を斬るしかない。斬れば負けだが、斬らなければ彼女が斬られる。斬られた彼女が何もしないという保証は、俺にはなかった。
その時、店の入口が、静かになった。
音が消えたのではない。
音が、届かなくなった。
◆
天井の梁が、みしり、と鳴った。
卓の上の皿が一斉に震え、エールの表面が細かく波打った。ランプの炎が、風もないのに縮んだ。
入口に、男が立っていた。
背が高い。角が四本、後ろに向かって伸びている。髪は黒く、こめかみのあたりだけ白い。
着ているものは、マーサの店で言えば中の上、というところだった。
「父上」
リリスが言った。
「片付けものが遅いと思ってな」
魔王は店の中を見渡した。
二十二人と、抜き身の剣が四本。押さえつけられた男が一人。
そして、笑った。
◆
店の全員が、床に落ちた。
膝から抜けるように落ちた者もいれば、卓に手をついてから崩れた者もいた。ゴズが落ち、腕相撲の相手が落ち、応援する会の四人が落ち、客が落ちた。ガドは押さえていた男ごと、片膝をついた。
俺も床に手をついた。
三日前、玉座の間で、俺は椅子から立てなかった。あれは俺一人に向けられていた。指を一本動かすこともできなかった。
今は違う。
店ごとに広がった分だけ、薄い。息ができる。手が動く。
立てはしないが、伏せることはできる。
◆
一人だけ、立っていた。
剣を抜いていた三人のうちの一人だ。若い男だった。腰が落ちて、膝が笑って、それでも上体が起きたまま止まっていた。伏せ方が分からないのだ。
目が、開いたままだった。
その男の足元の床石に、細い罅が走った。
俺は自分の喉から声が出るのを聞いた。
「伏せろ!」
男がこちらを見た。何を言われたのか分かっていない顔だった。
「いいから伏せろ! 頭を下げれば終わる!」
男は膝を折った。額を床につけた。
罅は、そこで止まった。
◆
誰も、死ななかった。
血が一滴も流れていない店で、二十二人が床に頭をつけていた。
第二十二条。陛下が笑われた場合、直ちに平伏せよ。
この店で、その条文を知っている人間は一人しかいない。
俺は四十七条を、貴族の作法だと思って覚えた。三日前まで、そう思っていた。
あれは作法ではない。
八百年、この男に仕えてきた事務屋が、陛下の前で人が死なないように書いた四十七行だ。
俺は床に額をつけたまま、ザガンに借りを作ったことを理解した。
◆
光が戻った。
空気が軽くなり、皿が鳴りやみ、ランプの炎が元の大きさに戻った。
誰も立ち上がらなかった。立ち上がっていいのか分からなかったからだ。
魔王は店の真ん中まで歩いて、剣を抜いていた男の前で足を止めた。
男は床に額をつけたまま、震えていた。
「顔を上げなさい」
男は上げた。
「私が魔王だ」
店の中で、誰かが息を呑んだ。
「二百四十年、そちらの国と戦争をしているそうだな」
男は答えられなかった。
「八百年、そちらは年に一度、書状をくれた。中身は毎回、一行だった」
魔王は懐から、一枚の紙を出した。
古い紙だった。俺は昨日、それと同じものを書庫で見た。
「『応答せよ』」
魔王は紙を、床の男の前に置いた。
「応答しに来た」
◆
誰も動かなかった。
「返書は八百年分ある。全部同じことが書いてある。我らは貴国と交戦していない、使者の安全を保証する、話し合いを望む」
魔王は男を見下ろしていた。怒鳴ってはいなかった。声を荒らげてもいなかった。
「一通も届いていないらしい」
「…………」
「そちらの城には、書いたものを捨てん決まりがあると聞いた」
男の唇が動いた。声にはならなかった。
「持って帰りなさい」
魔王は言った。
「私が言ったと、そのまま伝えればいい。誰に伝えるかは、そちらで決めろ」
◆
男たちは剣を置いて、出ていった。
誰も追わなかった。ガドが手を離し、エルザが人数を数え直し、ニナが名簿に印をつけた。ソフィが手の震えを押さえながら、まだ書いていた。
店の中に、二十二人が残った。
誰も口をきかなかった。
最初に喋ったのは、ゴズだった。
「……あの、姐さん」
「なんだ」
「姐さんの、親父さんっすか」
「そうだ」
「……でけえっすね」
「そうだな」
ゴズは床に座り込んだまま、それだけ言った。
誰かが笑った。誰の笑いかは分からなかった。それから、少しずつ、店の音が戻ってきた。
◆
ガドがカウンターに戻って、エールを注いだ。
一杯目を、魔王の前に置いた。
「うちで一番古いのは六年物です」
「もらおう」
魔王はそれを飲んだ。
飲んで、しばらく動かなかった。三日前に唐揚げを食った時と、同じ止まり方だった。
「……六年か」
「六年です」
「短いな」
「短いですかね」
「短い」
魔王はもう一口飲んだ。
「だが、悪くない」
◆
俺は入口の脇に立ったまま、剣を鞘に戻せずにいた。
抜いた刃が、まだ手の中にある。
斬らなかった。斬れなかったのではなく、斬る前に終わった。それだけだ。もし魔王が来なければ、俺は今頃、この店の床で人間を斬っていた。
リリスが横に来た。
「剣を」
「……ああ」
「握りっぱなしだ。手が白い」
俺は鞘に戻した。金具が鳴った。
「カイル」
「なんだ」
「お前は、剣を向けた」
「向けた」
「人間に向けた」
「……ああ」
リリスは俺の顔を見ていた。真顔だった。
「なぜだ」
俺は答えようとした。
三年間の在庫を探した。町ごとに、女ごとに使ってきた言葉が、頭の中に全部並んでいる。この場面に合う、きれいな言葉が、いくらでもあった。
全部、使えなかった。
「……三十皿の話を、俺が喋ったからだ」
「それだけか」
「それだけだ」
リリスの尻尾が、一度、ゆっくり動いた。
「そうか」
◆
その夜、店を閉めたあとで、ミラが入ってきた。
ガロンとノエルも一緒だった。三人とも、走ってきた顔をしていた。
「遅かったな」
「三番通りが人だかりでね」
ミラは俺の顔を見て、それから店の中を見た。ガドが割れた皿を片付けている。壊れた卓が一つ。血は一滴も落ちていない。
「……誰も死んでないの」
「誰も死んでない」
「そう」
ミラは杖を担ぎ直した。
「死なないでよ。どっちも」
「言われたな、それ」
「二度目だからね。三度目はないよ」
ノエルが店の隅で、伏せたまま動けなくなっていたゴズに治癒をかけていた。
「これ、罪悪感には効かないんですけど」
「腰だ! 腰にかけてくれ!」
ガロンは、入口に立ったまま動かなかった。
「なあ、カイル」
「なんだ」
「俺、今から魔王に挨拶していいか」
「……なんでだよ」
「いや、いるだろ。そこに」
ガロンは真面目な顔をしていた。
「三年追いかけてた相手が目の前にいるんだ。何か言わないと、失礼だろ」
俺は少し考えた。
それから、こいつは三年間、一度も俺の嘘を疑わなかった男だということを思い出した。
「行ってこい」
「おう」
ガロンはまっすぐ歩いていって、魔王の前で頭を下げた。
「はじめまして。戦士のガロンです」
魔王はエールを置いて、頭を下げ返した。
「はじめまして」
◆
俺はその光景を、入口の脇から見ていた。
二百四十年、誰も会わなかった。
会わせないことが、戦争の作り方だった。
今、酒場の卓を挟んで、脳筋の戦士と魔王が挨拶をしている。
三十秒で終わることだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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